過去記録(1)
2016.新年の始まり。先に進む事も大切。振り返るということは想いでに浸かる事でなく、削ぎ落してみることだと今頃になって思い知らされる。それが確信につながる。実行できるか、
新たに見つめ直すということ。多くの人があの日から忘れられない現実の中で生きていかなければならないそしてもう一方では形を変え5年もたってるからいいやですまし、不安を抱きながら生きてゆかなければならない。少なくともこの加算された月日が過ぎてゆく中、背中で感じるは追い立てくらってる感触いずれも同様
許せないことは同じ志の中での仲間たちの 醜い変容を感じ取ってしまったこと、自分も多少 美術の仲間入りさせてもらっていい気になっていたこともあるだろうが今の状況はそれとは全く違う、お山の大将 自己中 そのことは構わない 情報として発信してくれるのはありがたい。脅かしなのか 発信することで消化を伴った憂さ晴らしなのか、ののしりあったり 考え方の違いに異議を唱える前に振りかざす罵倒 自分と同じようにその中には心の拠り所を求めた人達もいたろうに、左翼とて洗脳の金字塔に思えてならない。
ここまで追い詰められたら押し殺しながら自分の道を行くしかない、
やめるのも勇気、進むのも勇気 迷いに迷った 別れなければならない 未練を断ち切るために過去にこだわるなともう一人の自分が刃物を持ち出してくる。
また書き直すかもしれない(誤字、脱字 が多い厚かましくブログなど挑戦です)
2011年3月川崎市新百合ヶ丘で迎えた帰宅難民、当時、小田急線南林間仕事場から移転の為最終契約で訪れていた。また眩暈か? 契約候補宅 電信柱の揺れ 現在でも友人でもあります同行者3名内2名30数年来の渋谷の不動産屋、現地からバスで駅まで何とかーーそして当然身体が感じる大きな地震ということは理解できても 狛江のアパートにたどりつき、幾枚かの飾り皿やコレクションは思ったほど壊れてなく、それより情報錯綜、福島原発に触れた内容がおかしい すぐに翌日、狛江キッチン、設置してある電気分解浄水器メーカに電話、ラボ側の返事 東京都が炭素をどうのこうの云々、担当者は詳しくは教えてくれた。でもわからないどうにもならない、回避の道がないということでした。 ニュースで一度だけスピーデイという言葉(枝野)を耳にしたそのあとにユースで長いこと耳にすることもなかった。野菜などは洗えば問題ないと言い張る報道、種類別野菜、カリュウム移行くらいは知っていた。ドイツのサイトに入れば言葉なんかわからなくても汚染シュミレーションは地獄の入り口、 体は震えた。バルセロナからワーワー言ってくる 留守番にも入ってる。自己免疫破壊、(自律神経失調症当時は誤診)私はおたおたするばかり 眠れない 数日後窓から眺める道路、朝5時頃数日間にわたって数台のダンプが乳白色の岩を積んで走行 ゼオライトだ とわかっても 周りは自律神経のおかしな私のいうこと、胡散臭そうに相手するだけ最後は家からもう出なかった。 親父小野周のことは言いたくなかった。 京都での建仁寺 塔頭の個展 即中止の覚悟、頼れるはBSインターナショナルしかなかった。それも翻訳がおかしかった。こうやって書いていても当時40年前から原発警告を言い続けていた親父 南林間の書棚 資料を読み漁るしかなかった。何処かで昔の科学 相当変わってるだろうと願いながら ノウテンキでいたかった。