やっと一区切りついたばかりなんですが(笑)
甲斐バンドの機関紙に手を染めたからには
やっぱり、その最初に触れない訳にはいかないかなあと…(笑)
ただ、あんまり掘り下げるとまた連日の「超大作(笑)」になっちゃうし
でも、ちょっと読み返してみただけで
この「タブロイド版8面」の内容の濃さに
とてもじゃないけど「さらり」と書く自信がアリマセン(苦笑)
…という訳で、おそらく皆さまよくご存知のことを
またツラツラと並べるシリーズ(笑)開幕です♪
が、その前に…この創刊号(1981年12月発行)から1年近く経った
翌年10月のVol.11に「BEATNIKの語源についての質問が多いため
手頃なテキストをご紹介」とのことで
講談社文庫「ジェフィ・ライダー物語〜青春のビートニク」の
あとがきの抜粋が掲載されてますので
そちらを先に書かせて頂きます
著者のケルアックは、1950年半ばに台頭して来た
いわゆる「ビートニク」世代を代表する作家で
以後、60年代にかけて精力的に活動し、69年に47歳の若さで世を去った
お行儀の良い50年代から、反逆の60年代
長髪、ジーンズ、ナップザック姿のアメリカへの
転換の口火を切った「元祖ヒッピー」である
ケルアックはコロンビア大学時代に
生涯の盟友となった詩人アラン・ギンスバーグと出会い
52年、グリニッジ・ヴィレッジを拠点に「ビートニク」運動を起こした
一世を風靡した「ビート」という言葉は、ケルアックの造語である
これは、空虚で欺瞞に満ちた中産階級文化に反逆し
雨風に打ち叩かれ、したたかに鍛え抜かれ
ジャズのビートの如くに溢れた新文化を築いて行こうという
真摯な青年達の運動であった
…と、記されていますが「BEATNIK」は
甲斐バンドが、シンコー・ミュージックから独立した際に
設立した事務所…甲斐さんによれば「夢の砦」…の名前であり
1982年に発売された写真集やツアー・タイトルにも使用された訳で
当時のファンの方にとっては馴染み深い響きの言葉ですよね?
ただ、奥さんによれば、この言葉を初めて見た時には
「1950年代後半、アメリカに一群の[新しい]若者達が登場した
既成の社会通念を排除し、ありきたりの生活を拒否し
自分達の自由意志のままに生きようとする若者達だった
[BEATNIK]〜彼らはそう呼ばれた
[BEAT]とは[叩く、打ちひしがれた]の意味で
[NIK]とは、世界で初めて打ち上げに成功したソ連の人工衛星
[スプートニク]に由来している」との説明が添えられていて
この機関紙の名前についても、それ以上の疑問は起こらなかったらしく
ナンで今さら?と思ったら
この前号…表紙に「シビレる言葉」が掲載されるようになったVol.10…から
それまで「ライターの1人」でいらした田家秀樹さんや亀和田武さんが
編集部に参入されたためじゃないかと…?
もちろん「質問」が寄せられたこともあったと思いますけど…(笑)
さて、創刊号から「editor」を務められた水岡隆子さん
「甲斐バンド・この1曲」に【MIDNIGHT】を挙げられた方ですが
編集長としてのご挨拶…というか
就任されるまでの経歴を記されていて…
海潮社という「イカガワシイ雑誌を定期刊行している出版社」が
なぜか「ジャズランド」というジャズ誌を出すことになり
当時、高校5年生(笑)でいらした水岡さんは
バイト先のジャズ喫茶で培われたジャズの知識を特技に
編集部に入られたそうだ
しかし「編集の[へ]の字も知らないズブの素人」は
売れない雑誌の編集部粛清のヤリ玉に…(汗)
でも、その編集部時代の名刺をきっかけに
山下洋輔トリオやシュガー・ベイブが在籍していた事務所に入られ
企画書を書く仕事につかれたという
が、シュガー・ベイブ解散と山下洋輔トリオ独立により事務所が失くなって
今度は新宿のライブハウス「ロフト」で
ニュー・ミュージックの新聞を手がけられることに…
ただ「荒井由実がユーミンと同一人物であることすら知らなかった」ため(笑)
10ヶ月間、レコードを聴き、ロフトに通いつめられたものの赤字で廃刊…(汗)
そして、そのロフトにちょくちょく取材でおみえになっていた
佐藤剛さんから「ミュージック・ラボ」に誘われ入社
ところが「この雑誌は歌謡曲界メイン」で
「ニュー・ミュージックを喘ぎ喘ぎ覚えた私が
五木ひろしを知ってる訳がない
五木寛之と混同して、あの人歌うのかと思ってたくらいだ」(笑)
「しかも唯一頼りにしていた佐藤剛は、私の入社と同時に退社して
甲斐バンドの仕事をするという…そんな!サギだ!(笑)
彼は[2年くらい居たら]と捨てゼリフを残して去って行った」
やがて2年は過ぎ去り、ゴールデン街で
「どうせ飲むならカウンターの中で飲んだら」と勧められ(笑)
「連日連夜の酒とバラの日々」(笑)
その後「出産を1週間後に控えた1979年12月
日本武道館での甲斐バンドのステージに熱狂して、この業界を去ることにした
武蔵野の片田舎で、それはそれは静かな2年が流れて行った」
「ところが、再び佐藤剛氏からのお声掛かり
ジャズを覚えて[ビートニク]の編集者になったというオソマツ」と水岡さん
以前に甲斐さんが湯川れい子さんの番組で
「もしかしたら、萩原健太さんみたいに
(音楽評論家に)なってたかも?」と言われて
「東京の人には敵わない(笑)」とおっしゃってましたが
水岡さんのような形で文筆業に携わることになる方もおられるんだと知ると
確かに「東京だなあ」と思いますね(笑)
それはともかく、この「Vol.1」の「一面(表紙)」を飾ったのは
まだステージを設営中の花園ラグビー場の客席?に立つ甲斐さん
この年の9月に行われた「大暴動大会(笑)」直前かな?
