漱石がなぜ小説を書くようになったかを振り返ってみると、彼が漢詩をやりたかった理由も想像できる。漱石は英文学の先生として文部省から最初にイギリスに派遣された人、帰国後は英文学の総大将になる立場だった。東大ではラフカディオ・ハーンがイギリス文学を教えていたが、その後を継ぐべき人として嘱望されていた。ところが、漱石はイギリスに留学してみると、自分の持っていた文学の概念とイギリスの文学の概念が全く違っていた。漱石が文学と思っていたのは左国史漢、つまり「春秋左氏伝」「国語」「史記」「漢書」といった全てシナの歴史書であった。歴史書が名文だったので当時の日本では文学として扱われていた。そのように上智大学の名誉教授だった故渡部昇一氏が述べていた。
イギリスに留学して漱石はジェーン・オースティンなどの小説を教えられた。西洋では、それが文学であった。当時のオックスフォードでは、シェークスピアの講座もなかった。漱石は、西洋でこれを文学と呼ぶならこんなものに一生を捧げてはたまらないと思ったようだ。文部省から費用を出してもらって留学しているので、一応、英文学を学んで帰国した。彼は頭の鋭い人なので、小説を文学と呼ぶのなら自分で書いたほうがいいと思ったようだ。書いてみたのが「我が輩は猫である」、俳句雑誌「ホトトギス」に軽い気持ちで投稿した。猫から見た知識人の話を書いただけだが、大変な人気になってしまった。続いて「坊ちゃん」などを書いた。これなら行けるかもしれないという気持ちになり、東大の先生を辞めて小説家になった。当時の日本で小説家の社会的ステータスを向上させた人物は漱石と森鴎外の二人かもしれない。森鴎外も東大医学部を出て間もなくドイツに4年間留学し、陸軍の軍医として重きをなした人だ。
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漱石が「こころ」を書いたのは47歳の頃、若い頃は奥が深いと思って読んだが、今はそうとも思えない。ただ、漱石の漢詩には感服する。彼は漢詩をつくり続け、死ぬ直前までつくっていた。漱石の小説は傑作といわれているが、内容は重苦しいものが多い。漱石は最後に「明暗」という小説を書いているが、非常に重苦しい小説。漱石は、そういう小説づくりに耐えきれなかったのか、晩年には毎日のように七言律詩をつくっている。本当は、小説よりも律詩をつくりたかったのではないかとさえ思えてくる。
さて、「三四郎」という小説、九州から東京帝国大学に入学するために上京した三四郎が野々宮に会った後に、行ったのが大学構内にある池、そこで美禰子(みねこ)と運命的な出会いをする。このとき2人の恋は始まったのか。三四郎が上京する折に名古屋で偶然一夜を共にした女から「あなたは余っ程、度胸のない方ですね」といわれる。「度胸のない」とは「踏み超えられない」ということ、三四郎と美禰子との恋は「踏み超えられない男」と「踏み超えようとする女」との格闘のようでもある。
美禰子が三四郎に貸した30円のこと、三四郎は与次郎に20円貸したのだから美禰子は三四郎に20円貸せばよかったが、実際は30円貸した。30円、30に意味があるのか、30といえば聖書にその意味するところがある。ユダはキリストを銀貨30枚で裏切った。つまり、ユダは銀貨30枚で魂を売りわたした。美禰子は敬虔なクリスチャンであり、聖書にある迷える羊を引用して自らを迷える羊といっている。美禰子は三四郎に30円貸すことによって彼の魂を買った。逆にいえば三四郎は美禰子に魂を売った。魂を売ったのだから三四郎は踏み超えなければならなかったはず。美禰子が30円を返してもらうことにこだわらなかったのは、返してほしくなかったからだ。
三四郎は何もできずに、インフルエンザにかかり、その間に美禰子の結婚が決まる。30円のお金は美禰子のもとへ戻る。美禰子とは一体どんな女なのか。漱石にいわせると「無意識の偽善者」らしい。「意識した悪魔的な女」といえなくもない。「悪魔的」とは「踏み超えよう」とすることだ。しかし、三四郎も美禰子も踏み超えなかった。踏み超える直前で学生・知識人を含め、いろいろな人が滑稽なほど右往左往する。なぜ三四郎は踏み超えられなかったのか。それは与次郎、広田先生、母親そして三輪田のお光などがいる世界に三四郎がいたからだ。特に、お光が強力な磁石となって三四郎を別の世界に行かせなかった。
