サンガの日本平遠征のついでにお約束のお城見学。今回は日本平からほど近い駿府城です。
駿府城を築城したのは徳川家康。元々この駿河を治めていたのは今川家でしたが、当主・今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、一時は武田領となり、その後家康が治める事となりました。その時期に家康の本拠として本格城郭に整備されたのが駿府城です。さらに豊臣秀吉が天下統一を遂げると、家康が領していた駿遠三の東海三国と甲斐は召し上げとなり、関東五か国への転封を命じられます。
天正18年、代わりにこの駿府城に入ったのが秀吉子飼い大名の中村一氏。一氏は関ケ原合戦の直前に病死するのだが、中村家自体は家康に味方した功で伯耆国米子へ加増転封される。(のち慶長14年、一氏の嫡子・一忠が急死して中村家は断絶する。)そして慶長12年、天下人となった家康は将軍職を息・秀忠に譲ると“大御所”としてふたたび駿府城へ戻ってきます。この慶長期の天下普請で北西部に五重七階の天守が築かれたようです。その天守も家康の死後、火災により焼失。以後天守は築かれる事はありませんでした。
城跡北西の外堀近くの駐車場に車を停め、外堀を越えて内堀北西角へ。そこから見た東方向の景色がコレ。
天守が現存していればこの北西角にそびえ立っていたはず。(静岡市で再建してくれんかな、天守?)
そのまま東方向へ内堀沿いに徒歩移動。内堀周辺には静岡市の官庁や学校が立ち並んでいます。途中に搦手門らしき北門橋がありましたが、そこはスルー。お城好きとしてはやはり正面から入りたいからね。そのまま内堀沿いに南進すると駿府城の東南角に正門である東御門が見えてきます。
東御門と奥が巽櫓
そして東御門に架かる橋の袂には駿府城の案内板が設置されています。
橋を渡ると平成8年(1996年)に復元された東御門。
コレをくぐって振り返ると門を支える立派な梁二本が…
城の内側から東御門を見るとこんな感じ。めっちゃ立派な門です。内部は「駿府城の一生」と題した最新調査結果の展示がされているようでしたが有料(200円)なので(あんまり試合まで時間の余裕もなかったし)今回はパス。城跡内は芝が植えられ、植樹されて公園として整備されています。内堀沿いの櫓以外に建築物はほとんどありません。
場内の案内図
正直言うと、駿府城は天下泰平となってから築かれた城なのでほとんど要塞としての工夫はありません。攻められる恐れはない家康の隠居城らしい造り。唯一建物っぽかったのが紅葉山庭園。
紅葉山庭園入口
ここも入るのに別料金(150円)が必要。今は夏なので紅葉はないよね。パス!パス!
そのまま庭園を左回りに散策していくと天守台跡がある北西部は工事中。どうやら天守台の発掘調査が進んでいる模様。その工事区域の手前にあるのが家康公お手植えのミカンの木。
紀州から持って来たものらしく県指定の天然記念物との事。
そのミカンの木のすぐそばには鷹を手にした大御所家康の像が。
家康像の後方、工事区画も一部ですが見学出来ました。
手前の赤いコーンが置かれている所が天正期の天守台入口。奥のシートがかかっているのが天守台。中央奥の黄色いコーンの辺りが今川期の館跡らしい。家康は自分を人質に取っていた今川家が憎かったのだろう。今川館を破却してその上に自分の天守を築いたようだ。
この緑のコーンの場所には慶長期の天守南面があったとの事。天正期の天守からかなり南側へ位置が変わっている。工事区画内にはプレハブの小屋が建てられていて、発掘調査中に発見された瓦などが展示されていました。
最後に城址南西の坤(ひつじさる)櫓へ向かいます。
坤櫓
この坤櫓は平成26年に伝統的な吹き抜け構造の木造建築で復元されたもの。ここも内部を有料(100円)で見学可ですが、パス。なんつーか、やたら個別に金取るな、ココ。
内堀越しに見ると、東御門傍にあった巽櫓に比べるとかなり凝った意匠だとよく解ります。
内堀越しに見る坤櫓
家康にとって今川家の人質として苦労した幼年期を過ごした駿府の地は、出生本領である三河国岡崎と共に特別なこだわりの地だったのでしょう。「死ぬならココで」と決めていたに違いありません。海の幸にも山の幸にも恵まれた温暖な地は、老後を穏やかに過ごす場所としては最適だったのかもしれませんね。家康の最期が穏やかだったかどうかは定かではありませんが…
駿府城を築城したのは徳川家康。元々この駿河を治めていたのは今川家でしたが、当主・今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、一時は武田領となり、その後家康が治める事となりました。その時期に家康の本拠として本格城郭に整備されたのが駿府城です。さらに豊臣秀吉が天下統一を遂げると、家康が領していた駿遠三の東海三国と甲斐は召し上げとなり、関東五か国への転封を命じられます。
天正18年、代わりにこの駿府城に入ったのが秀吉子飼い大名の中村一氏。一氏は関ケ原合戦の直前に病死するのだが、中村家自体は家康に味方した功で伯耆国米子へ加増転封される。(のち慶長14年、一氏の嫡子・一忠が急死して中村家は断絶する。)そして慶長12年、天下人となった家康は将軍職を息・秀忠に譲ると“大御所”としてふたたび駿府城へ戻ってきます。この慶長期の天下普請で北西部に五重七階の天守が築かれたようです。その天守も家康の死後、火災により焼失。以後天守は築かれる事はありませんでした。
城跡北西の外堀近くの駐車場に車を停め、外堀を越えて内堀北西角へ。そこから見た東方向の景色がコレ。
天守が現存していればこの北西角にそびえ立っていたはず。(静岡市で再建してくれんかな、天守?)