ライブ翌日のバラシじゃないでしょ?
スポ紙の裏一面に当たるページには「某月某日 我発見せり」というタイトルで
どなたの手によるものか判らない記事(笑)が載っているんだけど
10月2日の八王子から11月3日の武雄、次の長崎と
甲斐バンドのライブやツアー中の様子が記されていて
その中に「連日の徹夜続き、おせおせのニュー・アルバム
ミックスダウンの真っ最中とあって
実際、甲斐の眼はよく見ると真っ赤だ」とか
「[破れたハート…]を作り始めてから
一体どれくらいの時間がかかっているのだろう?
800時間、いや、そんなナマやさしい数字ではなさそうだ
とにかく、ニュー・アルバムは完成した」
「庭では大森信和が、バーベキューの火を起こそうと
懸命にウチワをバタつかせている
その炭にまみれた焼肉を松藤英男は丁寧に網のスミに寄せ(笑)
甲斐よしひろは、ウィスキーをヤカンの水で割りながら
先ほどから田中一郎とストーンズの話に花を咲かせている
10月15日、甲斐の部屋に気の置けないスタッフや友人達が集まって
LP完成の打ち上げが行われた
みんな心地良い疲労感と解放感の中で、したたかに酔っていた
もう明け方の3時はまわっただろうか?
まるで水揚げされたばかりのマグロのように
甲斐がコロンと転がって眠っている
あまりにもアッケラカンと…(笑)
酔った頭で俺は発見する。無防備であることのしたたかさを
無防備を装うより、無防備でいられることの凄さを
甲斐よしひろは、もはや完全に無防備だ」
奥さんが「可愛い♪」と言うこと間違いなしのお姿ですが(笑)
内輪の方だけの打ち上げで、リラックスなさったのも束の間
年末恒例の武道館の後、翌年の春のツアーを休まれ
またレコーディングに苦しまれる日々に突入されるんですよねぇ…(汗)
甲斐バンドの機関紙に手を染めたからには
やっぱり、その最初に触れない訳にはいかないかなあと…(笑)
ただ、あんまり掘り下げるとまた連日の「超大作(笑)」になっちゃうし
でも、ちょっと読み返してみただけで
この「タブロイド版8面」の内容の濃さに
とてもじゃないけど「さらり」と書く自信がアリマセン(苦笑)
…という訳で、おそらく皆さまよくご存知のことを
またツラツラと並べるシリーズ(笑)開幕です♪
が、その前に…この創刊号(1981年12月発行)から1年近く経った
翌年10月のVol.11に「BEATNIKの語源についての質問が多いため
手頃なテキストをご紹介」とのことで
講談社文庫「ジェフィ・ライダー物語〜青春のビートニク」の
あとがきの抜粋が掲載されてますので
そちらを先に書かせて頂きます
著者のケルアックは、1950年半ばに台頭して来た
いわゆる「ビートニク」世代を代表する作家で
以後、60年代にかけて精力的に活動し、69年に47歳の若さで世を去った
お行儀の良い50年代から、反逆の60年代
長髪、ジーンズ、ナップザック姿のアメリカへの
転換の口火を切った「元祖ヒッピー」である
ケルアックはコロンビア大学時代に
生涯の盟友となった詩人アラン・ギンスバーグと出会い
52年、グリニッジ・ヴィレッジを拠点に「ビートニク」運動を起こした
一世を風靡した「ビート」という言葉は、ケルアックの造語である
これは、空虚で欺瞞に満ちた中産階級文化に反逆し
雨風に打ち叩かれ、したたかに鍛え抜かれ
ジャズのビートの如くに溢れた新文化を築いて行こうという
真摯な青年達の運動であった
…と、記されていますが「BEATNIK」は
甲斐バンドが、シンコー・ミュージックから独立した際に
設立した事務所…甲斐さんによれば「夢の砦」…の名前であり
1982年に発売された写真集やツアー・タイトルにも使用された訳で
当時のファンの方にとっては馴染み深い響きの言葉ですよね?
