本日、指導はお休みを戴いて足の悪い祖母と彼岸の墓参りへ行ってきました。電車バスを乗り継いで神戸の山へ。
私も親になり八年弱。親に成り立ての頃は「日本と日本人」という事について考え調べたりしましたが、子供が幼稚園へ通い始めた頃から今度は「風習」について考えるようになりました。
若い頃は墓の必要性は全く考えておらず、寧ろ生きる者に時間を割かせる無用の長物とさえ思っていたものです。朽ちた物にはアートとして少し外れた価値観は持っておりましたが。
春に彼岸?彼岸花咲いてないのに?ぐらいなもんです(苦笑)万事がこれでは親は務まらんといつからか風習に少し関心を持つように。
因みに彼岸について。
彼岸とは「あの世(悟りの世界)」のこと。反対に我々の住む現世(煩悩の世界)は
此岸と呼ばれます。
そして彼岸は西に、此岸は東に位置するとされ太陽が真東から昇り真西に沈む春分・秋分の頃が彼岸と此岸が通じやすくなるとの考えから供養シーズンとなっているという事らしいです。
なるほど良く出来た話だと思います。さすが八百万の国なので生活のアチコチに「へえ」となる話が織り交ぜられています。
国の事を思えばもっと小中学校の授業で取り入れるべきだと私は思いますが。
閑話休題
墓掃除は息子も手伝います。足が悪く杖を付いている祖母もそれを忘れたのかと思える位しっかり立って磨いています。
不思議なことですが祖母の姿から「礼節の姿勢から力が出る」という宇城憲治氏の話を思い出しました。
しっかり拝んで
お片付け
こういった風習から生きる意味・生きた意味への理解が深まりつつあるのを感じるこの頃。
若い頃は兎角「自我」しかありませんがそんなチンケな個人個人の人生に意味などなく只只紡いで行く事だろうなと。その紡がれ続けた先で世に貢献出来る人物が誕生したとすれば全ての祖先の人生に意味があったという事になるでしょう。
残った者は故人に報いる為に単に呼吸を繰り返して生きるのではなく、彼らの遺志を深めて繋げていく使命があるのでしょう。
そう考えると墓や仏壇に語りかける年配の方々のその行為に深さを感じます。
私がしなけりゃ息子もしないでしょう。私がすれば真似してするかもしれません。早起きして向かいましたがそれだけの価値があったと思います。
帰りは祖母がどうしても三宮でランチをご馳走したいと言うので呼ばれてきました。
市役所近く。
ライブクッキングをしてくれるステーキハウスでかなり美味でした。結局私達が行く事で祖母に金銭面の負担が増えただけのような気もするのですが、凄く嬉しそうだったのでそれはそれで有りなのかなと思ったり。
新年度のスタートを切る為にも春の彼岸は良い機会ですね。
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