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ナショナリズムは「アホの壁」他 日本共産党 参議院議員 大門実紀史ブログより

2012-12-30 | 海外通信/外交/平和運動
日本共産党参議院議員 大門実紀史ブログ・乱読のすすめ 70- ナショナリズムは「アホの壁」他


大門みきし ブログ  「忙 中 遊 あり」 ぼうちゅう、ゆうあり
2012年9月1日土曜日

「それでも日本人か」

「ネットと愛国」安田浩一(講談社)

 野田総理問責決議案が可決された8月29日の参議院本会議。
問責決議に先立って、竹島・尖閣 「上陸非難」2決議が、民主、自民、公明、みんな、生活などの賛成多数で議決。日本共産党は反対しました。

わが党は、尖閣諸島は「日本の領有権は歴史的にも国際法上も明りょう」という立場。竹島についても、「日本の領有の正当性には根拠がある」という見解をすでに1977年に発表しています。ただ、竹島問題を解決するうえで、過去の植民地支配の根本的な清算を日本側がしっかり行うことが大事だと考えています。

領土問題は、歴史的事実と国際法上の道理にのっとり、冷静な外交交渉によって解決をはかるべきであり、感情的な対応をエスカレートさせることは双方が自制すべきという立場から、今回の「決議」には反対しました。

ところが、その本会議場で、自民党議員の一人が、わが党の席にむかって、「それでも日本人か、(反対なら)韓国へ行け」というヤジ、暴言をとばしました。ふだんはとても大人しい中堅議員です。私がにらみ返すと、下を向いてしまいました。


 そのとき、しばらく前に読んだ、フリージャーナリスト・安田浩一さんの本、「ネットと愛国」(講談社)を思いだしました。
 この本では、反在日、反中国などをかかげ、過激な行動をくりかえす日本の「市民団体」のすがたがリアルに描かれています。
かれらが、人種差別まるだしの街頭演説などを行っているときに、聞くに耐えかねて抗議する人がいれば、その周りを取り囲んで、「おまえはそれでも日本人か、朝鮮人だろ、朝鮮へ帰れ」と口汚く罵倒するのです。

安田さんによれば、行動に参加する若者の一人ひとりは、普段は大人しい、どこにでもいる「フツ―」の青年たちだとのこと。そういう青年たちが、かんたんに人にレッテルを貼り、攻撃の対象にしていく。ヤジをとばした自民党議員のなかにも同じものを感じて、ぞっとしました。

幸徳秋水
(1871-1911年)

 ところで、大逆事件(1910年)で死刑にされた幸徳秋水は、愛国心についてつぎのようにのべています。

「わたくしは、いわゆる愛国心が、純粋な同情・惻隠の心でないことをかなしむ。なんとなれば愛国心が愛するところは、自分の国土にかぎられているからである。自己の国民にかぎられているからである。他国を愛さないで、ただ自国を愛する者は、他人を愛さずして、ただ自己の一身を愛するものである。うわついた名誉を愛するのである。利益の独占を愛するのである。公正といえるであろうか。私ではない、といえるだろうか」(『廿世紀之怪物帝国主義』神埼清訳)

国を愛さない人はいない。しかし、ほんとうに国を愛するとはどういうことなのか、ふたたび真剣に考えなければならない時代にきています。 


大門みきし ブログ  「忙 中 遊 あり」 ぼうちゅう、ゆうあり
2012年10月31日水曜日

乱読のすすめ70-ナショナリズムは「アホの壁」

 先日、盛岡から東京まで約3時間の新幹線車内で読んだのが、石原慎太郎『新・堕落論』と筒井康隆『アホの壁』(どちらも新潮新書)の2冊でした。

案の定、石原さんの本は、ナショナリズムの化石。最初から最後まで、開いた口がふさがりませんでした。

いっぽう、かつて作家の田辺聖子さんから愛情をこめて「いちびり」と評された小説家・筒井康隆さんの本は笑いがとまらない。筒井さんにかかると、ナショナリズムは「アホの壁」だそうです。



まず、『新・堕落論』。
石原さんがこの本でいいたいのは、ようするに、日本人は戦後、アメリカから与えられた「あてがい扶持(ぶち)の平和(憲法9条)」に毒され、物欲、金銭欲など我欲に走り、衰退堕落した。
この我欲の泥沼から這い出すためには、子どもに国を思え、父母を思えと刷り込み、若者に組織の中での労役を義務化し鍛える。核保有をすすめ、中国などに武力対抗し、財政再建のための税制改革をすすめれば、国民を啓発し、我欲の抑制淘汰につながる、ということのようです。

 しかし、個人的な興味にもとづく「豪華海外視察」に夫人同伴で多額の都民の血税を使っていた石原さんに、我欲が過ぎると人さまを叱る資格などあるのでしょうか。
看過できないのは、東日本大震災が我欲に狂った日本人に下された「天罰」だという部分。

