murota 雑記ブログ

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驚きのヨーロッパの宗教改革史を振り返る。

2016年06月20日 | 歴史メモ
 ヨーロッパのルネサンスと同時期に起きた思想上の大事件が宗教改革、それがヨーロッパ政治の枠組みを大きく変えていった。宗教改革をはじめた人物はドイツ人のルター(1483~1546)、彼はドイツ中東部のヴィッテンベルグ大学で神学の教授をしていた。この時は西ヨーロッパの宗教はローマ=カトリックだけだった。ルターは大学時代に宗教に目覚めて修道士になる。神学の勉強をつづけて大学で教授になったが、ローマ教会の方針に対しては疑問を抱く。問題にしたのが免罪符だった。

 免罪符は贖宥状ともいう。日本でいえば「お守り」、お寺や神社で「おふだ」をもらうが、あれと同じ。当時ローマ教皇はレオ10世。フィレンツェのメディチ家出身、ロレンツォ=デ=メディチの次男、ルネサンス文化の理解者であり保護者だ。ローマ教皇は選挙で選ばれる。フィレンツェ第一の実力者の家柄で政治力も資金も豊富にあり、そんな背景をバックにして教皇になった。ちょうどこのとき、ローマ教会はサン=ピエトロ大聖堂の改築工事をおこなっていた。この改築工事が大がかりで、レオ10世は装飾に凝り、芸術にも造詣が深い。ラファエロも改築を担当したりしている。改築には資金が必要だが、莫大な改築費用を捻出するためにはじめたのが免罪符の販売。これは、キリスト教の思想から考えるとおかしい。神に深く帰依し信仰心厚く善いおこないを積んで救われるというのならわかるが、お金でお守りを買えば救われるということになる。イエスは「金持ちが天国にいくのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」といっている。ローマ教会は免罪符販売部隊を作って、これをドイツに送り込む。なぜドイツなのか、当時のドイツは皇帝がいるものの内部は諸侯の対立が激しくて分裂状態に近かった。ローマ教会にとっては免罪符の販売がしやすかった。

 国王・領主などの支配者にとっては、自分の領地で免罪符を販売されたら困る。領民が免罪符を買い、払った代金はローマに持ってゆかれ、サン=ピエトロ大聖堂の建築費に充てられる。自分の領地からお金がローマに移動する。今風にいえば完全に貿易赤字になる。だから、フランスなどは、自分の国内に免罪符販売部隊は入れない、販売も許さない。その点、ドイツは国内がバラバラだから入り込むことが簡単だった。当時のドイツは「ローマの乳牛」と呼ばれるくらいにローマ教会の資金供給源になっていた。免罪符の販売の様子を描いた絵がある、絵の中央にはローマ教皇が描かれているが、これは想像で、実際に販売に立ち会っているわけではない。販売部隊がやってきて、村々に免罪符の販売を触れまわる。やってきたおじいさんが係りのお坊さんに何か言っている。どんな罪を犯したかとか、誰を救いたいのかとか申告する。それを聞いて担当者がおふだを作ってくれる。真ん中にある箱には代金を入れる。金貨を入れるとチャリーンと音がする。「おかねが箱の中でチャリンと鳴るやいなや、霊魂は煉獄から飛んで出る」という。

 1517年、ルターは「95カ条の論題」というローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りつけた。95の問題点を指摘したが、主な主張は次の3つ。1、ローマ教会による免罪符販売を批判。お金を払えば救われるという免罪符の考え方を批判。2、人は何によって救われるか。人は信仰によってのみの義とされる。これを「信仰義認説」と言う。ローマ教会によってではなく、信仰によって救われる。従って信者が救われるようにローマ教皇が神さまに「とりなし」をする必要もない。3、どのように信仰すればよいか。それまでは、ローマ教会の教えのままにしていることが信仰だった。しかし、ルターはそうではないと言う。聖書に書いてあるとおりにすることが信仰だという。「聖書第一主義」だ。この段階でルターはローマ教会を否定してはいない。ローマ教会の教えでもおかしいと思う点があるなら聖書と照らし合わせて考えよう、聖書に反しているならローマ教皇の教えでも間違っているというのだ。これが発表されると、すぐにヨーロッパを二分する大論争に発展する。当時発明されたばかりの印刷術を使ってルターの「95カ条の論題」はパンフレットに印刷されてヨーロッパ中に出回る。

 ローマ教会としては公然と批判するルターを放って置くわけにはいかない。ルターと公開討論をしたり、批判をして彼に自説を撤回させようとする。ルターは論争を通じてどんどんローマ教会に対する批判を過激化させる。1520年、ついにルターはローマ教会と教皇の権威を公然と否定する。これに対してローマ教皇はルターに破門状を送る。破門されると、教皇は神さまに「とりなし」をしてくれないので天国へいけないはずだが、ルターはそんなことは聖書のどこにも書いていない、教皇の「とりなし」なんて不要だと叫ぶ。学生を集めてみんなの前で教皇の破門状を破いて燃やす。学生たちも大いに盛り上がり、ローマ教会の出版物をどんどん炎の中に放り込む。この時期にドイツに出向いたローマの使節が教皇に状況報告している。「ドイツ人の9割が『ルター』と、残りの1割が『教皇を死刑にしろ』と叫んでいます。」と。ドイツの圧倒的多数がルターを応援している。これはドイツを食い物にしているローマに対する怒りだった。ローマ教会としてはこのままルターを放置できない。政治的な圧力で屈服させようとする。

 当時のドイツ皇帝、正式名称は神聖ローマ皇帝、カール5世、ハプスブルグ家出身。相続関係でスペイン王を継承し、さらに神聖ローマ皇帝選挙に立候補して即位したばかり、二十歳の若さ。ドイツ皇帝は名目上イタリアの支配者でもあり、ローマ教皇との関係は重要で、即位したばかりのカール5世はローマ教会と協力関係にあった。カール5世は政治的にルターを何とか改心させようと考える。ドイツ人の圧倒的多数がルターを応援しているのに、ローマ教会の肩を持つのは政治的には不利な行動であり、自分の立場を悪くする。カール5世がローマ教会側に立って行動したのには経済的な事情もあった。当時南ドイツのアウグスブルグという町にフッガー家という大富豪がいた。銅山の採掘販売などでヨーロッパをまたにかけて商売をしていた。カール5世が神聖ローマ皇帝選挙に出馬したとき、選挙資金をこのフッガー家に借りていた。いつの時代にも選挙には金がかかる。選挙資金85万グルデンのうち54万グルデンをフッガー家から借りていた。当選後もカール5世はフッガー家に頭が上がらない。

 このフッガー家はローマ教会の有力者にも金を貸していて、ローマ教会の取引銀行でもあった。ローマ教会が免罪符を販売する時、その売上代金のローマへの送金を引き受けていたのもフッガー家。しかも、免罪符の売上代金の一部は教会からフッガー家への借金返済にも充てられていた。教皇も皇帝もフッガー家のお金でつながっていた。1521年、カール5世は国会を開いてルターを召喚する。証人喚問のようなものだ。この国会を「ウォルムスの帝国議会」という。ウォルムスは議会が開かれた町の名前だ。ここに呼び出されたルターは皇帝から自説の撤回を迫られる。ルターも緊張する。ローマ教会から破門され、今度は皇帝から圧力をかけられる。しかし、自分が到達した信仰上の立場を捨てることもできない。追いつめられたルターの心情は、「私はここに立つ。これ以外にどうすることもできない。神よ救いたまえ、アーメン」。ルターは説を曲げなかったので、皇帝は彼を法の保護の外に置くことにする。「いっさいの権利を奪われる刑」、これは誰かがルターの肉体を傷つけたり殺したりしても罪に問われないということだ。ローマ教会を敵にまわしたルターに恨みを持っている者は必ずいる。ルターには学生たちがボディガードとしてついているが、帝国議会が終わってヴィッテンベルグに帰る途中、ルターはさっそく襲われた。森の中で覆面をつけた騎士が数騎でルターを襲い、ルターはさらわれてしまう。ルターをさらったのはザクセン侯フリードリヒという諸侯、彼はルターを支持していた。ルターを守りたいと思ったが、法の保護の外にあると皇帝に宣告されたルターを堂々と守ることもできないので、誘拐という手段をとった。このあとのルターはザクセン侯の城にかくまわれ、世間から姿を隠して聖書のドイツ語訳をする。聖書第一主義とはいうが、この時代までドイツ語の聖書はなかった。みんなラテン語だった。ドイツ語訳聖書が是非とも必要だった。このときのルターの翻訳は名訳で、現在のドイツ標準語の規準となった。ルターの宗教改革がヨーロッパ中の話題になった理由は、急速に普及し始めた印刷物の活用だった。

