murota 雑記ブログ

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ヨーロッパ変動の一時期を振り返ってみる。

2016年06月22日 | 歴史メモ
 イギリスのエリザベス1世(1558-1603)と同時期の頃、フランスでは1562年から1598年までの間に内乱が起きた(ユグノー戦争)。また、ネーデルラント独立戦争もあった。フランスのユグノー戦争は宗教戦争であった。フランスはカトリックの国だが、宗教改革の影響で新教、特にカルヴァン派の影響力が強く、宗教対立が激しかった。カルヴァン派のことをフランスではユグノーといった。国王を中心とするカトリック勢力とユグノーの諸侯が対立し内戦が続いた。内戦中の事件でサン=バルテルミの虐殺事件(1572)があった。それは、国王側と、新教側が和解することになり、王の妹マルグリットがユグノーの指導者ブルボン家のアンリと結婚、この結婚を祝うために、全国からユグノーの有力者がパリに集まってきた時に国王側が彼等をだまし討ちで虐殺したという事件だった。

 サン=バルテルミというのは聖人の名前で、虐殺のはじまった日がこの聖人の祝日だったので事件名になった。この虐殺事件の影の演出者として悪名高いのが王の母親カトリーヌ=ド=メディシス。イタリアの名門メディチ家出身の女性。この女性が虐殺事件を起こしたわけではないが、イタリア女ということで、虐殺事件の責任者にされてしまった。フランスにはイタリアの名門貴族から王妃を迎えることがしばしばあった。イタリアがヨーロッパ文化の先進地域で、産業もフランスより発達していた。フランス王族もイタリア女性にあこがれた。カトリーヌ=ド=メディシスのようにイタリアからやって来た女性によって、フランスの文化は徐々に洗練されていった。

 ユグノー戦争はどうなったのか。戦争がダラダラつづく中で、王家ヴァロワ家の血統が絶えてしまい、王の妹マルグリットを妻にしていたブルボン家のアンリに王位がめぐってくる。彼はユグノーのリーダーだが、ブルボン朝が成立、35歳のアンリが即位してアンリ4世(在位1589~1610)となる。ところが、フランスの大部分は彼を王と認めない。フランス人はカトリックが多数派でユグノーは少数だ。アンリ4世をフランス王と認めたのは全土の六分の一しかなかった。彼は首都パリに入ることもできなかった。そこで、アンリ4世はカトリックに改宗する。アンリ4世は政治家としての利害に自分の信仰心を従属させた。これは、本心からの改宗ではないと当時も非難されたが、カトリック側にとって悪い気はしない。これでカトリック側は味方についた。激怒したのがユグノー勢力だ。今まで自分たちがリーダーと仰いでいた人物が王になったとたん、敵側の宗教に寝返ったので許せない。1598年、この問題を解決するために、王は「ナントの勅令」を発布する。ナントは、王がこの法律を出した町の名前。内容は、カトリック、ユグノーの両派に信仰の自由を認めるというものだ。ユグノーでも弾圧しないという、カトリックの国が国民に違う宗派の信仰を認めるという画期的な出来事だった。信仰の自由が認められ、ユグノー勢力もアンリ4世を認め、ユグノー戦争はようやく終わる。この内乱でフランスの大諸侯の力が衰えた。そのため、アンリ4世に続くブルボン朝の王たちにとって、絶対主義を実現しやすい条件ができあがった。

 アンリ4世の後継がルイ13世(在位1610~43)で、宰相が有名なリシュリューだ。『三銃士』などで敵役として登場するキャラクターだが、実際のリシュリューはフランスを発展させるために誠心誠意努力した人物だ。「余の第一の目標は国王の尊厳であり、第二は王国の盛大である」とはリシュリューの言葉。ドイツで起きた三十年戦争にも介入して、領土を拡大するなど、この時代にフランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つ。次の王がルイ14世(在位1643~1715)でフランス絶対主義を代表する王。わずか5歳で即位したので、小さい頃は宰相マザランが政治を運営した。マザランもリシュリューと同じようにフランス王国と王権の発展をめざす。王権を強化するために貴族階級などの既得権を奪おうとしたため、貴族が反乱を起こす。これがフロンドの乱(1648~53)。一時期反乱軍がパリを占領し、マザランは幼いルイ14世をつれてパリから逃れたが、最終的に反乱は鎮圧され、結果的に中央集権化が進む。