石原さんは、昨年の3・11の直後、東日本大震災を「天罰」だとのべました。しかし批判が一気に高まると、すぐに「被災者、都民、国民の皆様を深く傷つけた」と謝罪し、発言を撤回しました。

ところが、本書のなかで、また同じような主張を繰り返しています。
「…しかし戦後から世界では未曽有の長い平和がこの国にだけは続いた結果、人々の物欲への執着はとどまることがなく…ここまで堕ちた民族が大きな罰を受けない訳はないと思います。今回の東日本の大災害も、そう受けとめるべきでしょう」(42~43頁「タンタロスの悲劇」)。

親・兄弟や子供を失った被災地の人々を目の前にして、同じことばをいえるのか。他者の痛みなど関係なく、自論の展開だけに執着する驕りと無神経さ。人に美徳を説くのは筋違いではないか。
自分のことを『棚上げ』にして、よくここまで好き勝手にいえるものだ、とおもいました。

2011年3月15日 謝罪会見



 気をとり直しつつ、筒井さんの『アホの壁』をよんでいると、「ナショナリズムはアホの壁」というおもしろい一節がありました。

「戦争を好む性癖を持つ人はたいへん多い。ここではまず、なぜ自分の戦争好きを殊更に隠そうとしない人が多いのかを考えてみたい。
…子供にとっては喧嘩と破壊は日常であり、子供の社会は戦争だと言ってもよい。…玩具を奪い合ったり、お互いに引っ掻いたり噛みついたり…。破壊にしてもそうだ。玩具を壊し、人形の手をもぎとり…。
これら破壊の衝動から発する行為はいったん抑制されるが、アホはこの衝動をしばしば噴出させ、喧嘩をする。通常の子供たちはこの衝動を戦争ごっこに向けたり、スポーツに向けたりする。戦争と戦争ごっことスポーツの心理をはっきり区別することは非常に難しい」

「ところで人間は自己保存や種の保存の本能と同時に、同種既存の遺伝子も持っている。…会社に入るとその会社を愛するようになり、日本に生まれると日本にたいする愛国心が生まれるのである。これが同種既存の本能である。
…しかしこれらの本能には弱点があるらしいのだ。過剰反応を起こしやすいという弱点である」

「…こう考えてみると、同種既存の過剰反応によってアホの壁を乗り越えたら戦争、乗り越えずに良識の範囲内で競うのがスポーツ、ということになりそうだ。
戦争が好きという人は、ナショナリズムによる戦争までをスポーツの一種とみなし、わしには愛国心があるからという自己正当化によって、アホの壁を乗り越えたアホなのであろう」。
(大門みきしブログ「忙 中 遊 あり」より転載)。

大門みきし ブログ  「忙 中 遊 あり」
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日本共産党参議院議員・大門実紀史(だいもん みきし)
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3 コメント

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愛国心 (車坂子)
2013-08-03 09:01:36
ありがたく興味深く拝見しております。ところで、「国を愛さない人はいない。しかし、ほんとうに国を愛するとはどういうことなのか、ふたたび真剣に考えなければならない時代にきています」といのことですが、真剣な思索の一端をぜひ公開くださいませ。
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大門実紀史議員のブログからです♪ (ネコ型)
2013-08-04 19:20:30
「そんなこと書いたっけ?」と思いました笑。
私自身は、あまり国を愛するとか考えませんもので。
まぁ日本語や文化は誇れると思いますが。


↑の幸徳秋水の言葉
―他国を愛さないで、ただ自国を愛する者は、他人を愛さずして、ただ自己の一身を愛するものである。うわついた名誉を愛するのである。利益の独占を愛するのである。―

とあるように、「国を思う心」とは、自己又は親や子どもを思う心に変換してみても通じる、類似する感情なのかなと思います。
自己のアイデンティティーに携わるものを、絶対視はせず真の姿を見ようとし、不当な不利益を与えることも、受けることもないようにし、存在価値を高めようとする・・・というようなことが、「本当に愛する」ことのような気がします。

隣国の被害感情を逆なでするような「自己だけを愛する」日本、また戦争したいというような日本に良い事が返ってくることはないでしょうし。

当たり前のようなことしか言えませんが。
返信する
日本は (ひでまーる)
2013-08-08 00:52:59
愛国心を持つのも持たないのも、日本という国を好きだろうと嫌いだろうと個人の自由で、憲法でも保障されています。
言えるのは『ナショナリズムによる戦争までをスポーツの一種とみなし、わしには愛国心があるからという自己正当化によって、アホの壁を乗り越えたアホ』に権力を持たせると、単なるアホ扱いでは済まされない状況になり得るってことですね・・・。
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