 ルター自身が大量にパンフレットを発行。1519年ドイツ全国の出版物が約110冊、そのうち約50冊がルターの書いたもの。翌1520年、ドイツ出版総数200冊。そのうちルターが133冊。また、宗教論争が激しい中で両派が少しでも味方を増やそうとパンフレットやチラシのたぐいを大量に印刷配布。「神の水車」というチラシがある。ほとんどの農民は字が読めないから、そういう人でもわかるようにマンガになっている。収穫した麦から小麦粉を作る過程を描いている。中央後ろで棒(からさお)を振り回しているのが農民、脱穀をしているところ。脱穀した小麦をかついで水車小屋のホッパーに入れているのがイエスで後光がさしている。ヨーロッパでは水車小屋で小麦を引いて粉にする。水車小屋の上に浮かんでいるのが神様。神が水を流して水車小屋の水車が回っている。だから、「神の水車」という。神が流す水で回転する水車に、イエスが小麦を入れている。小麦が挽かれて出てきた粉をショベルですくっているのがエラスムス(ルネサンス最大の人文主義者)。ローマ教会も一目置く大学者のエラスムスは最終的にはルターと喧嘩をするが、はじめの頃はそれなりに親密だった。そしてエラスムスの集めた小麦粉をこねるのがルターで、エラスムスと背中合わせで袖まくりをしている人物だ。この絵一枚で、農民もイエスも神もエラスムスもルターの味方だよと訴えている。ルターが練り上げた小麦粉がパンになるわけだが、絵ではパンが聖書の形に描かれる。ルターの左側にいる人が出来上がった聖書を右側の人たちに差し出しているが、この人たちがローマ教皇などローマ教会の主だった人たち。彼等は聖書を受け取るのを拒否していて、聖書はパラパラと地面に落ちていく。全体として何を訴えているのかは明らかだ。ドイツは混乱し、このあとルターはローマ教会とは別の宗派を建てることになる。ルター派教会という。日本では現在ルーテル教会という名前で活動をしている。日本で「ルーテル・アワー」というラジオ番組もあった。当然だが、ローマに反感を持っていたドイツ人はルター派の信者になっていく。しかし、ローマ教会の信者のままの人もいる。皇帝はローマ教会、諸侯の中にもローマ教会側の者はいる。それどころか大諸侯の中には司教というローマ教会の聖職者もいる。ルターの教えというのはローマ教会を批判し、これと違う教会をつくるところまで進む。これは、ある意味では社会改革だ。ルターを支持した人たちの中にはルターの教えの中身よりも、社会改革を押し進めることに魅力を感じていた人も多くいた。

 当時のドイツで現状に不満を感じていた階級や身分の人たちがルターの教えをきっかけに政治的な運動を活発に始める。ドイツは政治的に混乱状態になる。まず、騎士戦争(1522~23)、騎士というのは領主階級の中でも一番規模の小さいものだった。都市と商業の発展の中で没落しかけていた。かつての地位を取り戻そうと団結し、ローマ教会側の諸侯の領地を奪い取るための戦争をする。弱いので負けてしまうのだが。この騎士たちは熱烈にルターを支持した。だからローマ教会側の諸侯を攻める大義名分も持つことができた。どの宗派を支持するかはかなり政治的な判断もあった。ドイツ農民戦争(1524~25)と呼ばれる大農民反乱も起きた。ルターの宗教改革以前から大きな農民反乱はあったが、これもルターの教えをバネにして「戦争」と呼ばれるくらいの大規模な反乱になる。指導者がミュンツァーという僧侶、ミュンツァーはルターの教えをさらに急進的にし、農民を組織した。聖書の言葉しか権威を認めない。領主の支配に対して抵抗する。農奴制の廃止を訴える農民グループもいた。しかし、反乱を起こした農民グループ同士の団結がなかったので、領主側に鎮圧された。ルター自身は、農民戦争がはじまった頃は農民を応援しているが、かれらの要求が急進的なことを知ると積極的に農民の弾圧を応援する。奴らを木に吊るせといった過激なことを言うようになる。ルターは政治的には諸侯、封建領主の側に立つ。やがてドイツの諸侯もローマ教会支持の諸侯と、ルター派の諸侯に分かれてくる。

 ドイツは事実上分裂状態で諸侯たちは隙があれば隣の諸侯の領地を奪おうとしていた。大義名分があれば奪いたい。宗教対立は大義名分としては申し分ない。皇帝カール5世は1526年、ルター派を禁止するので、ローマ教会側に残った諸侯は堂々とルター派諸侯の領地に攻め込むことができた。ルター派諸侯ももうローマ教会の破門なんか怖くないから、逆にローマ教会側諸侯を攻めても宗教上の恐怖はない。ドイツ中が騒然となってくる。皇帝はルター派諸侯をつぶすだけの圧倒的な実力はない。かといってローマ教会との関係は大事なのでルター派を認めるわけにもいかない。そこに、ローマ教会のご機嫌をとっているわけにもいかない事件がおきる。ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が神聖ローマ帝国に攻め込みウィーンを包囲した。これを第一次ウィーン包囲という(1529)。ウィーンはドイツ皇帝ハプスブルグ家の本拠地。オスマン帝国はイスラム教。ドイツの諸侯同士がルター派、ローマ教会だと争っていても、どちらもキリスト教であり、イスラムによってドイツが占領されたら元も子もない。ドイツ人が団結しなければオスマン帝国にウィーンが攻め落とされてしまう。そこで、カール5世はルター派諸侯の救援を得るためにルター派の信仰を認める。オスマン帝国はウィーンを攻めきれずに撤退するが、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で、カール5世は再びルター派を禁止する。これに対してルター派諸侯が抗議。抗議する人という意味で「プロテスタント」と呼ばれる。この呼び方が定着し、現在ではルター以後の新しい宗派を一括してプロテスタントという。日本語訳では「新教」。ローマ教会は、カトリックとか「旧教」と呼ぶ。このあとルター派諸侯はシュマルカルデン同盟という組織をつくって皇帝に対して反乱をする。1546年から47年までのシュマルカルデン戦争。戦争は一応皇帝の勝利に終わるが、混乱が続いてカール5世は退位。そのあと即位したカール5世の弟は、1555年にルター派の諸侯と都市に信仰の自由を認める。これを「アウグスブルグの宗教和議」という。これで、とりあえずドイツ国内の宗教対立は落ち着く。ただし、このアウグスブルグの宗教和議で認められた信仰の自由は個人の信仰の自由ではない。諸侯と都市の信仰の自由だ。ある諸侯がルター派を選択したらその領地の住民はみんなルター派を信仰しなければいけない。ローマ教会がいいと思う市民も、住んでいる都市がルター派教会を選択したらローマ教会を信じてはいけない。だから、このあと60年後に再び宗教問題でドイツには大きな戦争が起こることになる。

 そして、カルヴァンの宗教改革へと流れが続く。ルターに影響されて各地で宗教改革者があらわれるが、そのなかで重要なのがカルヴァン(1509~64)、フランス生まれだが、宗教改革者としての活動が受け入れられず亡命する。当時スイスではルターの影響で宗教改革に熱心な都市がいくつかあって、カルヴァンはジュネーブに招かれて宗教改革をおこなう。事実上のジュネーブの支配者として神権政治を実施する。カルヴァンは厳格な人で、飲酒・賭博など聖書の教えに背く不道徳なことは絶対許さない。酒場は皆店を閉じて、町は火の消えたようになる。カルヴァンの命令に逆らったら死刑にされることさえあるので恐怖政治みたいだった。このカルヴァンの教えには画期的なところがあって、やがて彼の説はルター派よりも広くヨーロッパ各地に広まっていく。カルヴァンの主著は『キリスト教綱要』(1536)、ここで説かれている教えで「予定説」というものがある。予定の「予」は「あらかじめ」、「定」は「決定している」という意味。われわれ一人ひとりが天国にいけるかどうかが、あらかじめ決定しているという意味。普通、救われるかどうかは信仰の深さ、日々の行い、そういったもので決まると考えられている。教会の教えに従い、信仰を守っていれば神様はきっと救ってくださる。ところが、カルヴァンは、そんなことはないと言いきる。カルヴァンによれば神というのは超越的なもので、神がどういうふうに考えて、世界をどう動かすかということは、人間ごときが想像してわかるものではない。信仰すれば救われるなどというのは人間の勝手な思いこみで、神は自分の偉大さを示すために人間の努力などの及ばないところで誰を救うかをあらかじめ決めているという。あらかじめというのは、その人が生まれる前から決まっているということ。だから、神様に選ばれている人は、悪いことをさんざんしても、極端に言えば神を信じなくても救われる。選ばれていない人は、いくら教会に熱心に通い、祈り、善行を積んでも救われないという理屈になる。