 1661年、成年に達したルイ14世の親政がはじまる。コルベールという人物を大蔵大臣に任命し、重商主義政策を展開する。開店休業状態だったフランス東インド会社を再建し、海外貿易に乗り出す。現在の我々がイメージとして思い浮かべるヨーロッパの王侯貴族の暮らしを作り出したのはルイ14世である。宮廷貴族の礼儀作法、ファッションなど、この時代に確立したものが多い。象徴的なのが、ヴェルサイユ宮殿の造営。場所はパリから南西約20キロ離れたところ。ここに大規模で豪華な宮殿を建設。宮殿には王、貴族、官僚など5000人が住んでいた。そして、宮殿の周囲の付属の建物に兵士や召使いなど1万5000人ほどが住んでいた。宮殿というが、王が住むだけではなく政府の機能もここに移し、新しい都市を建設したといった方がよい。ヴェルサイユ宮殿の中でも有名な鏡の間。幅10メートル、奥行き75メートルの大宴会場。ここに大きなガラスと鏡がずっと並べられている。鏡というのは大きくすればするほどゆがみも大きくなる。当時、ゆがみの小さい、大きな鏡を作れるのはイタリアの特別なガラス工房しかなかった。一枚の鏡でも非常に高価だったが、惜しげもなく使っているのが鏡の間だ。文字通り夢の世界、こんな宮殿を造営したルイ14世の威光は高まるばかり。ヨーロッパ中の君主のあこがれの的だった。ヴェルサイユ宮殿を真似した宮殿が世界中で造られる。日本の赤坂離宮、今は迎賓館になっているが、ヴェルサイユ宮殿をまねたものだ。

 フランスの貴族たちは、かつてのように王権に反抗するだけの力はない。王から年金をもらって暮らしているものもいた。王あっての貴族。ヴェルサイユ宮殿には王以外に貴族たちが住んでいた。貴族はものすごい人数がいるので、ヴェルサイユ宮殿に住めるのはルイ14世のお気に入りの貴族だけ。ヴェルサイユ宮殿に住めるだけで貴族としての箔がつく。ルイ14世も、貴族心理をうまく見抜いていた。朝起きる時から、着替え、食事、散歩と、すべての王の行動は儀式化されていて、選ばれた貴族たちがその儀式に参加できる。コップやハンカチを王に渡す役が、貴族たちに割り振られていて、そういう役目をもらったら名誉。食事がすんだら朝の散歩だが、どの貴族が散歩にお供できるかは、王の指名による。だから、散歩の前には貴族たちが宮殿の広間に詰めかける。王は、ぐるりと貴族たちを見渡して、「○○公爵、●●伯爵、」と、その日の散歩のお供を指名する。指名された貴族たちは、それこそ天にも昇る心持ちで散歩について行く。

 ルイ14世は、どういう基準で貴族たちを選んだのか、豪華でお金のかかった衣装・装飾を着けている者を選ぶ。王のお供をする者は、ゴージャスでなければならない。だから、王の寵愛を得ようとするためには、借金をしてでもドレスアップしなければならなかった。ファッションでフランスがヨーロッパ文化の華となるのには、こんな事情があった。こういうむなしい贅沢をつづけなければならないので、貴族たちの経済的な負担は大変だった。多くの貴族はますます政府(ルイ14世)に頼らなければ経済的に成り立っていかなくなった。ルイ14世の肖像画、これが、ヨーロッパ最新のファッション。貴族のあこがれの的。ズボンは短くて、足にぴったりのタイツをはく。われわれが今はいているような長ズボンは、下層民の服で、貴族ははかない。ヘアースタイルも特徴的。このくしゃくしゃとした長い髪、これはカツラ。フランスでのカツラの大流行が、やがてヨーロッパ中に広がり、そのご正装として定着した。モーツアルトやベートーベンの肖像画。彼等も長髪パーマでカツラだ。彼等はルイ14世の時代から100年以上あとの人たちだ。イギリス国会上院の議長は今でもカツラをしている。さすがに伝統の国。ただしベートーベンのぼさぼさ頭の肖像画、カツラはつけていない。なぜ、カツラをするようになったかというと、ルイ13世に原因がある。ルイ13世は若禿だった。それで、カツラをかぶるようになったが、王様一人がカツラをかぶっていると禿をかくしているのがバレバレなので、取り巻きの貴族たちも同じようにカツラをするようになった。どうせするなら派手にということでこんな奇抜なカツラが誕生し、ルイ14世時代になると、これが正装にまでなった。

