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自衛隊、過去の最高裁判決では違憲じゃない。

2015年09月12日 | 通常メモ
 最高裁が示す基本的原理の汎用性の事例として、かつて、当時の社会党(民主党の前身)鈴木茂三郎氏が昭和25年8月に創設された警察予備隊(自衛隊の前身)が憲法第9条に反するので違憲であると最高裁に訴えたが、最高裁大法廷は全員一致で却下したということがあった。その時の判決が示した基本原理は、「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」というものだった。

 自衛隊が創設から60年を経過し、その間に災害救助などで実績をあげ、国民からはかなり信頼される存在になっているのに、野党や学者達が違憲という自衛隊がなぜ多くの国民に受け入れられているのか、これについて研究した憲法学者はほとんどいない。こうした現実の下で、国会で安保関連法案を違憲と断じた憲法学者も、第9条の解釈には幅を持たせており、条文の字義どおりの解釈よりは柔軟な対応を許容している。例えば、長谷部恭男・早稲田大学教授は「憲法第6版」(2014年)において、「憲法9条の定める理想は理想として尊重するが、現実には、その時々の情勢判断によって、保持する軍備の水準、同盟を組む相手国等を、それらが全体として日本を危険にするか安全にするか、安全にするとしてもいかなるコストにおいてかなどを勘案しながら決定していくしかない」と述べ、また、小林節・慶應義塾大学名誉教授のベストセラーにもなった著作「憲法守って国滅ぶ」(1992年)においては「憲法は、本来的に、解釈の変更による柔軟な運用が期待されている。したがって、9条の基本精神である『侵略せず』を害してはいけないが、その範囲内であれば、ある意味では何でもできる」と書かれている。本当の立憲主義とは条文の字面に捉われることではない。最高法規としての憲法の規範性を保つことが事実上の護憲になるともいえる。国際社会においても、憲法の条文の変更はしないが、解釈の変更で規範的意味が修正されることを「憲法の解釈変更による変遷」といわれている。

 北東アジアをはじめとする国際的な安全保障情勢は大きく変化し、その中で国際社会が日本に期待する役割も“世界の平和に貢献する国”へと変化してきている。そうした現実を踏まえると、憲法学者が違憲と断じたから鵜呑みにするのではなく、安全保障環境の変化という現実を踏まえると第9条の字義どおりの解釈からの“はみ出し”はどこまで許容されるべきかについて、憲法上主権者と明示されている国民自らが主体的に考えることが必要になる。かつては小林節・慶應義塾大学名誉教授も2013年には「日本は集団的自衛権を持っていると解釈を変更するべきでしょう」と明確に述べている。実は、憲法学者自身も“はみ出し”の範囲については揺れている。

 日本の平和を守り、国民の命とくらしを守ることが政府の最大の任務であることを考えると、現実の安全保障環境が変化して、現行憲法解釈が前提としている国民の命とくらしを取り巻く環境が変わったにも拘らず、これまでの憲法の解釈を一切変更してはならないというのでは、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(憲法第13条)を守るために憲法があるという考え方に反する。政府が最大の任務を達成するためであれば、憲法の基本法理の枠内に止まる限度において、憲法解釈を変えて良いと考えるべきかもしれない。そうしないと政府がその任務を果たすことができず、国民の生命とくらしを守れないことになる。

 現在の日本国憲法の欠陥は、理念とフレームワークの欠如であろう。「二度と戦争をしません」という反省と、「諸外国から尊敬される国に」という願望はある。そこには、敗戦後に占領国によって作成された「占領政策基本法」ともいわれる日本国憲法だったという事情もある。本来、憲法とは、国の理念や、あるべき国民の姿を記すものだ。そして、将来の若者が、こういう国に育ち、こんな国民になりたいと胸を躍らせるようなものでなければならない。現憲法の内容は、「天皇」、「戦争の放棄」、「国民の権利及び義務」、「国会」、「内閣」、「司法」、「財政」、「地方自治」の8項目と「改正」、「最高法規」、「補足」の3項目からなる。フランスの人権宣言とアメリカの独立宣言を踏まえた合衆国憲法を意識して作られたものだが、主に書かれているのは、国と個人の関係であり、それに対応するフレームワーク(枠組み)がない。

 集団的自衛権は国連憲章によって全ての主権国家に認められた固有の権利だが、憲法で集団的自衛権の行使を禁止したりすることも可能ではある。だが、日本国憲法の9条を見ても、集団的自衛権の行使を禁止したりする規定はない。つまり、集団的自衛権の行使を憲法違反とする規定はないのだ。また、国連加盟にあたって、集団的自衛権の行使については何らかの留保をすることも可能になっている。京都大学の大石眞教授も「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を否認する議論にはくみしない」という。とすれば、「わが国は集団的自衛権を保有するが、行使することはできない」という昭和47年の政府見解は国際法や憲法からの論理的な帰結でなく、当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。当時の政治状況から生み出された妥協の産物かもしれない。現在の政府がこの不自然な解釈にいつまでも拘束される理由はないともいえる。

 砂川事件は1955年、米軍の飛行場の拡張計画を収容対象地域である砂川町(現東京都立川市)の反対を無視して強行したため、約300人が飛行場境界内に抗議のために立ち入り、7名が起訴された事件だ。この裁判により、一審判決は「憲法9条は自衛のための戦力の保持をも許さない」と断言し、米軍についても「わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ怖れは必ずしも絶無ではない」として米軍を違憲とした。しかし、最高裁では、これが覆された。その理由は、「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」という最高裁判決だった。