 人間には、神が何を規準に救う人救わない人を分けるのかはわからない。わからないことこそが神の偉大さだという。これは、恐ろしい考え方で、予定説が正しいとすれば、信仰しても信仰しなくても結果は同じ。だったら教会も神様も全部無視して好き勝手に生きればいいという考えにもなりそうだ。カルヴァンは言う。信者に向かって「あなたが救われるかどうかは誰にもわからない。」「一所懸命神に祈っても無駄である」。カルヴァンの教えが広く受け入れられた核心部分は予定説だ。カルヴァンに誰が救われるかはわからないと言われたとき、ほとんどの人は自分が救われない人とは思わない。「自分は神に選ばれているに違いない」、もっと露骨に言えば「他の全部が地獄に堕ちても私だけは神に選ばれているはずだ」と考えた。自分だけは大丈夫、そう考えると、次に「神様、私を選んでくれてありがとう」と思う。自分を選んでくれた神様におのずから感謝を捧げる気持ちになる。熱心に信仰するようになる。一見厳しい教義だが、はまった人にとってはエリート意識をくすぐられる。ただ、信者は自分が選ばれている人間だと思うものの、何の証拠もない。少しでも自分が選ばれた人間である手がかりが欲しいと思う。そこで、カルヴァンは神は偉大すぎて誰が救われるか我々にはわからないとしながらもこんなことを言う。神に選ばれて救われる人が誰かを知る方法はない。ただ、神から選ばれた人は運がよい。だから、選ばれたものは現世で成功する確率も高い。職業というのは神からあたえられた使命だから、おのおのが自分の職業でがんばって成功するならば、その人は神から選ばれた者である可能性が高い。

 では、その成功はどこで見えるのか。カルヴァンの答えは単純で、「お金が貯まること」お金を貯めればためるほど成功の証拠になる。カルヴァンは職業的成功が救済の証拠になると説く。成功は蓄財によって証明されるので、カルヴァンは必然的に蓄財を肯定する。この点がそれまでのキリスト教と違う。カトリックは蓄財を肯定しない、お金を貯めることは卑しいといってきた。必要以上にお金を貯めたならそれは教会に寄付すべき、個人で使い切れないお金を持つのは不道徳という。イエスは金持ちは天国に入りにくいと教えていた。ところが、カルヴァンは「お金を貯めなさい。どんどん貯めなさい。」と言ってくれる。だからカルヴァンの教えが広がったのは新興の市民階級、商工業者だ。蓄財に関する罪悪感をカルヴァンは見事に取り払ってくれた。お金をどんどん貯めるが、貯めて贅沢をしようとは全然考えない。贅沢三昧したらお金が減ってしまう。貯めること自体が目的になった。貯めまくって自分の救済の確信を得たい。だから、カルヴァン派の信者は勤勉に働いてお金を貯めるが、生活は質素で倹約的だった。生活のためではなく神の栄光のために働く。修道院で修道士が働くのに近い。商工業が発達する地域にカルヴァン派はどんどん広まっていった。ネーデルラント(今のオランダ、ベルギー)、フランス、イギリス等。資本主義の発展とカルヴァン派の教義に関係があるという説もある。カルヴァン派の教会制度で「長老制度」というものがある。ローマ教会と違ってルター派もカルヴァン派も、個人の救済を神に「とりなす」教会や教皇、神父の役割を認めない。両派とも神と人をつなぐ聖職者=神父はいない。ローマ教会で神父にあたるものをプロテスタントでは牧師と呼ぶ。牧師は信者に聖書を教える教師であり、神との関係で特別の地位にあるのではない。カルヴァン派の場合は特に一般信者の代表を長老といい、この長老が牧師とともに教会を運営した。誰が救われるかもわからないのに特権的な聖職者を置く必要はない。ある意味では身分社会の序列をやぶる画期的なものだった。ヨーロッパ各地でのカルヴァン派の呼称は、オランダではゴイセン、イギリスではピューリタン、フランスではユグノー、スコットランドではプレスビテリアンと呼んだ。
 
 イギリスでも宗教改革が起こるが、これはルターやカルヴァンとは違って教義の内容、信仰の問題ではなく、政治問題からはじまった。発端は国王の離婚問題。イギリス国王はヘンリ8世(位1509~47)。ばら戦争後、チューダー朝を建てたヘンリ7世の子供だ。ヘンリ8世にはカザリンという夫人がいた。カザリンはスペイン出身で、コロンブスの航海を援助したイザベラ女王の娘である。政略結婚でイギリスに請われて輿入れしてきた。当時のイギリスはまだまだ貧しく弱い三流国。スペインはアメリカ植民地経営で絶頂期。しかも、ヘンリ8世の在位時はスペイン国王はカルロス1世で、カザリンの甥にあたる。このカルロス1世は父親がハプスブルグ家出身だったので、同時に神聖ローマ帝国皇帝となっている。神聖ローマ帝国皇帝としての名前はカール5世、ルターの宗教改革で登場した王である。スペイン王カルロス1世と神聖ローマ帝国カール5世は同一人物だった。

 カザリンにとってヘンリ8世は二人目の夫。最初の夫はヘンリ8世のお兄さん。そもそも、この兄の方が王位を継ぐ予定だったので、父ヘンリ7世はスペインからカザリンを妻としてめあわせた。ところがこの兄さんが即位する前に病気で死んでしまう。弟のヘンリ8世が皇太子となる。お兄さんの嫁さんも押しつけられてしまう。あまりにも露骨な政略結婚なので、ヘンリ8世としてはカザリンに愛情を抱けない。そんなヘンリ8世はカザリンの侍女を好きになる。侍女の名前がアン=ブーリン。ヘンリ8世はアン=ブーリンと正式に結婚したいと思う。アン=ブーリンと結婚するにはカザリンと離婚しなければならない。カトリックでは、離婚は神への誓いを破ることになる。破るには破るなりの正当な理由がなければ教会は離婚を許してくれない。教会はローマ教会だ。ローマ教会は信者と神をつなぐ「とりなし」役だから、ローマ教会が許可してはじめて離婚は正式に認められる。ヘンリ8世はローマ教会に離婚を申請し、政治的にプレッシャーをかける。ところが、カザリンは別れたくない。カザリンの甥っ子が神聖ローマ皇帝カール5世であり、おばさんの味方になる。ヘンリ8世の離婚を認めてはならんと、ローマ教会にプレッシャーをかける。ドイツではルターの宗教改革がはじまって、ローマ教会としては是非ともカール5世のバックアップが欲しいところ。結局ローマ教会はヘンリ8世の願いを受け入れない。どうしても離婚したいヘンリ8世、それなら、ローマ教会なんか抜けてやるといってローマ教会の信者をやめてしまう。イギリス国民全体を信者にして新しい教会組織を作ってしまう。これを定めた法律が1534年国王至上法(首長法)だ。新しい教会がイギリス国教会となる。教会の最高指導者がイギリス国王。イギリス国教会は、教義はプロテスタントの影響を受けているが、儀式などはローマ教会に近い。ジェントリという地方の有力者層は国王を支持した。なぜか、ローマ教会からの離脱にともなって、国王はイギリス国内の修道院の土地財産を没収して払い下げた。これを譲り受けたのがジェントリたちだった。イギリスの宗教改革はイギリス王室とローマ教会の土地財産をめぐる闘争という面もあった。

 ローマ教会の立場からヘンリ8世の宗教改革に反対しまくったのがイギリス大法官トマス=モアであり、『ユートピア』の著者でもある。結局王の怒りをかって処刑されてしまう。ヘンリ8世は、その後めでたくアン=ブーリンと結婚し、二人の間には女の子が産まれた。王子が欲しかったヘンリ8世はまた別の女性に目移りし、邪魔になったアン=ブーリンをロンドン塔に幽閉し、処刑してしまった。死ぬまでに6回結婚して、そのうち二人を殺している。ヘンリー8世が死んで、ただ一人の王子が即位する。エドワード6世だ。ヘンリ8世の三番目の奥さんが生んだ子であり、まだ少年だった。ローマ教会はヘンリ8世がなくなれば、またイギリスはローマ教会に復帰してくれるのではないかと期待していたが、エドワード6世を支える重臣たちはヘンリ8世の遺言を守ってイギリス国教会を維持する。エドワード6世は即位してまもなく死んでしまうが、アメリカの作家マーク=トゥエインの『王子と乞食』のモデルにされたことで少し有名だ。エドワード6世がなくなったあと、王位を継いだのがヘンリ8世の娘メアリ1世(位1553~58)。メアリの母はカザリンだ。メアリは自分の母を離婚した父親ヘンリ8世が好きでなく、離婚の結果できたイギリス国教会も大嫌いだった。メアリは母親と同じようにローマ教会を信じている。彼女は即位するとイギリス国教会をやめてローマ教会に復帰する。ジェントリたちにとってはローマ教会から没収した財産がどうなるか心配で、自分たちの財産を守るためにもイギリス国教会の方がよかった。