 ちなみにルイ13世時代というのは、ユグノー戦争の混乱の余韻が残っていて、宮廷のマナーというのは滅茶苦茶だった。貴族の婦人たちによって、サロンというのがつくられて、ここから貴族らしいエチケットやマナー、おしゃれな会話がだんだんと普及するようになった。それでも、ルイ13世の頃はまだまだひどかったらしい。とくにルイ13世その人が、エチケットとは縁遠い人だった。ルイ13世の成長記録が残っていて、それによると、かれが初めて入浴したのが7歳、顔を洗ったのが9歳だという。ヨーロッパではペストの流行以降、入浴の風習が廃れた。入浴で感染すると考えられた。でも、ルイ13世は極端で、全然体を洗わないので臭い。ルイ13世のそばに仕えた女性によると、王に近づくと「腐った肉のようなにおい」がしたという。王を臭いと言っている女性も、入浴する風習がないから臭い。そこで、体臭を誤魔化すためにフランスで香水が発達した。体臭を誤魔化そうと考えることも、エチケットの観念が普及してきた証拠。しかし、ルイ13世自身はそういうエチケットの観念とは対極にあった人で、気にくわない相手に口の中のモノを吐きかけたり、ズボンを穿いたままジャジャーッとオシッコをして、自分の不快感を表現したと伝えられる。

 宮廷のマナーが確立してくるのはルイ14世の時代。洗練された文化の中心としてヴェルサイユがヨーロッパのあこがれとなるが、それでも、今のわれわれの感覚で考えると、まだまだ変な風習はたくさんある。有名なのはヴェルサイユ宮殿のトイレ。ヴェルサイユ宮殿は住んでいる人の数に較べて、トイレの数が極端に少なかった。どこで用を足すか、みんながちゃんとオマルで用を足すわけではない。人のあまり通らない階段の踊り場などに結構してあった。オマルの中身はどこに捨てるか、召使いの人たちがオマル抱えて庭園に出て、草木の陰にジャバッと捨てる。見た目はきれいなヴェルサイユ宮殿の庭園も、香ばしい匂いが漂っていて、へたに林の中に足を踏み入れると、グチャッ、ということもあった。

 ルイ14世の政治はどうだったのか。ルイ14世は、フランスの領土拡張のために積極的に外征をおこなう。南ネーデルラント継承戦争(1667~68)、オランダ侵略戦争(1672~78)、ファルツ継承戦争(1689~97)。さらに、スペイン継承戦争(1701~13)。スペインのハプスブルク王家が途絶えたあと、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にしようと考える。将来は両国が合体するかもしれない。ブルボン家があまりにも大きくなりすぎるのを警戒した周辺諸国が、ルイ14世の孫の即位に反対する。その結果起きた戦争だ。この戦争は1713年のユトレヒト条約で終結。この条約で、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができた。ただし、将来にわたってフランスとスペインが合体しないことを条件として。また、この条約で、海外の植民地の多くを失う。領土と引き換えに反対する国を買収した。特にイギリスが北アメリカや地中海に領土を増やして得をしている。

 ルイ14世のフランスは、たびかさなる戦争で、少しばかり領土を拡大するが、戦争の負担は重税という形で国民にのしかかった。これが、徐々にフランスの経済を悪化させる。もう一つルイ14世の失政がある。これが、1685年の「ナントの勅令の廃止」。この結果、信仰の自由を認められなくなったユグノーは、フランスから逃れてオランダなどに移住。ユグノーは豊かな商工業者が多かったから、結果として富裕な市民階級がフランスからごっそりいなくなってしまった。結局、政府の税収は減り、産業の発展という意味でも大きな損失となった。ルイ14世治世の末期には、人口の一割が乞食同様だったという記録もある。農民反乱もしばしば起きた。見た目の華やかさの陰で、フランスの政治、経済の矛盾は大きくなってゆく。この矛盾が爆発するのが、ルイ14世の次の次の王、ルイ16世の時のフランス革命になる。

1 コメント

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欧州各国の歴史は実に面白い。 (H.D)
2016-06-22 09:45:52
ドイツの中で最大の領邦国家、オーストリアを支配しているのはハプスブルク家だ。神聖ローマ帝国皇帝の称号を事実上世襲するヨーロッパの名門中の名門だ。ハプスブルク家は、巧みな婚姻戦略で領土を広げてきたので、その領土はあちこちに散らばっている。飛び地が多い。だから、イギリスやフランスのような中央集権化が物理的にしにくい。さらに、広い領土の中には、ドイツ民族以外が住んでいる地域もある。代表的なのが、ハンガリーとチェコ(ベーメン)。ハンガリーはマジャール人、チェコはチェク人。オーストリアは多民族国家だ。現在、これらはオーストリアとは全然別の国になっているわけで、こういう地域を一つの国家としてまとめ上げるのは大変だったと思われる。プロシャもモスクワ公国も興味深い。
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