「三四郎」の中では、お光はみごとなかくし味となって緊張感をときほぐす。漱石の演出のうまいところだ。ことあるごとに母親から手紙がきて、お光のことが触れられている。お光は美禰子とは対極に位置する女だ。ピアノもバイオリンもひかない、英語もわからない。綿入を縫うのが得意だ。おまけに色が黒く、香水はつけたことがない。結局、三四郎はお光のいる世界に踏みとどまる。「三四郎」の中では美禰子1人だけが別の世界にいる。美禰子は百匹の羊のうちの迷い出た1匹の羊であった。なぜ美禰子は迷ったのか。彼女自身が告白している。「われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」 漱石はもともと美禰子を罪あるものとして設定している。三四郎は美禰子を救ってやれない。結婚しても彼女の罪は消えない。美禰子の罪とは何か。これは漱石文学の核心をなす部分だ。
「それから」以降の作品で、この罪との血みどろの戦いが始まる。それでも漱石は美人で罪があって孤独な悪魔的な女を創りあげた。夏目漱石の「それから」はその前に書いた「三四郎」のそれからを扱ったという理由でタイトルが決まったらしい。「三四郎」「それから」「門」は3部作といわれる。その3部作の中心テーマは「男と女のつながり」。「つながり」は恋愛関係というか、「恋愛関係のあり方」といえるかもしれない。これら3部作において、「三四郎」にはユーモアがあるが、「門」は暗い。「それから」はその2つの作品の間にあり、ユーモアと暗さの間にある。
「それから」の主人公代助は30歳近くなるのに、未だに親がかりで職についていない。代助は職に就かない自分を理屈で正当化する。代助は働かない理由を世の中のせいにしている。「それから」は、ある意味で漱石の代表作であり、作品の中に高等遊民という人種を創造し、不倫を扱った小説だ。漱石の生きた時代、姦通(不倫)は法律によって罰せられた。漱石は小説の主人公に法を犯させる。長井代助は大学を卒業しても職に就かないで毎日読書をして生活していた。彼の父親は実業家である。代助の兄の誠吾が父の後継者であり、父と一緒になって会社を切り回している。代助は父から毎月生活費をもらって家を構えて悠々自適の生活を送る。
ある日、友人の平岡が関西から妻の三千代を伴って上京する。遊びのための上京ではなく、勤めていた銀行をやめての上京だ。平岡にはかなりの借金があり無職なので、平岡夫婦の生活は窮し、そして夫婦の関係は荒んでいた。代助と平岡は大学時代の同級生であり、彼らの共通の友人が三千代の兄であった。三千代の兄は大学在学中に亡くなった。代助は平岡と三千代が夫婦になるのを応援したが、実のところ、代助は三千代のことを愛していた。三千代も代助のことを愛していた。3年ぶりに会った三千代は生活苦の中におり、平岡の三千代に対する愛情も薄れていた。代助は三千代を愛していることをはっきりと自覚し行動で示す。
代助の父が縁談をすすめても、代助ははっきりとそれを断る。代助は平岡に自分の三千代に対する気持を打ち明け、三千代をくれと迫る。平岡は代助と三千代に裏切られた思いがする。平岡は代助と三千代のことを代助の父に手紙で知らせる。代助は完全に父の手から自立しなければならない。代助は狂気の状態になり、物語の最後、「僕は一寸職業を探して来る」といって家を出る。代助の行動は異常である。父親のすすめる通り縁談に応じていれば、代助は上等の地位を得、裕福な生活ができたのだが、代助はそれをしなかった。代助は自分の主観的真実に忠実であった。主観的真実に忠実とは「自然」な状態ともいえる。「それから」のテーマは漱石文学のテーマの1つである「自然」対「制度」の構図の上に成り立っている。代助の行動は「坊っちゃん」の坊っちゃんの行動と似ているともいえる。心が命ずるままに全てを投げ打って行動する。そこに打算の入る余地はない。
「三四郎」においては、美禰子は三四郎を愛していながら、三四郎は美禰子を奪おうとはしなかった。三四郎は初心(うぶ)だった。ところが、「それから」においては、代助は愛する人を奪おうとする。それは制度を犯す行為であった。それは「門」であきらかになる。
「門」は「それから」の次に書かれた作品だ。「三四郎」「それから」「門」の3部作の最後になる。漱石もそう意識して書いたのであろう。
「それから」は主人公の代助が友人の妻を奪って狂気状態になり、街にでて仕事を探すところで終わる。「門」は「三四郎」に見られるユーモア、「それから」に見られる若々しさはない。暗い小説である。「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「三四郎」とは趣がまるで違う。灰色の世界だ。森鴎外の作品と同じで、暗いといわれている漱石の小説でも味わい深い作品。生きるということの根源的なものを感ずる。