 さらにメアリ1世はスペイン国王フェリペ2世と結婚する。フェリペ2世は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世も兼任)の息子で当然ローマ=カトリックだ。メアリ1世がフェリペ2世の子供を生んで、この子がスペイン王とイギリス王を兼ねれば、イギリスという国がなくなってしまう可能性もあった。メアリ1世は人気がない。メアリは自分の宗教政策に反対する臣下をどんどん処刑していく。彼女についたあだ名が「ブッラド・メアリ」「血のメアリ」。ところがメアリ1世は即位5年で死ぬ。次に王位につくのがエリザベス1世(位1558~1603)だった。エリザベスはヘンリ8世とアン=ブーリンの間の子であり、メアリとは腹違いの妹になる。この姉妹は当然仲が悪い。メアリは自分が王位についているあいだ妹のエリザベスをロンドン塔に幽閉していた。いつ処刑されるかわからない状態だったが、メアリの突然の死で王位についたエリザベスはイギリス国教会を復活させる。1559年、信仰統一法という法律でイギリス国教会を確立する。エリザベスは50年近く在位し、この時期に国教会は完全に定着し、二度とローマ教会復帰の動きは起こらなかった。

 カトリックの改革運動のルター派、カルヴァン派、イギリス国教会などローマ教会から分離した教会が成立して、ローマ教会の勢力は衰える。特にヨーロッパ北部には新教の勢力が多くなる。これに危機感をもったローマ教会は、組織の点検、改革に取り組み、巻き返しをはかろうとする。これを対抗宗教改革ともいう。そのために開かれた会議がトレント公会議だ。これは1545年から63年まで実に20年近く続いた。この会議で、教皇の至上権の確認、異端の取り締まりの強化、具体的には宗教裁判や禁書の強化が決定された。特に、ローマ教会の勢力が強固なイタリア半島、イベリア半島では宗教裁判が頻繁におこなわれ、魔女狩り、魔女裁判、この時期が一番多い。また、地動説も目の敵にされてガリレオが自説を撤回させられたのもこの時期だった。

 対抗宗教改革の盛り上がりの中でつくられた組織にイエズス会もある(1534年)。イエズス会はアジアで積極的に布教活動をおこなったことで有名だ。ヨーロッパで衰えたローマ教会の勢力を、世界への布教で挽回しようとした。設立したのがイグナティウス=ロヨラ。スペイン北部のバスク地方出身。城を持っているくらいの貴族の生まれ。軍人として活躍するがフランスとの戦争で両足を負傷して入院。ケガで軍人として以前のように活躍のできないロヨラは自分の今後の生き方を悩んでいたが、かれの出身地のバスク地方というのは今でもスペインからの独立運動をやっている地域で、スペイン人の本流の人たちとは言語や風習がかなり違う。バスク人であるロヨラが、今後スペイン政界で大きな活躍ができない。入院中のロヨラは読書三昧、そのときにイエスの伝記を読んで、今後の人生を神に捧げることを決心する。思い立ったら即行動、神に仕えるためには本格的に神学の勉強をしなければならないと考え、退院後パリ大学に入学。このとき38歳。この年齢で大学に入る、まわりの学生はみんな二十歳そこそこ。当時の大学は全寮制。そこに38歳の元軍人の大人が加わる。若い学生たちはロヨラにどんどん感化され、同志になっていく。大学卒業と同時にロヨラが同志6人と結成したのがイエズス会だ。

 このときの創立メンバーにフランシスコ=ザビエルもいた。ザビエルもバスク地方の貴族でハビエル城という城持ちの貴族だったが、スペインの支配下に入って、閉ざされた活躍の場を布教活動に求めた。イエズス会は軍隊的組織に特徴があった。軍人だったロヨラは会の組織を軍隊と同じにする。トップである総長の命令には絶対服従。会員はどんな困難な命令でも従わなければならない。この厳しい規律のおかげでアジアに信者を増やしていった。イエズス会はポルトガル王の保護のもとでポルトガル商人の出入りするアジア地域に進出。幹部であるザビエルもその一人。ザビエルはインド方面で布教をしていたが、マラッカで日本人ヤジローと出会う。ヤジローは薩摩の人。殺人を犯して、薩摩に出入りしていたポルトガル商人にすがってマラッカまで逃げてきていた。鎖国以前の日本人は驚くほど活動範囲が広い。ヤジローはポルトガル語もできて、頭脳明晰、論理的に物事を考えられる人だった。それを見てザビエルは日本人には布教をしやすいと考えた。ヤジローをつれて日本に向かう。マカオまではポルトガル商船で行って、そこからは中国商人の船を雇う。着いた場所が薩摩だった(1549年)。ここから日本でのキリスト教がはじまる。ザビエルはイエズス会の大幹部、彼が直接一般の日本人に布教することが本来の仕事ではない。特命全権大使みたいなもので、日本の支配者たちにキリスト教を受け入れさせる、布教の許可を得る、できることなら何らかの特権を獲得する、それがザビエルの仕事なので、九州各地や山口で守護大名に面会する。天皇に面会しようと京都まで上るが、応仁の乱後の大混乱で京都は荒れ果てていた。そこで、京都はあきらめ、また九州に戻る。ザビエルは1551年には中国布教をめざして日本を去って翌年病死する。ただ、ザビエル以外のイエズス会士は日本に残り布教活動をつづけ、九州の大名はポルトガルとの貿易が有利になると考え、キリスト教を受け入れていく。

 このキリシタン大名たちがローマ教会に使節を送ったのが1582年、有名な天正の遣欧使節だ。イエズス会士に引率されて九州出身の4人のキリシタン少年がローマまで行く。日本史では有名な出来事だが、当時のヨーロッパでも大歓迎されている。ローマ教会としては、いかに世界の果てまで信者がいるかという生きた証拠だから広告塔としても申し分ない。プロテスタント諸派の中で日本に信者がいる教会はない。だからローマ教会の勝ちになる。使節はスペインではフェリペ2世と会い、ローマでは教皇グレゴリウス13世に拝謁。グレゴリウス13世は、今我々が使っている太陽暦、グレゴリウス暦を制定した人でもある。その後もヨーロッパ各地をまわり、1590年に長崎に帰る。このとき印刷機を持ってくる。ルネサンスの時期、かれらは日本を統一していた豊臣秀吉にも謁見する。やがて、徳川時代にキリスト教の禁令が出たあとは、キリスト教を捨てた者、国外追放になった者、信仰を守って処刑された者など、さまざまな運命をたどる。宗教改革の波紋が、日本にまで及んだ。

 ルネサンスや地理上の発見、宗教改革、これらのことはほとんど同時に起きている。同じ時期に、イタリアを舞台に戦争があった。イタリア戦争(1494~1559)。だらだら続いた戦争で、分裂状態だったイタリアの支配権をめぐってドイツ皇帝、フランス王、スペイン王が争った。複雑な国際関係というものが、すでにヨーロッパに誕生している。大事なのはイタリア戦争ではなくて、「国際関係」。国際関係があるということは、国があるということで、ヨーロッパに、この時期に国というものができてきたということだ。正確に言えば「主権国家」というものだ。それまでは、主権国家がなかったのか、はっきり言ってなかったのだ。イギリス国王がノルマンディー公としてはフランス王の家臣ということが平気であった時代だ。どこからどこまでがフランスで、どこからどこまでがドイツなのかわからない。王の権力が及ぶ範囲がはっきりしない、そういう世界が中世ヨーロッパだった。そういうなかで、商工業で経済力をつけてきた市民階級を味方にした王が政治の中心として飛びぬけた地位を得るようになる。そういう王たちが主人公として争いあったのがイタリア戦争だった。十字軍にしても、百年戦争にしても、王たちとまったく同格で、伯とか公が活躍していた。主権国家という国家のとらえかたは誕生してまだ500年しか経っていない。アジアや古代の国々は主権国家ではないのかというと、主権国家というより「王朝」国家だった。

 一方、コロンブスをアメリカに送り出したスペインは、16世紀になって絶頂期を迎える。重要な王様が二人、最初が、カルロス1世(位1516~56)。母親がスペイン王女だったので16歳でスペイン王位につくが、父方の祖父がハプスブルク家神聖ローマ皇帝だったので、ハプスブルク家出身でもある。スペインだけでなく、ハプスブルク家の領地も相続するので、カルロス1世の領土は膨大になる。スペインはもちろん、ネーデルラント、オーストリア、南イタリアなど、そしてアメリカ大陸のほとんどの部分が領土になる。1519年には神聖ローマ皇帝となり、神聖ローマ皇帝としての名前はカール5世。皇帝としては、困難な問題に直面、宗教改革とそれにともなう内乱、イスラムの大帝国オスマン朝によるウィーン包囲など、大事件が続発している。宗教改革で起きた混乱はアウグスブルグの宗教和議(1555)でおさまるが、この時にカール5世は引退する。オーストリアの領地と神聖ローマ皇帝の地位を弟フェルディナントに譲り、スペイン、南イタリア、ネーデルラント、アメリカ植民地を息子フェリペに譲った。この結果、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれた。

 カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世としての活動の方が重要で、スペイン王としての影は薄い。カルロス1世はスペイン王といっても、生まれも育ちもフランドル地方、今のフランス北部からベルギーにかけての土地だから、スペイン語がどれだけできたか疑問だ。スペイン王としては息子のフェリペ2世(位1556~98)の時がスペインの最盛期となる。彼が相続した領土で、ネーデルラントは特に重要で、宗教的にはローマ=カトリックであり、対抗宗教改革の中心となって新教諸派を弾圧。ローマ教会としては頼もしい味方となる。そして、1571年には、レパントの海戦でオスマン帝国海軍を破っている。オスマン帝国は陸軍も海軍も、向かうところ敵なしで地中海を制覇しようとしていたが、この勝利はスペインに大きな自信をあたえる。この海戦でオスマン帝国海軍を破ったスペイン艦隊は「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれる。『ドン=キホーテ』を書いた文豪セルバンテスがこの海戦に参加して片腕を失った話は有名。1581年には、ポルトガル王位も兼ねる。フェリペ2世の母親がポルトガル王家出身だったため、王位が転がり込んできた。ポルトガルはアジア方面に多くの商館を建設していたので、これもフェリペ2世の支配下だ。

 当時、全世界にスペインの領土があった。この時代のスペインは「太陽の沈まない帝国」といわれた。世界中に領土があり、24時間いつでもスペインには昼の場所があった。まさにスペインの黄金時代。経済的には、アメリカ大陸から黄金がどんどんスペインに運ばれてくる。また、ネーデルラントはヨーロッパでも商工業が発展した豊かな地域だったから、ここからあがる税金も多い。フェリペ2世は、この有利な条件を利用して、上手に国家経営をおこなうこともできたはずなのだが失敗している。フェリペ2世の時代から400年たった現在、スペインはかつての黄金時代の面影はない。ヨーロッパ諸国の中では貧しい国になってしまった。フェリペ2世は、この莫大な富を何に使ったのか。戦争と奢侈に浪費し、見栄を張るために使ってしまった。フェリペ2世の置かれた立場というのは、宝くじで大金が当たったみたいなもので、努力したわけではなく、たまたま相続関係などで莫大な収入を得ることができた。フェリペ2世はその収入を投資せずに使ってしまった。国土の開発、産業の振興など、国を発展させるためのお金の使い方があったが、そういうことはしなかった。無尽蔵に運ばれて来るアメリカ大陸の金銀もやがて枯渇する。そして、重税にあえぐネーデルラントの人々がスペインからの独立戦争を始めた。かれの治世にドル箱のネーデルラントが独立戦争を開始し、スペイン自慢の無敵艦隊もイギリスに敗れた。フェリペ2世の晩年からスペインは急速に衰えた。

 さて、オランダ(ネーデルラント)はどうなったか。フェリペ2世の時代にスペインの領土だったネーデルラントは、現在のベルギー、オランダ。ここは古くから商工業が発達して経済的に繁栄していた。地理的には東ヨーロッパと西ヨーロッパ、イギリスを結ぶ交通の要地にあって、ハンザ同盟に加わり繁栄した都市があり、毛織物工業も盛んだった。百年戦争の原因の一つはこの地域の帰属問題だった。ネーデルラントでは豊かな商工業者の発言力が強く、この地域のオピニオンリーダーだった。宗教はカルヴァン派が多数。カルヴァン派は蓄財を認めるので、商工業者に信者が多かった。ネーデルラントの人たちは経済的な利害をともにしていて、団結力もある。レンブラントの『夜警』という絵、市民の自警団が町を守っているところ、ここに描かれているのはアムステルダムの実在の商人たち、商人たちが自分たちでお金を出し合ってレンブラントを雇ってこの絵を描かせた。要するに現代で言えば集合記念写真みたいなもの。同じくレンブラントの『織物検査役人』という作品。これも織物組合の人たちの集合肖像画。組合の本部に飾られていたもの。飛び抜けた英雄や指導者がいるわけではないが、市民一人ひとりが協力してネーデルラントを発展させてきたという気風が伝わってくる。ネーデルラントの人々から見れば、自分たちの住む「くに」は、封建領主の結婚で所有者が代わって、たまたまスペイン、フェリペ2世の領土になっているだけ、スペインに対して忠誠心なんか全然ない。

 ところが、フェリペ2世は、いきなりネーデルラントの都市に重税をかける。それだけでなく、宗教もローマ=カトリックを強制しようとした。これが原因で、1568年、ネーデルラントの人々は独立戦争を始める。指導者はネーデルラントの名門貴族オラニエ公ウィレムだ。フェリペ2世はスペインから軍隊を送り込んで、ネーデルラント側との戦いが始まるが、スペインも強国だから、ネーデルラントは簡単には独立できそうにない。そういう中でネーデルラントの南部10州が独立戦争から脱落する。南部はローマ=カトリックの信者が比較的多かったのも脱落の原因だ。これに対して、北部の7州は戦う覚悟を固めて、1579年ユトレヒト同盟という対スペイン軍事同盟を結成する。

 ネーデルラントはもともと国の形になっていないので都市や州という地域ごとに団結を確認しながらスペインと戦っている。ユトレヒト同盟の中心だった州がホラント州。オランダ船がはじめて日本に来たときに、応接した役人が「おまえたちは、スペイン人やポルトガル人とは違うようだが、どこから来た」と尋ねた。オランダの船乗りはホラント州出身だったので「ホラントから来た。」と答え、このときホラントを国名と勘違いして日本ではこの国のことをホラントがなまったオランダという名前で呼ぶことになった。だから、オランダというのは日本だけの呼び方だ。外国人にオランダと言っても通じない。それはともかく、ユトレヒト同盟は1581年には独立を宣言して、ここにネーデルラント連邦共和国が成立。ただし、スペインはあきらめたわけでなく、この後も戦争は続いて、1609年、スペインと休戦条約が結ばれ、ようやく事実上の独立を達成。脱落した南部10州はのちにベルギーとなった。ネーデルラントの独立戦争をイギリスが援助した。当時のイギリス王はエリザベス1世。フェリペ2世のプロポーズを受け入れるようなそぶりを見せて結局ふってしまった因縁の関係だが、ネーデルラントの商人たちはスペインとの戦争をしながらも、したたかに海外貿易を繰り広げていた。

 当時、海外貿易に利用できる大型帆船がヨーロッパ全体で2万、そのうちネーデルラントの船が1万6千だったともいわれる。17世紀前半のネーデルラントは、最先端の造船技術を持っていた、また、フランスなどから新教徒の商工業者がネーデルラントに移住してきたことなどにより、ヨーロッパの中で飛び抜けた経済的な地位を獲得し、アムステルダムは国際商業・金融の中心として繁栄。貿易の中心だったのが1602年に設立されたオランダ東インド会社。東インドというのはアジア。コロンブスがアメリカ大陸をインドだと思いこんでしまった影響で、アメリカをインドと呼ぶ慣習があって、本当のインドと区別するためにアメリカを西インド、本当のインドおよびアジアを東インドと呼ぶ習わしがあった。衰えていくスペインに取って代わって、アジア・アメリカ貿易を握っていく。このスペインからネーデルラントへの貿易の主役交替は、日本の歴史をみていてもはっきりわかる。

 戦国時代、さかんに日本に来航していたのは南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルだった。オランダ船がはじめて日本に来たのが1600年。リーフデ号という船で、実はこの船は二年前の1598年にオランダを出航している。コショウを買い付けるためにインドネシア方面に行くはずだったのが、嵐に巻き込まれて漂流し、現在の大分県の海岸にたどり着いた。だから、意識して日本に来たわけではない。出航時110名いた船員のほとんどはすでに死んでいて、生存者はわずか24名、海外貿易は命がけだった。当時は関ヶ原の戦いの直前。徳川家康は世界情勢も気になり、リーフデ号の乗組員のオランダ人たちから情報収集した。その後かれらはオランダに帰るが、徳川家康に気に入られてそのまま日本に残ったのが2名。そのひとりがヤン=ヨーステン。この人の屋敷が江戸にあたえられて、その屋敷跡が八重洲という地名に残っている。東京駅に八重洲口という地名が残る。もうひとりがウィリアム=アダムス。オランダ人ではなく、イギリス人。イギリスがネーデルラントの独立を支援していたという外交関係が浮かんでくる。かれはパイロット。日本語で水先案内人。羅針盤を見ながら船の航路を決めていく役割。ウィリアム=アダムスは徳川家康の外交顧問になる。三浦半島に領地をあたえられたかれの日本名が三浦按針(みうらあんじん)。按針とは羅針盤の針を点検するという意味。これ以後、オランダ、イギリスの商船が日本に来航するようになるが、オランダは、「キリスト教の布教はしません、純粋に商売だけをさせてもらいます」と家康に売り込んで、イエズス会の宣教師と一体になってやってくるスペインを追い落とし、やがては日本貿易を独占していく。ヨーロッパでの両国の力関係の変化が、そのまま日本との貿易にも反映される。リーフデ号の船首には、ネーデルラントが生んだルネサンス最大の人文学者エラスムスの像が飾られていた。このエラスムス像は現在でも残っていて、東京の国立博物館にある。

