日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

永遠のヨブの叫び。

2014年07月20日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

あらかじめお断り、

死に纏わる問答なので、気分を害したくない方は

読まない事をお勧めします。

 

 

 

飛行機に乗るには、それなりに覚悟がいる。

飛行機嫌いな人の気持ちはわからないでもない。

もし空の上で何か起きたらと考えたら、

死を覚悟して、

運命に身をまかすしか選択支が無いから。

 

今回の悲惨な撃墜事件も、

もし神様がいて感情がおありなら

どういう心情で眺めておられるのだろう。

 

①人は空を飛ぶようには創っていないから、私の責任ではない。

②人間どうし殺しあうのは、人間の自由な選択支の一つ。人間が理性でそれを選んだのなら、       私の責任ではない。

③元々私が全てを与えた。命を与えのは私、故に奪うのも私。命は個々の人間のものではない。    私の全責任おいてなされた事。

④私に似せて人間を創ったのだから、人間が悲しむ時は私もまた悲しんでいる。

⑤私に似せて人間を創った。命は物質的なものだけでなく永遠の命を元々与えているのだから、

 肉体を失い見えなくなっても命がなくなったのではない。悲しむ必要はない。

⑥全ては肉体という衣装を着て演じているゲームである。肉体がなくなったら本来の命の状態に戻って、

 人生の振り返りをするのだ。今回は何点取れたと思っているのだね。

⑦肉体死は意識の消滅を意味しない。人間をその程度に創っては私はいない。お楽しみはこれからだ。

⑧肉体はなくなり、意識も無に帰り消滅したのだ。誰の為に悲嘆にくれるのだ。悲嘆にくれる相手は   その存在すべてが無に帰ったのだ。

 肉体死と意識の消滅を悲しむのは論理的に無意味だ。無に変えるのは全てからの開放ではないか。

⑨全ての生命、全ての魂、全ての意識は私を分割した私の一部である。

 故に全ての生命は永遠に生き通しであり、私は全ての生命を体験している。

 肉体死は人間としての体験にすぎない。それは生命の領域の一部にすぎない。どの生命も私である。 例外はない。

 

 

あなたなら、神にどう答えて欲しいだろうか。

人は誰でも神を呪うような気持ちになる可能性があると私は思う。

特に愛する人との死による別れは、運命や神を呪いたくなる。

尊い人の死を無意味だと思いたくない。

だが、それは人間側からの生からの視点に過ぎない。

死は死の視点から見たら、全く逆に見えるかもしれない。

 

私は少なくとも今はそう思えるようなった。

人より死を見てきたせいもあるが、私が自分をデンパだと言うのはそういうところからだ。

私は自分の死を楽しみに生きているネジの外れたナルシストだと思っている。

確かに兄の死のように死の間際の肉体的な痛みは難関だとは思うが、

それ以外の事を考える時、

生まれ変わりの宗教がいうように、魂なるものが今と同じ自我を認識して

肉体がないだけで、後は夢の中のようなベタな死後の世界に移るなら、

それはそれで楽しみだ。

また、唯物論のように全てが無に帰すなら、

肉体死の段階で意識も消えるので苦痛とは元々無縁である。

まあ、私は前者を信じているので寿命まで生きて死に出会うのを

答え合わせを待つ心境で楽しみにしている。

 

しかし家族や愛する人を失った時の悲しみは、

人間はそれを体験するために生まれたと思えるほど、

その人の人生を試される。

それは神代の時代から変わらぬ、

人間から神への切なる問いかけを生む衝動の母体なのだ。

 

ヨブは過酷な運命を与えた神にこう叫んだ。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」

 

それを信仰の証ととるのは、神の視点だろう。

私には、ヨブの人間としての誇りが言わせた

神への皮肉を込めた血の叫びに聞こえる。

 

ヨブは、悲嘆に暮れ、神を呪う人々と共に、

聖書の中で神に叫び続けてくれている。

私にはそう思える。

 

メメントモリ。  死をオモエ!

そして、今生有るものは   生きよ !

 

若い魂たちへ

鎮魂と慰めの代わりとして。