「門」の主人公は野中宗助。宗助は裕福な家庭の長男として生まれ、何不自由のない身で育つ。大学は京都帝国大学。大学で最も親しい友人は安井であった。安井は一軒家を構え、同居している妹を宗助に紹介した。妹というのは嘘で、安井の妻になる人であった。名を御米といった。宗助と御米は恋に落ち、2人は逃げるように京都を去った。当然宗助は大学をやめる。宗助は地方を巡って、あるところで偶然大学時代の友人に出会い、彼の斡旋で東京の役所に勤める。宗助と御米は東京の街の片隅で人を避けるように生活している。2人には子供がなかった。御米は3人の子を身ごもるがいずれもこの世で生を享受することができなかった。これを御米は天罰だと思った。
過去のことは2人の間では話題にのぼらない。2人は仲がよい。宗助が声を荒げたことは一度もない。傍目には幸せそうな家庭だ。大きな事件も起こらない。気がかりなのは宗助の弟の小六のこと、小六は高等学校の生徒で、おじに預けていた父の遺産で学費・生活費を賄(まかな)っていたが、おじが死んで学業を続けていくのが困難になる。父が死んだとき兄である宗助が遺産の処分をおじにすべてまかせたのが原因であると小六は密かに思っている。
ある日、宗助は親しくしている家主の坂井から、坂井の弟を宗助に紹介したいといってきた。坂井の弟は満州で実業家みたいなことをしていた。弟が仕事仲間の安井という男と一緒に坂井の家にくるから2人を宗助に合わせたいという。宗助は驚いた。安井という名前を聞いて頭に血が上るような気持になる。宗助は御米には何もいわずに悩みに悩み、結局、鎌倉の禅寺に参禅しようと思い立つ。寺の塔頭(たっちゅう)に数日間住んで座禅したり、和尚の講和をきいても悩みは解消されない。宗助は東京に戻る。坂井の弟はすでに満州に帰っていた。季節は冬から春になる。御米は春になったことを喜ぶが、宗助はまた冬が来るさとすましていう。そして、物語は終わる。過去の罪を背負ってひっそり生活する宗助と御米。その罪は償いようがない。2人は苦しみながら黙々と生活していく。苦しみから逃れるすべもない。「生きることは苦しむことだ」と漱石はいいたかったのかもしれない。人生に対する漱石の悟りは、消極的にすら見える。
漱石は、イギリスへ留学したが、やはり文学がわからない苦悩で、神経衰弱になった。ひとつの目覚めがあった。「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作りあげるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。」と。「自己本位」で行こうと思った時、心が軽くなり、今までにない学問の使命感に燃えた。自己本位の『文学論』を著述するのを「私の生涯の事業としようと考えたのです」(『私の個人主義』より)
漱石は新しい使命に燃えて帰国したが一族の困窮が待っていた。衣食のために一高と東大の教師になった。その合間をぬって自己そのものの成立の根底(生命)を明らかにするために、科学や哲学を勉強した。しかし不可解な倦怠と焦燥、空虚が襲い再び神経衰弱になる。四十歳の時『文学論』を書いたが漱石は失敗と認める。文学論の行き詰まりと、経済事情から、大学をやめて、朝日新聞社へ入社。これから文学論から創作へ、学者から作家への転向をはかる。
漱石は当時の文学に批判的だった。文学者は美的な文字だけではだめだ(鈴木三重吉あて書簡) 「死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士のごとき烈しい精神で文学をやってみたい」といっていた。漱石の文学は「人間」「こころ」について深く探求する。『文学論』は失敗したが、「自己本位といふその時得た私の考えは依然としてつづいています」「その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました」(四十八歳の時の『私の個人主義』より)
漱石に『道草』という小説がある。これは若い漱石夫婦の実像を描いたといわれる。これによって漱石夫婦の対立状況を、後に漱石が、作品「こころ」についての見方が深まった立場から夫婦の「こころ」を分析している。漱石は妻のヒステリーに悩んでいた。自我と自我の対立からストレスが最高潮に達してヒステリーがおこる。その夫婦の対立、互いの意志が相手に正しく伝わらないで対立を深めていく様子を漱石は『道草』に描く。妻の我と漱石の我の対立から不幸になっていく。お互いに自己の我には気がつかない様子が描かれる。そんな妻との生活に、漱石は明治四十年「僕の妻は何だか人間のような心持ちがしない」と鈴木三重吉あての書簡で嘆いている。その妻からの情報で妻の父も漱石を変人扱いし、漱石は妻の父とも対立を深める。
自我と自我との対立に悩みながら創作を続けていたが、大正四年『硝子戸の中』連載の頃、偉大なものに気がつく。『道草』に「金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼にはいって来るにはまだ大分間があった」と書いている。大正四年の『断片』に「大我」と「技巧」「絶対の境地」などの考察がある。偉大なものに気がついてから、自分の過去を振り返って書いたのが『道草』だ。