 イギリスは、ノルマン征服で成立したノルマン朝以来、他のヨーロッパ諸国にくらべて、王権が比較的強いという伝統があった。しかも、1455年から三十年間つづいたばら戦争で国内の有力な封建諸侯は没落してしまった。ばら戦争後即位したテューダー朝のヘンリ7世は意欲的に王権の強化につとめた。また、このころから新興市民階級が力をつけてきた。具体的には商人と、新興地主層。イギリスの新興地主層を特に「ジェントリ」と呼ぶ。地主だが、貴族ではない。ヘンリ7世の次がヘンリ8世、イギリス国教会をはじめた王だった。この頃、16世紀になるとイギリスの農村ではジェントリによる「第一次囲い込み(エンクロージャー)」が盛んになる。ジェントリたちが、自分の土地を耕している小作人を追い払って広大な農地を柵で囲って、文字通り囲い込む。小作人を追い払って、そのあとどうするか、広大な農地に牧草を育てて、大量に羊を飼う。そして羊毛をとる。とった羊毛は、これをネーデルラントに輸出する。ネーデルラントは毛織物工業で発展していた。その原料はイギリスが輸出していた。だから、ネーデルラントの発展は、即イギリスの羊毛輸出量の増加、つまりイギリスの発展につながる。こういう流れの中で、16世紀半ばにエリザベス1世が即位し、イギリスの後の大発展の基礎を築く。

 エリザベス1世の肖像画、大きな蛇腹の襟巻きとか、ふっくらした袖とか、真っ白に塗った化粧とか、ファッションだけでも見ていて飽きない。即位したのが25歳。美人で独身でイギリス王だから、ヨーロッパ各地の王侯貴族からのプロポーズがたくさんあった。中でも、スペインのフェリペ2世は有名。フェリペ2世はエリザベスの姉、メアリと結婚していたが、メアリが死んだあと、妹のエリザベスにプロポーズした。政略だが、節操がない、統治階級の人にとってはすべてが駆け引き。今でこそイギリスは一流国だが、当時のイギリスはまだヨーロッパの中では弱小国。スペインやフランスのような大国のはざまで、何とか国家の独立と発展をはかろうと必死な状態だった。エリザベスは、美人で独身という自分の魅力を最大限に発揮し、フェリペ2世のような有力者のプロポーズを受けるようなそぶりをして、気を持たせ、なかなか正式な返事をしない。じらして相手からイギリスにとって有利な条件を引き出そうと、自分の結婚を外交カードとして最大限利用した。

 結局エリザベスは生涯誰とも結婚しない。イギリスの国益ということを最優先に一生を過ごした。なぜ、結婚しないのかときかれてエリザベスは「私は国家と結婚している」と言った。この言葉に彼女の生涯は象徴されている。イギリス国民もまた、そういう女王を愛した。「愛すべき女王ベス」なんて呼ばれている。エリザベス1世はどんな政治をしたか。まず、イギリス国教会を確立。姉がローマ=カトリックだったから、これをイギリス国教会にもどした。そのための法律が「信仰統一法」(1559)。次に、ネーデルラント独立戦争を援助。なぜか、ジェントリが生産した羊毛はネーデルラントに輸出されるから、ネーデルラントの平和と発展がそのままイギリスの発展につながる。スペインのフェリペ2世はネーデルラントに重税を課し、これに反発してネーデルラント独立戦争がはじまった。

 経営感覚のないフェリペ2世に統治されるより、独立したほうがネーデルラントの発展につながる。また、イギリスはスペインと宗教問題でも対立していたから、徹底的にスペインの邪魔をした。スペインが困ればネーデルラントは楽になる、イギリスにも利益となる。有名なのが海賊にあたえた私掠特許状。イギリスは海に囲まれた国だから海賊がたくさんいた。エリザベスはこの海賊に「略奪してもおとがめなし」という免許状をあたえる。これが私掠特許状。ただし、イギリスの商船を襲うことは許されない。スペイン船ならオーケーという。これは、れっきとした犯罪行為、今風に言ったらテロ支援国家イギリスか。海賊の親分で有名なのが、ホーキンズとかドレイク。一枚の絵がある。エリザベス女王がドレイクを自分の臣下にしている、ひざまづいているドレイクの肩をエリザベスが剣で打っている。これが臣下にする儀式。女王から許可をもらった海賊たちは大西洋に乗りだし、アメリカ大陸からお宝を満載してスペインに向かう商船をつぎつぎと襲い、スペインに多大な損害を与えた。とくにドレイクは1577年から1580年まで世界一周海賊旅行。出発前にエリザベス女王や金持ちの貴族たちから出資金を集めて出発。途中でスペイン商船やスペインの港を襲いながら、西回り航路で地球を一周。イギリスに帰ってきたときには30万ポンドの利益を得ていた。これは、イギリスの当時の国庫収入と同額だ。エリザベス女王は出資金の4700%の配当金を得ている。このときのドレイクの航海はマゼラン艦隊についで世界で二番目の世界周航になる。

 はじめスペインのフェリペ2世は、エリザベスが海賊に特許状をあたえているとは思っていない、海賊の取締を要請するが、エリザベス自身が海賊の総元締めなので効果があるわけがない。やがて、フェリペ2世はイギリスがしていることに気がつく。おまけに、イギリスはネーデルラントの独立を支援している。こうなると、スペインとしてはイギリスを放っておけない。ここで、スペインはイギリス征服作戦を開始する。スペインの誇る無敵艦隊が百三十隻、将兵二万三千人を乗せてイギリスに向けて出撃。これが、1588年。スペインは当時ヨーロッパ最強。イギリスはまだ弱小国。エリザベス女王が海賊にスペイン船を襲わせていたのも、もとはといえば、貿易でも戦争でも正面から立ち向かって勝ち目がなく、ゲリラ戦をやっていたにすぎない。イギリスには当時海軍すらなかった。このままでは、イギリスはスペインに占領されてしまう。

 この時に、イギリスの危機を救うために集結したイギリス海軍、もとは私掠特許状をもらった海賊たち。これが有名なアルマダの海戦。ドーヴァー海峡にやって来たスペイン無敵艦隊の戦法は衝角戦法という。自分の船を相手の船にぶつけて沈没させる伝統的な戦法、これに対してイギリス船は、射程距離の長い大砲を載せて、これでスペイン艦隊を撃つ。イギリス船は小型の船が多いが、これが狭いドーヴァー海峡を動き回って無敵艦隊に攻撃を仕掛ける。無敵艦隊の方は、大きい船が多く、イギリス船に近づく前に大砲で撃たれてしまう。嵐も重なって、操船がうまくいかず大敗北をしてしまう。そのあとの海戦にも敗れ、逃げるように大ブリテン島のまわりをグルッと廻ってスペインに帰る。艦隊の三分の一が失われる。フェリペ2世はイギリス征服を断念する。

 スペインはずるずると世界史の主役の座から滑り落ちてゆく。スペインに取って代わって、世界の海に乗り出していったのがネーデルラントとイギリスだ。イギリスは1600年、東インド会社を設立してアジア貿易に乗り出す。エリザベス女王は足かけ46年間在位し、その間に国内の宗教問題を解決し、イギリスの国際的地位を向上させ、経済発展の基礎を固めた。肖像画(山川出版社、世界史写真集のパネル)は多分晩年のものだと思われるが、実に面白い構図、エリザベスの左右に二枚の絵が飾られている。アルマダの海戦を描いたもの。左が開戦直前。向こうから無敵艦隊がやって来ている。手前に固まっている船隊がイギリス海軍。実体は海賊船。右が海戦の最中。嵐の中で、沈んでいく無敵艦隊が描かれている。二枚の絵を後ろに掲げて「私が無敵艦隊をしずめたのです。」とエリザベス女王が自慢している声が聞こえてきそう。注目が、彼女の右手。地球儀の上に置かれている。「七つの海は私のもの」と言っているようだ。

 スペインのフェリペ2世やイギリスのエリザベス1世の時代は、それぞれの国で国王による中央集権化が完成する最後の段階だった。諸侯や貴族たちはすでにかつてのような力がなく、国王が比較的自由に国政をリードすることができた。この時代のことは、「絶対主義」といわれる。国王が、貴族・封建諸侯の権力を制限し絶対的な権力を握ったことから、こういう呼び方をしている。フェリペ2世や、エリザベス1世以外にも、このような王が何人かいる。エリザベス1世のあとを継いだジェームズ1世や、フランスのルイ14世が有名だ。また、絶対主義の政治を絶対王政、絶対主義の王を絶対君主とも言う。絶対主義の一般的な特徴は以下の3つだ。