そのまま東方向へ内堀沿いに徒歩移動。内堀周辺には静岡市の官庁や学校が立ち並んでいます。途中に搦手門らしき北門橋がありましたが、そこはスルー。お城好きとしてはやはり正面から入りたいからね。そのまま内堀沿いに南進すると駿府城の東南角に正門である東御門が見えてきます。
東御門と奥が巽櫓
そして東御門に架かる橋の袂には駿府城の案内板が設置されています。
橋を渡ると平成8年(1996年)に復元された東御門。
コレをくぐって振り返ると門を支える立派な梁二本が…
城の内側から東御門を見るとこんな感じ。めっちゃ立派な門です。内部は「駿府城の一生」と題した最新調査結果の展示がされているようでしたが有料(200円)なので(あんまり試合まで時間の余裕もなかったし)今回はパス。城跡内は芝が植えられ、植樹されて公園として整備されています。内堀沿いの櫓以外に建築物はほとんどありません。
場内の案内図
正直言うと、駿府城は天下泰平となってから築かれた城なのでほとんど要塞としての工夫はありません。攻められる恐れはない家康の隠居城らしい造り。唯一建物っぽかったのが紅葉山庭園。
紅葉山庭園入口
ここも入るのに別料金(150円)が必要。今は夏なので紅葉はないよね。パス!パス!
そのまま庭園を左回りに散策していくと天守台跡がある北西部は工事中。どうやら天守台の発掘調査が進んでいる模様。その工事区域の手前にあるのが家康公お手植えのミカンの木。
紀州から持って来たものらしく県指定の天然記念物との事。
そのミカンの木のすぐそばには鷹を手にした大御所家康の像が。
家康像の後方、工事区画も一部ですが見学出来ました。
手前の赤いコーンが置かれている所が天正期の天守台入口。奥のシートがかかっているのが天守台。中央奥の黄色いコーンの辺りが今川期の館跡らしい。家康は自分を人質に取っていた今川家が憎かったのだろう。今川館を破却してその上に自分の天守を築いたようだ。
この緑のコーンの場所には慶長期の天守南面があったとの事。天正期の天守からかなり南側へ位置が変わっている。工事区画内にはプレハブの小屋が建てられていて、発掘調査中に発見された瓦などが展示されていました。
最後に城址南西の坤(ひつじさる)櫓へ向かいます。
坤櫓
この坤櫓は平成26年に伝統的な吹き抜け構造の木造建築で復元されたもの。ここも内部を有料(100円)で見学可ですが、パス。なんつーか、やたら個別に金取るな、ココ。
内堀越しに見ると、東御門傍にあった巽櫓に比べるとかなり凝った意匠だとよく解ります。
内堀越しに見る坤櫓
家康にとって今川家の人質として苦労した幼年期を過ごした駿府の地は、出生本領である三河国岡崎と共に特別なこだわりの地だったのでしょう。「死ぬならココで」と決めていたに違いありません。海の幸にも山の幸にも恵まれた温暖な地は、老後を穏やかに過ごす場所としては最適だったのかもしれませんね。家康の最期が穏やかだったかどうかは定かではありませんが…
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