晩年の境地は「則天去私」という言葉で表現される。「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(大正四年『断片』より)
無私(無我)にて動くとき、天,おおいなる自然の意志の働きが出る。『道草』夫婦のような我執の人と「則天去私」の人を対比させて書いたのが『明暗』だといわれるが、未完成であり、「則天去私」については十分書かれていない。「天に則り私を去る」という間はまだ思想である。「則天去私」という思想を持つというのではなく、行動そのものが「則天」であると同時に「去私」でなければならない。だから「則天は去私なり」という。漱石が死の直前に作った漢詩に、禅僧批判の漢詩(大正5年9月23日)がある。形だけの仏法で、それが生活に活かされていないことを批判したものだ。また「志なりがたし」という漢詩(同11月19日)もある。漱石は思想として「則天去私」という境地に気がついたが、体得できなければ活かされないとし、「体得」を志す。
思想は体現まで至らなければ他人本位のまねごとであり、それは学者や僧侶などの不誠実さと同じだという。『道草』には、「その域に達する」という言葉があり、漱石を慕ってたずねてきた禅僧あての書簡には「字がまずくても道を体得すればその方がどの位いいか」と書いている。漱石は「こころ」を探求し、晩年にして「体得」せねばならぬと志しながら、ついに中途で亡くなった。
以下は参考メモ。『草枕』は明治39年の執筆、『吾輩は猫である』はまだ続行中であり、『坊っちゃん』を「ホトトギス」に発表した年。『草枕』が本になったのは明治41年9月、その間に『坑夫』『夢十夜』『虞美人草』も書いている。漱石の文学の立脚点を解読するには最も重要な時期。漱石が『猫』や『坊っちゃん』の傍らで、どうして韜晦趣味ともいえる『草枕』が綴れたのか不思議だが、この二作は「深淵」の上に浮いている楼閣のような作品。そこに登場する「余」は旅の画工のようにみえる。
その画工がふと考える。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」、有名な冒頭の文句。智も情も意地も結構だが、このあと、「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る」と続く。さらに「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、得難い世界をまのあたりに写すのが詩であり画である。あるいは音楽と彫刻である」という。これは芸術至上主義のような宣言だ。『草枕』は憐憫を最後のひとつまみにパッと散らしたが、全体を流れるのは「人情に対する非人情」がもたらす無常の美というもので、そのために繰り出す俳諧や茶碗や山水の例の挙げ方が面白い。主人公は漱石自身であり、「余」といって語る。「余」はときどき俳句を捻る。那古井近くに来て最初に茶店に入るが、やっと出てきた婆さんの顔が宝生の「高砂」で見た媼の面か長澤蘆雪の山姥のようで余計なサービスをしない。「ここらが非人情で面白い」と思う。婆さんに胡麻ねじと微塵棒をもってこさせ、刳り抜きの盆から茶碗をとり、余はなんだか気分がよくなってくる。そこで一句を読む「春風や惟然が耳に馬の鈴」と。やがて夜になって那古井の宿に泊まると、そこの対応が貧しいが、その貧しさが草双紙のようで面白い。竹が騒がしくて寝付けないままに暗闇のなかに欄間を見ると、「竹影払階塵不動」(竹影、階を払って塵動かず)の朱塗の縁をとった書が見える。横に目を凝らすと若冲の鶏がいる。複製の商品だ。そのうち寝入って雅俗混淆の夢を見る。「思ひ切つて更け行く春の独りかな」「うた折々月下の春ををちこちす」。夢うつつを逍遥していると、唐紙がすうと開いて、まぼろしのごとく女の影がふうと現れた。仙女の波をわたるかのような女の髪は銀杏返し、白い襟、帯は黒繻子の片側だけ、こんな具合に、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく。
「猫」「坊っちゃん」のソフィスティケーションの奥の奥には『草枕』の俳諧漢文めいた「深淵」がある。同時期に書いた異様な『夢十夜』こそは、『草枕』と重ねて漱石の最も深い部分とみるべきもの。『草枕』は、漱石も本当のところはこんなふうに暮らしていたかったという原郷をしたためたのかもしれない。漱石自身も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです」「この種の小説は未だ西洋にもない。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば、先ず、小説界に於ける新しい運動が、日本から起つたといへるのだ」といっている。たしかに『草枕』は前代未聞の様式文芸であり、のちには「俳句的小説」ともいわれているようだ。