1、「官僚制」と「常備軍」。絶対君主が権力をふるうためには、王権を支える組織が必要。それが、常備軍と官僚制。官僚は、従来の貴族や封建領主に代わって国王の手足となって働く。常備軍は、いつもある軍隊。それまでは、戦争の時にだけ傭兵を雇うが、平時にも常に軍隊を養っておき、これで国内、国外ににらみを利かせる。
2、「重商主義」。官僚も常備軍も常に雇っておかなければならない。王は彼らに給料を払わなければならない。金を稼ぐために、絶対君主は積極的に海外貿易を推進。各国が東インド会社を作るのはそのため。海外貿易を行うことで、国が豊かになるというのが当時の経済理論、これが「重商主義」といわれる。
3、「王権神授説」。王は、俺が一番偉いのだと威張る。これに反発する者も当然いる。かつては王と同格くらいに力を持っていた封建諸侯、そして、新しく力を伸ばしつつある新興市民階級。国民の反発に対して、王が絶対に偉いのだということを理論化したのが王権神授説、王の権力は神から授けられたもの。王の言葉は神の言葉に等しい。王に逆らうことは、神に逆らうことと同じだから、国民は文句を言わずに王に従いなさいということになる。ただ、国民もそうそう王権神授説をありがたがるわけではない。最初に国民が王の権力に対して異議を申し立てたのがエリザベス1世以後のイギリスだった。

 イギリスのエリザベス1世は1603年、独身のまま死去した。彼女の部屋に出入りするお気に入りの臣下は何人かいたが、ヴァージン・クィーンのあだ名だった。子供もいなかった。問題になるのは跡継ぎだ。王が死んで、後継者がいない場合どうなるか。ヨーロッパではこういう場合、議会などが次の王を選考する。このときも、イギリス議会はエリザベス1世と家系的につながりのある候補者を何人かピックアップして、最終的にスコットランド王に白羽の矢を立てた。イギリスだが、正確にはイングランド。現在のイギリスを思い浮かべると間違い。現在のイギリスは大ブリテン島にアイルランド島の東北部をあわせたものだが、これをイギリスと呼んでいるのは日本だけで、正確には「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」、略してユナイテッド・キングダム。略称U.K. 連合王国というのは、複数の王国がくっついてできていて、中身はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド、これら四つの地方が一つの国になっても、いまだに各地方では独立心が旺盛だ。スコットランド出身の人に「ああ、イギリス人ですね。」なんていったら、相手は多分怒る。「イングランド人なんかと一緒にするな」と。

 サッカーのワールドカップでも、イングランド、スコットランド、ウェールズなど、別のナショナルチームで出場している。ラグビーには五カ国対抗戦という伝統の試合があるが、この五カ国というのが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドにあと一つがフランス。日本人は国というときには、非常にかっちりした組織を連想しがちだが、ヨーロッパ人にとっては国というものは、輪郭の曖昧なもの。エリザベス1世時代のイングランドは、現在の大ブリテン島の南半分しかない。北はスコットランドという別の国。ここの王をイングランド王に迎えようという。スコットランド王はイギリス議会からの誘いを承諾して、イギリス王になった。これがジェームズ1世、ここから始まる王朝がステュアート朝になる。

 ジェームズ1世はイギリス王になるが、スコットランド王をやめるわけではない。ひとりで二つの国の王位を兼ねる。この辺の感覚は、われわれには理解しにくいが、ここからヨーロッパ人の国というものに対する感覚を感じ取るしかない。ジェームズ1世はイギリス王になるために、スコットランドから旅をして南に向かう。国境には、イギリス議会の代表たちが新しい王を出迎えにきていた。イギリスに入ったジェームズ1世は議会代表たちと一緒にロンドンに向かって旅をつづけた。この旅の途中で一つの事件がおこる。一行がスリを捕まえた。犯罪者、当然、このスリはイギリスの法に照らして処罰しなければならないが、ジェームズ1世が口出しをして「そのスリは死刑にしろ」と言った。議会の一行は驚いた。スリのような軽犯罪、裁判にかけても死刑にするようなものではない。王の命令だから仕方がない。スリは死刑にされてしまった。このときに、議会代表のイギリス人たちは、将来に不安を感じた。「この王は、議会の言うことを聞いてくれるだろうか。議会や国民の権利を無視してわがまま勝手をするのではないか」と。

 ロンドンで即位したジェームズ1世は、王権神授説を信奉して、予想通りイギリス議会を軽視した政治をおこなう。かれの言葉で「聖書の中で王は神と呼ばれており、かくして彼らの権力は神の権力にもたとえられる・・・。・・・(王は)臣下全員に対し、あらゆる裁き手であり、しかも神以外の何ものにも責任を負わない」。また、ジェームズ1世はイギリス国教会を国民に強制しようとしてピューリタンを圧迫する。商工業者やジェントリにはピューリタンが多く、かれらは議会にも進出していたので、王と議会の関係はなおさら悪くなる。ジェームズ1世が死んで、あとを継ぐのが息子のチャールズ1世(位1625~49)だ。

 チャールズ1世も父親譲りの思想の持ち主で、議会に対して強圧的な態度に出る。しかも、ピューリタンに対して激しい弾圧をする。ピューリタンの説教を禁止して、反対するものを鞭打ち、耳そぎ、鼻そぎの刑にする。また、宿代を払わずに兵士を民家に宿泊させるなど、国民の権利を無視するような行為が続く。議会は王に対して議会と国民の権利を尊重するように要請書を提出した、これが「権利の請願」(1628)。議会の承認なしに課税をしない、法律を無視して勝手に国民を逮捕しないことを王に確認させた。しかし、チャールズ1世も絶対主義の王であり、議会の要請を受け入れない。11年間は議会なしで専制政治をおこなう。この間に、王がイギリス国教会を強制しようとして、スコットランドで反乱が起きる。チャールズ1世は自ら軍隊を率いて、反乱鎮圧に出かけたが、反乱軍の勢いが激しくて引き返す。その後も、チャールズ1世は戦費が足りなくて苦戦。スコットランド軍は国境線を超えて攻め込んできて、王は賠償金を支払って降伏する。この賠償金を支払うには増税しなければならない。新たな課税をするには議会を開かなければならない。チャールズ1世は議会を開くが、議会はそれまでの王の専制政治を批判して、王と対立。王と議会はそれぞれ軍隊を組織して戦争になる。これが、ピューリタン革命(1642~49)になる。

 議会の多数派がピューリタンだったのでこう呼ばれる。王を支持する貴族たちのグループを王党派、議会のグループを議会派という。王党派は、みんな戦争のプロだから、軍事的には圧倒的に強い。議会派は、ジェントリや商工業者が中心だから、戦争のやり方がわからない。兵士も義勇兵や地方の民兵中心でみんな素人。軍事的には押されっぱなしの議会派を勝利にみちびいたのがクロムウェルだ。出身階層はジェントリ、宗教はピューリタン。典型的な議会派だ。かれは、鉄騎隊という部隊を組織して、王党派軍をめざましい勢いで破って注目される。この鉄騎隊がそれまでの他の部隊と違うのは、敬虔なピューリタンの信者を選りすぐって兵士に採用したこと。戦闘前夜にはクロムウェルを中心にして跪いて神に祈りを捧げたりする。宗教的な団結力のある部隊だった。しかも、クロムウェルは兵士たちにきちんと給料を払った。給料の遅配、欠配が当たり前だった時代なので、これは画期的なこと、兵士たちもやる気が出る。兵士に能力があれば身分が低くても抜擢して隊長に任命した。靴屋や馬飼い出身の隊長がいた。当時のヨーロッパは完全な身分制社会、能力本位の人材抜擢は非常に珍しいことだった。部隊に規律と信頼、そしてやる気をあたえたことが、鉄騎隊の強さ。鉄騎隊の活躍で、やがて議会派の軍隊すべてが、鉄騎隊をモデルにした新型軍に改革され、クロムウェルは事実上その司令官になった。新型軍は1645年にネイズビーの戦いで王党派軍に勝利。ゆきづまったチャールズ1世はスコットランドに逃げ込むが、スコットランド軍につかまってイギリス議会に引き渡された。

 議会派は三つのグループに分かれていた。長老派、独立派、水平派。長老派は穏健なグループで、国王に対して妥協的。革命に対してあまり熱心ではない。王と妥協せず、きっちり革命をやりきろうというのが独立派。ジェントリが多く、ピューリタン革命の中心勢力で、クロムウェルもこの派。水平派は最も過激なグループで人民主権を主張。人民が一番偉い、王なんかなくしてしまえ、と主張。王を捕らえたあと、クロムウェルは王に妥協的な長老派を追放して、王を処刑してしまう。国王の罪名は「暴君、反逆者、殺戮者」。一枚の絵がある。広場に処刑台が設けられ、そのまわりを議会派の兵士たちが取り巻いて警備している。王党派が王を奪還しにくるのを防ぐためだ。処刑台の上には覆面をつけた男たちがいる。これは首切り役人。恨まれないように顔を隠している。ひとりは血の付いた斧を持っている。チャールズ1世の首を切り落としたところ、台の上に首のない死体が小さく描かれている。首の切り口からピューッと血が吹き出ている。もうひとりの覆面男が、首を持った腕を伸ばし、これがチャールズの首だと集まった観衆に示している。手前左側に大きく描かれ、こちらをみているのが、この国王処刑の仕掛け人、クロムウェルだ。国王処刑の瞬間に居合わせた人物が、そのときの模様を書き残した。それによると、チャールズ1世の首を切った瞬間、「オゥー」という何とも言えない暗いどよめきが起きたという。「ああ、本当に王を殺してしまった。成りゆきで仕方なかったとはいえ、とんでもないことをしてしまったなあ」という意味のどよめきだ。悪い王をやっつけたという雰囲気ではなかったようだ。このあと、王のいない政治体制が10年ほど続く。

