映画作家 大林宣彦 70歳の新人宣言
「富と無縁でも 平和に連なる作品が撮りたいな」
しんぶん赤旗日曜版2008年11月9日号より
映画「その日のまえに」は、自分のデザイン事務所を持つ売れっ子のイラストレーター(南原清隆)が、余命宣告をされた妻(永作博美)と、「その日」(死ぬ日)の最期のときを迎えるまで懸命に生きる姿を描きます。
人気作家、重松清さんの同名の連作短編集をもとにしています。
妻でありプロデューサーである恭子さんからこの本を手渡され一読したとき、大林さんは、大泣きしてしまったといいます。
「映画にすべき本に出会った、恋人に会ったような感動でした。僕は、映像になりやすい本には関心がない。本も映画も想像力で読んだり見たりするものですから。自分なりに登場人物の心を読み解き、一つの色を選んで表現してコミュニケーションが成り立つか、見てくださる皆さんと対話してみたい、と珍しく動き出してしまいました」
手紙たずさえ
あまたの希望者の中から映画化の権利を獲得。原作者の心をとらえたのは、大林さんの若々しい心でした。
お互いの事務所が近いと知り、映画化のお願いの手紙を投函せず、わざわざ持って行ったのです。
「その時、封書に切手はいらないから、こどもみたいに手書きで切手の形を記しておいた。そんなこともあって重松さんは、僕を『向日性』の人間だと思い、原作を預けます、と。
もともと泣きの涙の難病ものを描くつもりはありません。悲しいだけではなく、よく生きたと胸を張って誇らしく踏み出すのが死の世界。それを泣きの涙の商売にするのは罪深い。
自分が70歳になって初めて送られていく側の気持ちも見えてきたんですね。40代の作家が書いた物語を、彼の父親の世代の者が映画にして化学変化を起こしたかな、と思いますよ」
映画は、主人公たちの現実世界に、過去の世界や、現実にはありえないことを織り込んで描くユニークな描き方。イメージの自由なはばたきが魅力です。
「現実にはあり得ないとわかっていても、こんな場面があったらいいなと誰もが思うシーンを入れたりしました。”うそから出たまこと”です。 プロの作り手としては踏み込んではいけないところに踏み込んだかもしれない。妙なおびえと至福感が一緒にある。生まれて初めての映画体験でした」
1938年生まれ。終戦を迎えたのは国民学校2年のときでした。周りの少し上の若者たちは戦場に行き、たちまち遺骨になって戻ってくるという日常の中で育ちました。
1月に古希を迎えた自分を「70歳の新人」と言います。60台に長野県の無言館を訪ね、衝撃を受けたことによります。
「恋人を描き、妻を描き、親を描き、古里を描いている戦没画学生の絵が、私に迫ってきたのです。戦没学徒の遺稿もそうです。私よりほんの少し上の彼らが、24,25歳で完結させられてしまった表現にまさるようなものを、自分は作ってはいない。これで生きていたといえるのか、と」
「僕たちは平和な時代を生きたつもりが実は平和ではなかった、どこで間違ったのか、しっかり確かめる必要があるのです」
大林さんは、そうした思いを、映画人九条の会の会へのメッセージにたびたび表明。
同会への入会に際しては、「私達が未来を生きる子どもたちに残すべき遺産は、平和を手繰り寄せる知恵と努力こそであります」と寄せています。
スターウォーズより、スターピース
10月に『ぼくの映画人生』(実業之日本社)を刊行。出身地・尾道を舞台にして話題を呼んだ「転校生」(82年)に、高度経済成長への異議を込めたといった自身の歩みとともに、「映画作家」とは?の自問への答えを記しています。
「どうやれば上手な映画を作れるかよりも、どうすれば『イマジン』が歌える世界になるか、50年後に子どもが映画を観ていられる日本を、映画がどうやってつくるか、こうしたことを考えていくこと」と。
「9・11の同時多発テロが起きたとき、ビルに飛行機が突っ込む場面は、明らかにテロリストが映画から盗んだ映像だ、と世界中の映画人が思ったはずです。戦争を描く『スターウォーズ』ではなく平和を願う『スターピース』を作っていたら、あんな映像になるテロは起きなかった、という反省もしたはず。面白い『スターウォーズ』にはお客が入って商売になるし、地味な『スターピース』はもうからない。でも僕は、富や名誉には縁が無くとも『スターピース』に連なるものを撮りたいな、と思います」
児玉由紀恵記者 撮影・片桐資喜記者
おおばやし・のぶひこ
広島県生まれ。CMや個人映画で活躍し、77年、「HOUSE/ハウス」で劇場映画に進出。
尾道3部作の「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」、新尾道3部作のほか、
「北京的西瓜」 「青春デンデケデケデケ」(芸術選奨文部大臣賞)、「なごり雪」 「理由」など。
「日々世は好日」(日本文芸大賞特別賞)など著書多数