イギリスに留学して漱石はジェーン・オースティンなどの小説を教えられた。西洋では、それが文学であった。当時のオックスフォードでは、シェークスピアの講座もなかった。漱石は、西洋でこれを文学と呼ぶならこんなものに一生を捧げてはたまらないと思ったようだ。文部省から費用を出してもらって留学しているので、一応、英文学を学んで帰国した。彼は頭の鋭い人なので、小説を文学と呼ぶのなら自分で書いたほうがいいと思ったようだ。書いてみたのが「我が輩は猫である」、俳句雑誌「ホトトギス」に軽い気持ちで投稿した。猫から見た知識人の話を書いただけだが、大変な人気になってしまった。続いて「坊ちゃん」などを書いた。これなら行けるかもしれないという気持ちになり、東大の先生を辞めて小説家になった。当時の日本で小説家の社会的ステータスを向上させた人物は漱石と森鴎外の二人かもしれない。森鴎外も東大医学部を出て間もなくドイツに4年間留学し、陸軍の軍医として重きをなした人だ。
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漱石が「こころ」を書いたのは47歳の頃、若い頃は奥が深いと思って読んだが、今はそうとも思えない。ただ、漱石の漢詩には感服する。彼は漢詩をつくり続け、死ぬ直前までつくっていた。漱石の小説は傑作といわれているが、内容は重苦しいものが多い。漱石は最後に「明暗」という小説を書いているが、非常に重苦しい小説。漱石は、そういう小説づくりに耐えきれなかったのか、晩年には毎日のように七言律詩をつくっている。本当は、小説よりも律詩をつくりたかったのではないかとさえ思えてくる。
さて、「三四郎」という小説、九州から東京帝国大学に入学するために上京した三四郎が野々宮に会った後に、行ったのが大学構内にある池、そこで美禰子(みねこ)と運命的な出会いをする。このとき2人の恋は始まったのか。三四郎が上京する折に名古屋で偶然一夜を共にした女から「あなたは余っ程、度胸のない方ですね」といわれる。「度胸のない」とは「踏み超えられない」ということ、三四郎と美禰子との恋は「踏み超えられない男」と「踏み超えようとする女」との格闘のようでもある。
美禰子が三四郎に貸した30円のこと、三四郎は与次郎に20円貸したのだから美禰子は三四郎に20円貸せばよかったが、実際は30円貸した。30円、30に意味があるのか、30といえば聖書にその意味するところがある。ユダはキリストを銀貨30枚で裏切った。つまり、ユダは銀貨30枚で魂を売りわたした。美禰子は敬虔なクリスチャンであり、聖書にある迷える羊を引用して自らを迷える羊といっている。美禰子は三四郎に30円貸すことによって彼の魂を買った。逆にいえば三四郎は美禰子に魂を売った。魂を売ったのだから三四郎は踏み超えなければならなかったはず。美禰子が30円を返してもらうことにこだわらなかったのは、返してほしくなかったからだ。
三四郎は何もできずに、インフルエンザにかかり、その間に美禰子の結婚が決まる。30円のお金は美禰子のもとへ戻る。美禰子とは一体どんな女なのか。漱石にいわせると「無意識の偽善者」らしい。「意識した悪魔的な女」といえなくもない。「悪魔的」とは「踏み超えよう」とすることだ。しかし、三四郎も美禰子も踏み超えなかった。踏み超える直前で学生・知識人を含め、いろいろな人が滑稽なほど右往左往する。なぜ三四郎は踏み超えられなかったのか。それは与次郎、広田先生、母親そして三輪田のお光などがいる世界に三四郎がいたからだ。特に、お光が強力な磁石となって三四郎を別の世界に行かせなかった。
「三四郎」の中では、お光はみごとなかくし味となって緊張感をときほぐす。漱石の演出のうまいところだ。ことあるごとに母親から手紙がきて、お光のことが触れられている。お光は美禰子とは対極に位置する女だ。ピアノもバイオリンもひかない、英語もわからない。綿入を縫うのが得意だ。おまけに色が黒く、香水はつけたことがない。結局、三四郎はお光のいる世界に踏みとどまる。「三四郎」の中では美禰子1人だけが別の世界にいる。美禰子は百匹の羊のうちの迷い出た1匹の羊であった。なぜ美禰子は迷ったのか。彼女自身が告白している。「われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」 漱石はもともと美禰子を罪あるものとして設定している。三四郎は美禰子を救ってやれない。結婚しても彼女の罪は消えない。美禰子の罪とは何か。これは漱石文学の核心をなす部分だ。
