未熟者武道記

空手徒然。
二つの戈を止める武を核とし、諸諸と調和して溶け込んで。(いけたらいいな)

気持ち練り練り

2019-09-26 21:30:24 | 稽古
県大会や審査会等が近付いてきましたので組手を少し激しめにしている今週の少年部、一般部。

クラスの人数によって遣り方が多少変わりますが、昔話やなんやで気持ちを煽った後に「(上の帯に)倒されるん覚悟で頑張れる子は出といで」と言うと皆んな出てきたのは頼もしかったですねえ。ちゃんと気持ち入れてやれば出来るやんと。

全クラスでほぼ全員が気持ちを奮い立たせ強者に立ち向かいましたが、中にはやらない理由を探すことに執心してしまう子も居たり。その前の組手で突き指したのか何なのか、指とこちらをチラチラ見て察して君になってる子も居ましたが、問いたいのは突き指ってホンマに組手出来なくなるほどの事なん?ということ。聞きませんよ。聞きませんけど何年か前は片腕を骨折してギプスしながら稽古してた子も居ました。じゃあ同じ子供でこの違いは何なのか。気持ちの問題でしかないんですね。

気持ちは急には作れないでしょう。
蝶よ花よを周りからも自分からも課してきた生き方で急に「うおーー!」となるのは無理ですし、もしなられてもその情緒が怖いです。こればかりは毎回の稽古や日々の生活で心身に染み付いていくもの。やらない理由を探し続ける毎日では強くなるもんもなれません。それなら潔く、疲れたからやらへん!の方がよっぽど強い。

組手組手となるのは嫌いですが、痛さを避けて強くなるのは空手では無理です。試合に勝つ強さ、審査に合格する要領なんてどうでも良いのです。克己心。これを養うのが武道の第一義。
例えば先週は上段受けで武器を持つ手を受ける稽古をしましたが、単なる突き蹴りだけの顔も殴られない組手に尻尾を巻いているようなチビた心では武器など捌けるわけがありません。気持ちがついてこないと技は出ません。知ってるだけでは値打がないのです。そこで一歩出られる勇気を空手に通うことで養えたなら一生ものの値打があったと言えるでしょう。煽り運転もウェルカムですよ。

逃げた者は一歩踏み出す気持ちを持って、頑張れた子はその気持ちが自分にあることを自信に思って練習に励んでくれたらなと思います。私も逃げた事があります。あの頃は本当に弱かった。だから分かります。強さ弱さは心が作るのです。




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餅は餅屋

2019-09-23 23:56:54 | 雑感
某全日本大会がちょっとアレだったとの噂を耳にします。一部試合ではルールを変えたそうで顔面への突きが伝統空手的なモノはOK?みたいな感じらしいです。

なんで良く知りもしないものを取り入れたのか謎でしかありませんが、フルコンでええやん。と思うのです。思いませんか?フルコンしにフルコン習いにきたんやからフルコンでええやん。それしか出来ひんやん。何で要らんことするん、という感想しか出ません。

確かにフルコンは顔面への対応が浅い。
でもいいんです。腹相撲だなんだ揶揄されたってフルコンなんですから。スポーツなんですよ。ルール決めて試合を目的としている以上は。不満ならキックなりボクシングなり習えば良いだけで試合もそちらでどうぞ、ではいかんのですか。

変に空手は総合、みたいな念に捉われて出来もしないことやってたんじゃスポーツにもなりません。アホな大学のテニサーと同列ですよ。空手の総合感なんて試合で出せやしませんし顔面突きを入れたから総合感が出るかと言えば出るはずもなく、まあ見に行った皆さんが持ち帰った感想が全てなんだと思います。

フルコン団体ならフルコンに徹すればいい、それだけです。昔顔面パンチを入れて皆が目を閉じてパンチ振り回してた時代があったのを忘れたのでしょうか。私が空手ファンならば中途半端な事される大会に行くぐらいなら伝統空手の試合と極真の試合を観に行きますが。

足りないもの足していってたら結局総合するしかなくなりますしね。足りない部分は先生はじめ選手や道場生各々が考えていって自身の修行に生かしてもらえばいいだけで試合に組み込む必要がどこに在りましょうか。フルコンをフルコンとして全う出来ないなんて話になりません。

そして武として在りたいのなら試合をなくせばいいのです。ルール事で高みを目指している以上足りない物や欲は数多出てきて然るべきですから。




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包丁

2019-09-22 23:41:06 | 日記
生来サイコパス的要素があるのか知りませんが刃物を見るのが好きです(笑)未だに刃物店の前を通ると見入ってしまいます。