 砂川判決は更にこう続けている。憲法9条2項が「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」、つまり、砂川事件はあくまでも日米安保条約を、高度の政治性を有するものとして合憲とした。憲法9条には、戦争のための戦力は持たないという規定があり、一方では、現在のように常に戦争の危機にさらされる国際環境にあって、国民の生命および財産を守るのは政府の責任であるとする憲法の考え方もある。この二つの矛盾を内包する現行憲法は改正すべきであるという憲法学者は少なくない。現に、国会の参考人招致で安全保障法制法案が違憲と述べた憲法学者・慶應義塾大学名誉教授の小林節氏も、以前から自分は憲法改正論者だといい続けてきており、憲法改正した上での集団的自衛権は認めるという立場だ。現憲法の条文に照らしていえば違憲になるといっているにすぎない。憲法を時代に対応して改正する必要があっても、厳しすぎる改正規定のため、直ちには改正できないという実情もあり、上記のような最高裁の判決となったともいえる。

( 別件メモ ) あの時の新安保法案をどうみるか。

 問題になっていた新安全保障法制法案は、もともと性質の異なる法案を一まとめにして一気に通そうとしたところに無理があった。国会に提出された法案は形式的には2本だが、「平和安全法制整備法案」は現存する法律10本を一括改正するものであり、また、「国際平和支援法案」は新規に制定する法律だ。そして、「平和安全法制整備法案」で一括改正される法律の中には、集団的自衛権の行使を可能にする「武力攻撃事態法」と「PKO(国連平和維持活動)協力法」などがセットになっている。PKOと集団的自衛権は性質が異なる。「PKO協力法」が成立したのは1992年であり、集団的自衛権は新たに導入されるものだ。それらを一緒にして、長年議論してきたというのは強引であろう。集団的自衛権という焦点をぼやかそうとしていると勘繰られても仕方がない。

 あの時の新安保法制法案は、国内はもちろん、米国との関係でも難しい局面を生む可能性があった。これまでは、国際的には集団的自衛権の存在を認めながらも、日本は憲法上の制約があるという理由で線引きしてきた。だが、新安保法制では限定的ではあるが、集団的自衛権の行使を容認する。ところが米国は、日本が全面的に行使できると考えてくる可能性もあった。米国が圧力をかけてくる可能性があり、政権が難しい判断を迫られることもある。しかし、米国が日本に集団的自衛権の行使を求めていたのは、2001年の同時多発テロ事件以降の時期を頂点としており、状況は変化している。かつてオバマ大統領は軍事力の行使には懐疑的であり、イランとは対話で問題を解決しようとしていた。現在の米国にとっては、日本の集団的自衛権の行使は喫緊の課題ではないかもしれない。米国内の議論を見ると、米国は戦争してまで中国と対立しようとは思っていない。

 抑止力は、本気で戦うという姿勢が相手に理解されることで実現するものだ。冷戦時代の米国と当時のソ連は、いつでも核兵器を使用できる状態にあったからこそ、相互に抑止力が働いていた。ところが、今回の新安保法制で、安倍首相は「リスクは高まらない」と再三にわたり発言している。周辺の国からは「日本は本気で戦争する気はない」と見られている。それでは抑止力はない。むしろ、最高責任者としては「新安保法制によってリスクは高まるが、日本の安全保障のためには絶対必要なもの」と国民に真正面から訴えるべきであろう。また、国会審議の中で、中国や北朝鮮の脅威を名指しで指摘するのは外交上の得策ではない。それは国家間の相互不信を高めることになる。

 中国は日本と同じく資源輸入国であり、石油を運ぶシーレーン(海上交通路)を塞がれると、国家の存立が危うくなる。だからこそ中国は海洋軍拡を進めている。日米中の間でシーレーンに関する取り決めを行うとか、石油について相互信頼関係に基づいた協定を作る方向へ議論を導いていくことも可能なはず、そして、中国に対しては「軍拡競争は不毛である」との働きかけをしてゆくべきかもしれない。その働きかけは日本一国だけでは不十分であり、米国、さらにはASEAN(東南アジア諸国連合)とも連携し、中国との対話を強化していくことが求められる。安全保障とは、軍事力で外敵から身を守るだけではなく、対話を軸にした安全保障の取り組みを強化していくという発想の転換が必要かもしれない。戦後70年、日本は憲法9条を根拠に、専守防衛を基軸にしてきており、日米安保とセットではあったが、日本は単独では他国に対する攻撃力は保持しておらず、それゆえに自衛隊も許容されてきた。また、「日本はあなたの国を攻撃することはありませんよ」というメッセージを送り続け、相手に攻撃の動機や、攻撃の正当性を与えないできた。つまり、安心供与による安全保障である。

 かつて日本が侵攻したインドネシアやマレーシア、フィリピンなどの東南アジア諸国にも反日感情が強かったが、経済援助、貿易、投資などを通じて交流を深め、信頼回復に努めたことで対日不信感は小さくなった。安心供与による安全保障が実現している姿であろう。中国については不可能ということもなかろう。かつてオバマ大統領が行ったプラハ演説、「核なき世界を目指す」というオバマの意志も明確に示された。核兵器を持たない国には核攻撃することはないとも明言した。核兵器を持たないほうが安全だと示している。


1 コメント

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よく理解できますね。 (K.K)
2015-09-11 17:22:04
国会の参考人招致で安全保障法制法案が違憲と述べた憲法学者・慶大教授の小林節氏も、以前から自分は憲法改正論者だといい続けてきており、憲法改正した上での集団的自衛権は認めるという立場。現憲法の条文に照らしていえば違憲になるといっているにすぎない。憲法を時代に対応して改正する必要があっても、厳しすぎる改正規定のため、直ちには改正できないという実情、よく理解できます。
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