「それから」以降の作品で、この罪との血みどろの戦いが始まる。それでも漱石は美人で罪があって孤独な悪魔的な女を創りあげた。夏目漱石の「それから」はその前に書いた「三四郎」のそれからを扱ったという理由でタイトルが決まったらしい。「三四郎」「それから」「門」は3部作といわれる。その3部作の中心テーマは「男と女のつながり」。「つながり」は恋愛関係というか、「恋愛関係のあり方」といえるかもしれない。これら3部作において、「三四郎」にはユーモアがあるが、「門」は暗い。「それから」はその2つの作品の間にあり、ユーモアと暗さの間にある。
「それから」の主人公代助は30歳近くなるのに、未だに親がかりで職についていない。代助は職に就かない自分を理屈で正当化する。代助は働かない理由を世の中のせいにしている。「それから」は、ある意味で漱石の代表作であり、作品の中に高等遊民という人種を創造し、不倫を扱った小説だ。漱石の生きた時代、姦通(不倫)は法律によって罰せられた。漱石は小説の主人公に法を犯させる。長井代助は大学を卒業しても職に就かないで毎日読書をして生活していた。彼の父親は実業家である。代助の兄の誠吾が父の後継者であり、父と一緒になって会社を切り回している。代助は父から毎月生活費をもらって家を構えて悠々自適の生活を送る。
ある日、友人の平岡が関西から妻の三千代を伴って上京する。遊びのための上京ではなく、勤めていた銀行をやめての上京だ。平岡にはかなりの借金があり無職なので、平岡夫婦の生活は窮し、そして夫婦の関係は荒んでいた。代助と平岡は大学時代の同級生であり、彼らの共通の友人が三千代の兄であった。三千代の兄は大学在学中に亡くなった。代助は平岡と三千代が夫婦になるのを応援したが、実のところ、代助は三千代のことを愛していた。三千代も代助のことを愛していた。3年ぶりに会った三千代は生活苦の中におり、平岡の三千代に対する愛情も薄れていた。代助は三千代を愛していることをはっきりと自覚し行動で示す。
代助の父が縁談をすすめても、代助ははっきりとそれを断る。代助は平岡に自分の三千代に対する気持を打ち明け、三千代をくれと迫る。平岡は代助と三千代に裏切られた思いがする。平岡は代助と三千代のことを代助の父に手紙で知らせる。代助は完全に父の手から自立しなければならない。代助は狂気の状態になり、物語の最後、「僕は一寸職業を探して来る」といって家を出る。代助の行動は異常である。父親のすすめる通り縁談に応じていれば、代助は上等の地位を得、裕福な生活ができたのだが、代助はそれをしなかった。代助は自分の主観的真実に忠実であった。主観的真実に忠実とは「自然」な状態ともいえる。「それから」のテーマは漱石文学のテーマの1つである「自然」対「制度」の構図の上に成り立っている。代助の行動は「坊っちゃん」の坊っちゃんの行動と似ているともいえる。心が命ずるままに全てを投げ打って行動する。そこに打算の入る余地はない。
「三四郎」においては、美禰子は三四郎を愛していながら、三四郎は美禰子を奪おうとはしなかった。三四郎は初心(うぶ)だった。ところが、「それから」においては、代助は愛する人を奪おうとする。それは制度を犯す行為であった。それは「門」であきらかになる。
「門」は「それから」の次に書かれた作品だ。「三四郎」「それから」「門」の3部作の最後になる。漱石もそう意識して書いたのであろう。
「それから」は主人公の代助が友人の妻を奪って狂気状態になり、街にでて仕事を探すところで終わる。「門」は「三四郎」に見られるユーモア、「それから」に見られる若々しさはない。暗い小説である。「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「三四郎」とは趣がまるで違う。灰色の世界だ。森鴎外の作品と同じで、暗いといわれている漱石の小説でも味わい深い作品。生きるということの根源的なものを感ずる。
「門」の主人公は野中宗助。宗助は裕福な家庭の長男として生まれ、何不自由のない身で育つ。大学は京都帝国大学。大学で最も親しい友人は安井であった。安井は一軒家を構え、同居している妹を宗助に紹介した。妹というのは嘘で、安井の妻になる人であった。名を御米といった。宗助と御米は恋に落ち、2人は逃げるように京都を去った。当然宗助は大学をやめる。宗助は地方を巡って、あるところで偶然大学時代の友人に出会い、彼の斡旋で東京の役所に勤める。宗助と御米は東京の街の片隅で人を避けるように生活している。2人には子供がなかった。御米は3人の子を身ごもるがいずれもこの世で生を享受することができなかった。これを御米は天罰だと思った。