当然包丁も好きで、ずっと見ていられますね。
今日は台風で予定していた飲会が無くなりましたのでその浮いたお金で前から目を付けていた包丁を買うことにしました。

Global istの一振り。イストなのね。1stやと思ってました。

ここ数年前モデルのペティを使っていましたが斬れ味も落ちてきて特に肉を捌きにくいストレスがあったので新調。

並べてみると随分大きさも違うのね。

早速ニラを切ってみました。

おおお…、誇張なくこの辺なら置いただけで切れる。とはいえペティ氏にも初めは抜群の切れ味に感動しましたがね。けどこれは素晴らしい。

栄養を無駄にしない為に下の方は刻むべしと何かで聞いたので実行。

めっちゃ速く切れる…そして繋がってない。

やはり道具はええもんに限りますな。
ニューまな板にニュー包丁で少し料理も楽しく感じられるなら気持ち的に直ぐペイ出来そうです。ええキッチンの家に引っ越したくなるかもしれません。



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縁は円

2019-09-22 22:49:07 | 雑感
お彼岸ですので縁に関する私の考えを綴りたいと思います。日本には彼岸と此岸(しがん)という考え方があります。彼岸があの世で此岸がこの世、所謂うつし世です。一説では春分の日と秋分の日の前後三日間はこの二つの世界が一番近くのだとか。だから墓参りをする、といった日本の習わしです。

私はこういった考え方が割と好きで、明らかに外国人顔したスポーツ選手が日本代表だったりして人種の壁はなくなりつつある此の国でも、文化があれば日本は未来永劫残ると思いますので我が子にそれを伝えるべく祖父の亡くなった後からは秋に伊勢詣りをするようになりました。

御先祖様への御挨拶。縁ですね。彼らあっての今ですから。今となっては縁を作っていく、偶に振り返ってみるのが人生の一つの大きな命題だとも思っています。

人は単体では単なる点に過ぎません。
しかし生きているとそこに誰かと縁が出来ます。点と点が結び付いて線になるのです。そこからまた誰かと接点が生まれ線は様々な方向へ伸びてその縁はやがて円となります。うつし世だけの縁ではなく、御参り等を通じて彼岸の祖先との縁を知り、厚みを帯びて円が球となった時に縁が満ちて円満になる、という事を私は常々思っている訳です。

私は自分を冷たい、温度のない人間だと自覚しております。だからこそそういう信条を持ってこんな私と縁を持ってくださった方には接していきたいと一応心掛けている積もりではあります。当然切れる縁もありますが生まれる縁もあり。

空手としても神道ですからそこを大切にしたく、挨拶をしろと特に少年部に煩く言うのはそういうところです。いい加減な立ち居振る舞いは自ら縁を切る在り方なのです。単に強いだけでは道は孤独で敵も次々現れるでしょう。しかしどんな人が一番強いのだろうと考えた時、【敵の居ない人】が一番強いのです。文字通り無敵ですよ。

道場に入った時、敷居を跨ぐ時、対人で稽古をお願いする時、そして稽古を終えて道場を出る時。これらのいずれも手を、否、気を抜かずに挨拶が出来るようになれば生来粗暴であったとしてもそんなに毛嫌いされずに生きていけるのではないかなと思います。



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ネコの妙術

2019-09-22 01:02:56 | 書籍
『五輪書』は広く知られていると思いますし武道に関わる人ならば一度は手にしたことがあるかもしれません。

私は武道関連の書籍も好きでジャンル問わず色々読むのですが(入りきらないのは東支部に置いてます)、その中の良著に『剣と禅』というものがあります。

これこれ。

伊藤一刀斎をはじめ様々な剣術家のエピソードを綴ったものですが、その中に山岡鉄舟も愛読した書として『猫の妙術』と簡単なエピソードが紹介されています。

これがまた面白いのです。左側の本は最近出たもので超訳風に現代語訳されていて児童書の如く読みやすいです。訳の高橋氏御自身も武道に携わる身ですので入りやすいのでしょう。右のは原文と硬めの現代語訳があります。

簡単に紹介しますと、
屋敷に入り込んだ巨大鼠を追い出すべく、技に長けた猫・気合に満ちた猫・調和を信条とする猫が次々と挑むも全て返討ちに合います。そこで呼ばれたのが一匹の老猫。部屋に入るなりあっさりと鼠を捕らえてしまい、そこから猫の座談会が始まるという内容。

返討ちに合う猫たちというのは武道経験者が通りがちな道順です。技に溺れる時期があり、歳に勝てなくなり始め気迫で誤魔化そうと試み、そして戦うのが面倒になり始めた頃に調和です、など達人然とした胡散臭いことを言い始め。

これら全てを一蹴していく老猫。老猫の語らいは所謂【老荘思想】が基になっています。

七十連勝がなくなった時「吾、未だ木鶏たりえず」という言葉を残した不世出の大横綱双葉山。この木鶏の話は荘子にあります。少年部の子たちには是非読んでほしい話の一つですが、老猫の言葉を読んでいると老荘思想の大筋も掴むことができます。

道理に従って生きる。道(TAO)を説いたのが老子です。
空手道。道は繋がって行かねばなりません。手を替え品を替え客寄せを第一義にし見世物みたいな事をやってるからフルコン人気は下がる一方なのではないかなとも思いますね。道理に沿っていれば人が集まるのもまた道理なのでは。武以外にも生き方として色々考える処のある近世文学の傑作だと思います。在学時に知っていればこれと五輪書を卒論にしたでしょう。

是非一読あれ。




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