日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

臨死体験。 

2014年07月23日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

夏らしく前回に引き続き臨死体験のお話を。

もろデンパな話です、波長の合いそうもない方は

ここで退席されたほうがよろしいかと思います。

 

私の母には臨死体験があった。

最初にその話を聞かされた時は、

母にとっては「あの世は怖くなかった。」という話しであったが、

聞かされ子供の私には十二分に怖い話であった。

 

まず話始めがこうだ、

「お母さんは結婚する前に死に狩りにあった事がある。」

ようは生死の間をさ迷うような大病をしたのではあるが、

「死に狩り」なる方言(後になって方言とわかった。)が恐ろしくそれだけで、

聞きたくないと思ってしまう不気味さがあった。

母は結婚前に盲腸を悪化させて、危篤状態に陥った事があるという。

そして、自分の体を抜け出して、

ベットで寝ている自分を天井から眺めたと言っていた。

そして良く死後の世界の話に出て来る、

きれいなお花畑に居たというものであった。

 

それはとても言葉では言い表せないほど美しい場所で、

極楽浄土とはああいう所なのだと、私に良く聞かせてくれた。

そしてこれも良くある話だが、血筋にあたる誰かに帰れと手をふられて

戻ってきたというものだった。

そして、あんなきれいな所に行ける事がわかっているので、

自分は死ぬのは少しも怖くわないと言って話を終わるのだった。

 

その頃の私は小学校に上がる前で、ひじょうに怖がりであった。

雷が鳴ったと言って泣き、電車の天井の扇風機が怖いといって泣いていた。

何か不始末をすれば、真っ暗な納戸への押し込めの罰で大騒ぎをし、

我ながらひどい泣き虫であった。

そんな時に母の「死に狩り」の話を初めて聞いたのであった。

 

死そのものが良くわかっていなかったので、

その前の「死に狩り」の方が余程怖かった。

どうしても、西洋の死神が大きな鎌を持って

「死に狩り」にやってくる姿が目に浮かび、

その先にある「あの世はきれいなお花畑」はただの付けたしでしかなく

怖がりの私にはなんの魅力も感じなかった。

 

大きくなるつけ、母の話が臨死体験というものだと理解したが、

だからと言って、素直に母の言うとおり

あの世が素晴らしく美しい所とも思えなかった。

私にとって、「死に狩り」にやってくる死神は

美しい花園の前に立ちはだかる恐ろしい死の使いであった。

そして死神は私の成長と共に「運命」と名前を変えて、

人生のお馴染みのキャラクターになっていった。

 

私自身は臨死体験はない。

全身麻酔で15時間かかるような手術もしたが、別に命に係わるような手術でもなかったからか、

本人の意識では一瞬で手術は終わり、執刀医にビンタされて起こされた事があるくらいだ。

 

あれが唯物論者の言う死であるなら、10秒も数える事ができずに意識を失うあのわずか数秒が

死の瞬間にあたるのだろうか。

その後記憶はいっさいないので、起こされた時に時間が跳躍をした感じがした。

後で15時間たっていたと聞かされた時は驚いた。

あの時無に帰ったままなら死は苦痛はないと私は言える。

意識が消滅してもう何も無いのだから。まさに私という自我ともおさらばであった。 

 

この間、本に呼ばれて。という記事を書いたが、

ここで何の本に呼ばれたかを書いておこうと思う。

それは、木内鶴彦氏の「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組という本であった。

この方は彗星検索家(コメットハンター)としてとても高名で、

ご自分の名前の彗星や、小惑星があるとの事。

また臨死体験者としても有名で、

立花隆氏のベストセラー「臨死体験」にも経験談が掲載されておられるとの事。

 

御本の内容はとても面白く、驚異的で、体験に基づいた臨死体験の説明が、

リアルに語られているものであった。

この手の本に触れないようにしていた私には、久振りのごちそうみたいな内容であった。 

信じる信じないは別として、死を別の視点で見、考える事はタブーでもなんでもない。

この生きにくい世を渡る上ではむしろ、選択肢の幅を広げてくれると私は考える。

 

良い時代になったものだ。

これからますますこういう話がオープンにできる社会になってゆくのだろう。

確かにオウムや霊感商法をはじめ、類似のありとあらゆるイカガワシイ宗教詐欺も増えるだろうが、

それらの中から身を持ち崩さないような全うなものを選択する事も

同じ位大切な人間としての資質だろう

 

あくまでも客観性を失わずに、論理的な思考を持ち続け判断する事が

人間に与えられたすぐれた能力だと思う。

 

何が真実や真理に近いのか、

誰かを妄信して自身の判断を放棄してはならないと

私は思う。

 

生に悩んでいる方

死を今までとは違う観点から味わう事を一度想像してみてはいかがだろう。

デンパ者の助言として、それも一興だと思うのですが。

それはひょっとしたら、今まででのつまらない風景を

別の鮮やかな彩りにしてくれる、

ちょっとしたきっかけになる可能性を含んでいると

「箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる達人」は

そう感じてここまでどうにか生きてきました。