過去のことは2人の間では話題にのぼらない。2人は仲がよい。宗助が声を荒げたことは一度もない。傍目には幸せそうな家庭だ。大きな事件も起こらない。気がかりなのは宗助の弟の小六のこと、小六は高等学校の生徒で、おじに預けていた父の遺産で学費・生活費を賄(まかな)っていたが、おじが死んで学業を続けていくのが困難になる。父が死んだとき兄である宗助が遺産の処分をおじにすべてまかせたのが原因であると小六は密かに思っている。
ある日、宗助は親しくしている家主の坂井から、坂井の弟を宗助に紹介したいといってきた。坂井の弟は満州で実業家みたいなことをしていた。弟が仕事仲間の安井という男と一緒に坂井の家にくるから2人を宗助に合わせたいという。宗助は驚いた。安井という名前を聞いて頭に血が上るような気持になる。宗助は御米には何もいわずに悩みに悩み、結局、鎌倉の禅寺に参禅しようと思い立つ。寺の塔頭(たっちゅう)に数日間住んで座禅したり、和尚の講和をきいても悩みは解消されない。宗助は東京に戻る。坂井の弟はすでに満州に帰っていた。季節は冬から春になる。御米は春になったことを喜ぶが、宗助はまた冬が来るさとすましていう。そして、物語は終わる。過去の罪を背負ってひっそり生活する宗助と御米。その罪は償いようがない。2人は苦しみながら黙々と生活していく。苦しみから逃れるすべもない。「生きることは苦しむことだ」と漱石はいいたかったのかもしれない。人生に対する漱石の悟りは、消極的にすら見える。
漱石は、イギリスへ留学したが、やはり文学がわからない苦悩で、神経衰弱になった。ひとつの目覚めがあった。「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作りあげるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。」と。「自己本位」で行こうと思った時、心が軽くなり、今までにない学問の使命感に燃えた。自己本位の『文学論』を著述するのを「私の生涯の事業としようと考えたのです」(『私の個人主義』より)
漱石は新しい使命に燃えて帰国したが一族の困窮が待っていた。衣食のために一高と東大の教師になった。その合間をぬって自己そのものの成立の根底(生命)を明らかにするために、科学や哲学を勉強した。しかし不可解な倦怠と焦燥、空虚が襲い再び神経衰弱になる。四十歳の時『文学論』を書いたが漱石は失敗と認める。文学論の行き詰まりと、経済事情から、大学をやめて、朝日新聞社へ入社。これから文学論から創作へ、学者から作家への転向をはかる。
漱石は当時の文学に批判的だった。文学者は美的な文字だけではだめだ(鈴木三重吉あて書簡) 「死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士のごとき烈しい精神で文学をやってみたい」といっていた。漱石の文学は「人間」「こころ」について深く探求する。『文学論』は失敗したが、「自己本位といふその時得た私の考えは依然としてつづいています」「その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました」(四十八歳の時の『私の個人主義』より)
漱石に『道草』という小説がある。これは若い漱石夫婦の実像を描いたといわれる。これによって漱石夫婦の対立状況を、後に漱石が、作品「こころ」についての見方が深まった立場から夫婦の「こころ」を分析している。漱石は妻のヒステリーに悩んでいた。自我と自我の対立からストレスが最高潮に達してヒステリーがおこる。その夫婦の対立、互いの意志が相手に正しく伝わらないで対立を深めていく様子を漱石は『道草』に描く。妻の我と漱石の我の対立から不幸になっていく。お互いに自己の我には気がつかない様子が描かれる。そんな妻との生活に、漱石は明治四十年「僕の妻は何だか人間のような心持ちがしない」と鈴木三重吉あての書簡で嘆いている。その妻からの情報で妻の父も漱石を変人扱いし、漱石は妻の父とも対立を深める。
自我と自我との対立に悩みながら創作を続けていたが、大正四年『硝子戸の中』連載の頃、偉大なものに気がつく。『道草』に「金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼にはいって来るにはまだ大分間があった」と書いている。大正四年の『断片』に「大我」と「技巧」「絶対の境地」などの考察がある。偉大なものに気がついてから、自分の過去を振り返って書いたのが『道草』だ。
晩年の境地は「則天去私」という言葉で表現される。「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(大正四年『断片』より)
