日曜日の教会に懐かしい元クワイアメンバーがご夫婦で来られ、そしてしばらくお休みしていたクワイアメンバーが数ヶ月ぶりに復帰しWの喜びを味わいました。
実は離れていたメンバーは、本当にクワイアの事、ゴスペルの事、そしてわたしを愛してくれていて(もちろん女性ですよ(笑))、リハーサル後に度々メールを送ってきてくれては『今日のリハーサルも本当によかった!』とか『この場所のおかげで今の自分があるんだ』等々いつも私を励ましてくれていました。
そんな彼女が自分の持つ夢への前進のためしばらくクワイアを離れると告げ離れたのが昨年末。
もちろん彼女の夢を応援しているし、夢を掴んで欲しい!って心から祈ってるけれど、最後の彼女の顔がとても苦しげな表情だったのがずっとずっと引っかかっていて・・・このままずっと彼女が離れてしまったら・・寂しいし、もっとゴスペルで恵みを体験して欲しいし・・と思って、CDとカードを送る手配を前日夜にしていたんです。
そしたらなんと翌朝電話があり、復帰するとの報告!!
彼女に前日夜に送ろうと思って荷造りしていた事を告げると、彼女も又その日の朝に『行かなきゃ!』って思わされたんだと話してくれました。
神様の導きです
ハレルヤ!
彼女から電話を受けたときに、想い浮かんだ2つの聖句があります。
『あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。見つけたら大喜びでその羊をかついで、帰ってきて友達や近所の人たちを呼び集め「いなくなった羊が見つかったから一緒に喜んでください」と言うでしょう。ルカの福音書15:4~6』
これは羊飼いが神様で、羊が人間のたとえ話です。
神様は私達の事を大勢の内の1人という感覚ではなく、1人1人を本当に大切に想い扱っておられるという事が現れている聖句です。
『~放蕩息子のたとえ話~
またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、
『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、
弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、 その国に大ききんが起こり、
彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、
その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが
だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、
パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。
それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、
またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、
走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、
またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、 足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。
食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。ルカの福音書15:11~24』
もちろんこれも父親が神様、放蕩息子が私達人間です。
私達がどんなにこの世のことに目を奪われ神様を忘れようとも、神様は諦めず待ち続けわたしたちのために祈り決して見捨てることはない。しかも戻った時には、一言も責めることはせず、ひたすら喜び抱きしめてくれるんですね。
あ~、なんて深い愛☆
ディレクターという役割は、「待つ」という忍耐を試される場所だとつくづく感じているのですが、こうやって離れたメンバーのために祈り、戻って来てくれた時、何にも勝る恵みを体験できる素晴らしい場所だと改めて実感
昨年も他のクワイアでその恵みを体感させていただきました
そんなわたしも10年ぶりにBright Lights Choirに戻った時には、本当に喜んでもらえて、戻った喜びも味わっています
両方体験して思うことは、人は祈り合い、励ましあい、思いやれる関係がとっても重要だということ。
そしてその関係の真ん中にJesusを置くとき、自分でも想像できないほどの愛が溢れてきて、『人のために祈りたい』『あの人を励ましたい』という想いが起こされるんです。
実は離れていたメンバーは、本当にクワイアの事、ゴスペルの事、そしてわたしを愛してくれていて(もちろん女性ですよ(笑))、リハーサル後に度々メールを送ってきてくれては『今日のリハーサルも本当によかった!』とか『この場所のおかげで今の自分があるんだ』等々いつも私を励ましてくれていました。
そんな彼女が自分の持つ夢への前進のためしばらくクワイアを離れると告げ離れたのが昨年末。
もちろん彼女の夢を応援しているし、夢を掴んで欲しい!って心から祈ってるけれど、最後の彼女の顔がとても苦しげな表情だったのがずっとずっと引っかかっていて・・・このままずっと彼女が離れてしまったら・・寂しいし、もっとゴスペルで恵みを体験して欲しいし・・と思って、CDとカードを送る手配を前日夜にしていたんです。
そしたらなんと翌朝電話があり、復帰するとの報告!!
彼女に前日夜に送ろうと思って荷造りしていた事を告げると、彼女も又その日の朝に『行かなきゃ!』って思わされたんだと話してくれました。
神様の導きです
ハレルヤ!
彼女から電話を受けたときに、想い浮かんだ2つの聖句があります。
『あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。見つけたら大喜びでその羊をかついで、帰ってきて友達や近所の人たちを呼び集め「いなくなった羊が見つかったから一緒に喜んでください」と言うでしょう。ルカの福音書15:4~6』
これは羊飼いが神様で、羊が人間のたとえ話です。
神様は私達の事を大勢の内の1人という感覚ではなく、1人1人を本当に大切に想い扱っておられるという事が現れている聖句です。
『~放蕩息子のたとえ話~
またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、
『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、
弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、 その国に大ききんが起こり、
彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、
その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが
だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、
パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。
それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、
またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、
走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、
またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、 足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。
食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。ルカの福音書15:11~24』
もちろんこれも父親が神様、放蕩息子が私達人間です。
私達がどんなにこの世のことに目を奪われ神様を忘れようとも、神様は諦めず待ち続けわたしたちのために祈り決して見捨てることはない。しかも戻った時には、一言も責めることはせず、ひたすら喜び抱きしめてくれるんですね。
あ~、なんて深い愛☆
ディレクターという役割は、「待つ」という忍耐を試される場所だとつくづく感じているのですが、こうやって離れたメンバーのために祈り、戻って来てくれた時、何にも勝る恵みを体験できる素晴らしい場所だと改めて実感
昨年も他のクワイアでその恵みを体感させていただきました
そんなわたしも10年ぶりにBright Lights Choirに戻った時には、本当に喜んでもらえて、戻った喜びも味わっています
両方体験して思うことは、人は祈り合い、励ましあい、思いやれる関係がとっても重要だということ。
そしてその関係の真ん中にJesusを置くとき、自分でも想像できないほどの愛が溢れてきて、『人のために祈りたい』『あの人を励ましたい』という想いが起こされるんです。