 イギリス史上唯一の共和政の時代になる。政治を取り仕切ったのはクロムウェルだった。かれは水平派の勢力も弾圧し、独立派のリーダーとして事実上イギリスの独裁者になる。共和政時期のクロムウェルの政策、まず、アイルランド征服(1649)。イギリスは王党派の地盤となっていたアイルランドに軍隊を送り、この島を占領。征服されたアイルランドの人口は半減した。クロムウェルはアイルランド人の土地を徹底的に没収。この結果、耕地の三分の二はイギリス軍将校と、戦費を出資していたロンドン商人のものになった。アイルランドの農民は小作人として徹底的に搾取され、飢餓すれすれの生活を送る。これ以後、アイルランドは20世紀になるまでイギリスの植民地となる。次に、航海法(1651)の制定。イギリスの海外貿易上最大のライバル、オランダに打撃を与え、イギリスの産業を保護するための法律。オランダの貿易船がイギリスとその植民地に入港できないようにした。この法律が原因でオランダとの間に戦争も起きている。第一次英蘭戦争(1652~54)。何回かの海戦がおこなわれ、勝敗はつかなかったが、講和条約はイギリスに有利に結ばれた。クロムウェルは1653年、護国卿という地位につく。護国卿になったクロムウェルは紫のマントを羽織ってみんなの前に出てきた。紫というのは、ヨーロッパでは皇帝や王のシンボルカラー。ちなみに中国では皇帝の色は黄色。だから紫の色を着ていたというのは、護国卿という地位が限りなく王に近いものだったということになる。日本で言えば、豊臣秀吉がなった関白、太閤みたいな雰囲気だ。クロムウェルは王になりたかったが、軍隊に反対されたので護国卿で我慢したという説や、反対に、王になるつもりはなかったが、イギリス国民は王様がいないと不安がってしょうがないので、王のような格好をして国民の要望に応えたという説もある。

 イギリスは、主要先進国中いまだに王室が残る珍しい国だ。クロムウェルは1658年に死去。死ぬまで護国卿として独裁政治を続けたが、晩年にはその政治に対して不満を持つ勢力も出てきていた。とにかく、クロムウェルの政治は、厳格で暗かった。かれは熱心なピューリタンだったから、酒や賭事は禁止されていて、庶民にとっては楽しみの少ない時代だった。クロムウェルの時代にはみんな我慢していたが、クロムウェル死後、息子のリチャードが護国卿の地位を継ぐと不満が爆発。リチャードは父親ほど政治的な手腕がなかったので、政治運営に行きづまり翌年には政権を放り出す。混乱する中で、議会が王政を復活させるという結論を出す。ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世が王としてイギリスに招かれる。チャールズ2世は父親1世が処刑されたあとはフランスなどヨーロッパ各地を転々として落ちぶれた生活をしていた。チャールズ2世が即位したのが1660年。これが王政復古といわれる。

 ステュアート朝が復活し、チャールズ2世は即位するときに、ピューリタン革命中の人々の言動を罪に問わないこと、ピューリタンの信仰も認めることを約束する。革命中の政策も一部は認める。航海法などはこのあとも実施されている。王政が復活したからといって、すべてが革命前に戻ったわけではない。チャールズ2世にしてみれば、議会に逆らって、父親のように処刑されてはたまらんと考えていたはず。最初はおとなしくしている。だんだん絶対主義的な王になる。同時期にフランスではルイ14世という絶対主義の典型的な王が、おもう存分権力をふるっているのをみている。チャールズ2世はカトリックの信者を官僚に任命して、自分の手足として動かそうとする。イギリス国王はイギリス国教会の首長という立場があるが、チャールズ2世は隠れカトリック信者だった。カトリックの官僚を使って専制政治をおこなおうとする。これに対し、議会は1673年に「審査法」という法律を作る。これは、イギリス国教会信者以外は官職につけないという法律。カトリック信者を官僚にしないためのもの。さらに、1679年、人身保護法を制定して、王による不当逮捕と投獄を禁じた。議会と国王の対立は徐々に高まった。チャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世が即位。このジェームズ2世も政治的には絶対主義をおこなおうとした。しかも、ジェームズ2世はカトリックであることを公言していた。イギリス国教会の首長としてふさわしくない。しかも、絶対主義の信奉者だ。議会は我慢をする。即位したのが52歳。このときに息子がいなかった。年齢的にいって、これから王子が生まれる可能性はない。だから、もう少し我慢すれば王は死んで、跡取りがいないから、そのときは適当な血縁のものをヨーロッパのどこかから呼んだらよいと考えた。そのジェームズ2世に息子が誕生した。だいたい、ステュアート朝のここまでの四人の王はみんな同じタイプ。議会とイギリスの伝統を無視して専制的な政治を行おうとする王ばかり。この息子も赤ちゃんだが、大人になったら、父親や祖父と同じような王になるに違いない。議会は、もう我慢ができなくなっていた。

 議会はジェームズ2世を追放して、新しい王を呼ぶ相談を始めた。これを知ったジェームズ2世はビビった。へたに議会に抵抗して父親のチャールズ1世のように革命で命を落としてはたまらない。夜の闇に紛れてロンドンを流れるテムズ川に船をこぎだし、川を下って亡命する。王の方から勝手に逃げていってくれたので、議会は一滴の血を流すこともなく革命に成功、これは名誉革命(1688)といわれる。流血がなかったことが名誉。だから、国王を処刑してしまったピューリタン革命は名誉ではない。現在のイギリス人でもあまり思い出したくない歴史的事件のようだ。ジェームズ2世に代わって、イギリスの王として招かれたのは、オランダ総督のウィレムとその妻のメアリ。メアリはジェームズ2世の娘。二人はイギリス王として招かれるにあたってイギリス議会の要請を受け入れて、議会の権利、伝統的な国民の権利などを守ることを宣言する。これを「権利の章典」(1689)という。成文憲法のないイギリスで、国民の権利を定めた法律として現在でも重要な成文だ。

 ウィレムとメアリ夫妻はイギリス王としてはウィリアム3世(位1689~1702)、メアリ2世(位1689~94)と呼ばれる。二人は同時に王になっている。共同統治という。ヨーロッパでは時々こういう形式がある。名誉革命以後は、イギリスの王は政治上の主導権をあまり発揮せず、基本的には議会にお任せするという政治形式になっていく。1714年にステュアート朝は断絶し、ドイツのハノーヴァーから遠縁の貴族がイギリス王として招かれたわけだが、ハノーヴァー朝のジョージ1世は生まれも育ちもドイツであった。イギリス王位が転がり込んできたが、根っからのドイツ人だ。イギリスに来ては見たものの、英語はほとんど分からない、ふるさとのドイツが恋しくて仕方がない。政治向きのことは大臣に任せて、自分はドイツに帰って、ほとんどイギリスでは暮らさない。大臣は王様に任された責任があるので政治に励まざるを得ない。こうして、イギリスでは責任内閣制というものが発展しはじめる。イギリス王の特徴として有名な「君臨すれども統治せず」だ。統治しないのだから、失敗はない。政治的な事件があっても王自身は傷つかず、その地位は安泰だ。現在までイギリス王室が存続している理由である。フランスはこのとき絶対主義の全盛期。ドイツやロシアなどは絶対主義以前の段階で、王が何とか貴族・諸侯の力を抑えたいと悪戦苦闘している。イギリスはもう絶対主義の時代が終わってしまっている。これは、王の権力をコントロールするほどに議会が力をつけてきたからだ。誰が議会なのか、海外貿易や産業を支配している市民階級である。イギリスはオランダとならんでいち早く市民階級が権力を握るようになったのだ。

1 コメント

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変動と混乱の激しい歴史だね。 (K.H)
2016-06-20 08:51:37
イギリス国王がノルマンディー公としてはフランス王の家臣であった時代。どこからどこまでがフランスで、どこからどこまでがドイツなのかわからない。王の権力が及ぶ範囲がはっきりしない、そういう世界が中世ヨーロッパだった。商工業で経済力をつけてきた市民階級を味方にした王が政治の中心として飛びぬけた地位を得る。そういう王たちが主人公として争いあった。十字軍にしても、百年戦争にしても、王たちとまったく同格で、伯とか公が活躍していた。面白い時代だったんですね。
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