無私(無我)にて動くとき、天,おおいなる自然の意志の働きが出る。『道草』夫婦のような我執の人と「則天去私」の人を対比させて書いたのが『明暗』だといわれるが、未完成であり、「則天去私」については十分書かれていない。「天に則り私を去る」という間はまだ思想である。「則天去私」という思想を持つというのではなく、行動そのものが「則天」であると同時に「去私」でなければならない。だから「則天は去私なり」という。漱石が死の直前に作った漢詩に、禅僧批判の漢詩(大正5年9月23日)がある。形だけの仏法で、それが生活に活かされていないことを批判したものだ。また「志なりがたし」という漢詩(同11月19日)もある。漱石は思想として「則天去私」という境地に気がついたが、体得できなければ活かされないとし、「体得」を志す。
思想は体現まで至らなければ他人本位のまねごとであり、それは学者や僧侶などの不誠実さと同じだという。『道草』には、「その域に達する」という言葉があり、漱石を慕ってたずねてきた禅僧あての書簡には「字がまずくても道を体得すればその方がどの位いいか」と書いている。漱石は「こころ」を探求し、晩年にして「体得」せねばならぬと志しながら、ついに中途で亡くなった。
以下は参考メモ。『草枕』は明治39年の執筆、『吾輩は猫である』はまだ続行中であり、『坊っちゃん』を「ホトトギス」に発表した年。『草枕』が本になったのは明治41年9月、その間に『坑夫』『夢十夜』『虞美人草』も書いている。漱石の文学の立脚点を解読するには最も重要な時期。漱石が『猫』や『坊っちゃん』の傍らで、どうして韜晦趣味ともいえる『草枕』が綴れたのか不思議だが、この二作は「深淵」の上に浮いている楼閣のような作品。そこに登場する「余」は旅の画工のようにみえる。
その画工がふと考える。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」、有名な冒頭の文句。智も情も意地も結構だが、このあと、「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る」と続く。さらに「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、得難い世界をまのあたりに写すのが詩であり画である。あるいは音楽と彫刻である」という。これは芸術至上主義のような宣言だ。『草枕』は憐憫を最後のひとつまみにパッと散らしたが、全体を流れるのは「人情に対する非人情」がもたらす無常の美というもので、そのために繰り出す俳諧や茶碗や山水の例の挙げ方が面白い。主人公は漱石自身であり、「余」といって語る。「余」はときどき俳句を捻る。那古井近くに来て最初に茶店に入るが、やっと出てきた婆さんの顔が宝生の「高砂」で見た媼の面か長澤蘆雪の山姥のようで余計なサービスをしない。「ここらが非人情で面白い」と思う。婆さんに胡麻ねじと微塵棒をもってこさせ、刳り抜きの盆から茶碗をとり、余はなんだか気分がよくなってくる。そこで一句を読む「春風や惟然が耳に馬の鈴」と。やがて夜になって那古井の宿に泊まると、そこの対応が貧しいが、その貧しさが草双紙のようで面白い。竹が騒がしくて寝付けないままに暗闇のなかに欄間を見ると、「竹影払階塵不動」(竹影、階を払って塵動かず)の朱塗の縁をとった書が見える。横に目を凝らすと若冲の鶏がいる。複製の商品だ。そのうち寝入って雅俗混淆の夢を見る。「思ひ切つて更け行く春の独りかな」「うた折々月下の春ををちこちす」。夢うつつを逍遥していると、唐紙がすうと開いて、まぼろしのごとく女の影がふうと現れた。仙女の波をわたるかのような女の髪は銀杏返し、白い襟、帯は黒繻子の片側だけ、こんな具合に、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく。
「猫」「坊っちゃん」のソフィスティケーションの奥の奥には『草枕』の俳諧漢文めいた「深淵」がある。同時期に書いた異様な『夢十夜』こそは、『草枕』と重ねて漱石の最も深い部分とみるべきもの。『草枕』は、漱石も本当のところはこんなふうに暮らしていたかったという原郷をしたためたのかもしれない。漱石自身も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです」「この種の小説は未だ西洋にもない。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば、先ず、小説界に於ける新しい運動が、日本から起つたといへるのだ」といっている。たしかに『草枕』は前代未聞の様式文芸であり、のちには「俳句的小説」ともいわれているようだ。