ただ、奥さんによれば、この言葉を初めて見た時には
「1950年代後半、アメリカに一群の[新しい]若者達が登場した
既成の社会通念を排除し、ありきたりの生活を拒否し
自分達の自由意志のままに生きようとする若者達だった
[BEATNIK]〜彼らはそう呼ばれた
[BEAT]とは[叩く、打ちひしがれた]の意味で
[NIK]とは、世界で初めて打ち上げに成功したソ連の人工衛星
[スプートニク]に由来している」との説明が添えられていて
この機関紙の名前についても、それ以上の疑問は起こらなかったらしく
ナンで今さら?と思ったら
この前号…表紙に「シビレる言葉」が掲載されるようになったVol.10…から
それまで「ライターの1人」でいらした田家秀樹さんや亀和田武さんが
編集部に参入されたためじゃないかと…?
もちろん「質問」が寄せられたこともあったと思いますけど…(笑)
さて、創刊号から「editor」を務められた水岡隆子さん
「甲斐バンド・この1曲」に【MIDNIGHT】を挙げられた方ですが
編集長としてのご挨拶…というか
就任されるまでの経歴を記されていて…
海潮社という「イカガワシイ雑誌を定期刊行している出版社」が
なぜか「ジャズランド」というジャズ誌を出すことになり
当時、高校5年生(笑)でいらした水岡さんは
バイト先のジャズ喫茶で培われたジャズの知識を特技に
編集部に入られたそうだ
しかし「編集の[へ]の字も知らないズブの素人」は
売れない雑誌の編集部粛清のヤリ玉に…(汗)
でも、その編集部時代の名刺をきっかけに
山下洋輔トリオやシュガー・ベイブが在籍していた事務所に入られ
企画書を書く仕事につかれたという
が、シュガー・ベイブ解散と山下洋輔トリオ独立により事務所が失くなって
今度は新宿のライブハウス「ロフト」で
ニュー・ミュージックの新聞を手がけられることに…
ただ「荒井由実がユーミンと同一人物であることすら知らなかった」ため(笑)
10ヶ月間、レコードを聴き、ロフトに通いつめられたものの赤字で廃刊…(汗)
そして、そのロフトにちょくちょく取材でおみえになっていた
佐藤剛さんから「ミュージック・ラボ」に誘われ入社
ところが「この雑誌は歌謡曲界メイン」で
「ニュー・ミュージックを喘ぎ喘ぎ覚えた私が
五木ひろしを知ってる訳がない
五木寛之と混同して、あの人歌うのかと思ってたくらいだ」(笑)
「しかも唯一頼りにしていた佐藤剛は、私の入社と同時に退社して
甲斐バンドの仕事をするという…そんな!サギだ!(笑)
彼は[2年くらい居たら]と捨てゼリフを残して去って行った」
やがて2年は過ぎ去り、ゴールデン街で
「どうせ飲むならカウンターの中で飲んだら」と勧められ(笑)
「連日連夜の酒とバラの日々」(笑)
その後「出産を1週間後に控えた1979年12月
日本武道館での甲斐バンドのステージに熱狂して、この業界を去ることにした
武蔵野の片田舎で、それはそれは静かな2年が流れて行った」
「ところが、再び佐藤剛氏からのお声掛かり
ジャズを覚えて[ビートニク]の編集者になったというオソマツ」と水岡さん
以前に甲斐さんが湯川れい子さんの番組で
「もしかしたら、萩原健太さんみたいに
(音楽評論家に)なってたかも?」と言われて
「東京の人には敵わない(笑)」とおっしゃってましたが
水岡さんのような形で文筆業に携わることになる方もおられるんだと知ると
確かに「東京だなあ」と思いますね(笑)
それはともかく、この「Vol.1」の「一面(表紙)」を飾ったのは
まだステージを設営中の花園ラグビー場の客席?に立つ甲斐さん
この年の9月に行われた「大暴動大会(笑)」直前かな?
ライブ翌日のバラシじゃないでしょ?
スポ紙の裏一面に当たるページには「某月某日 我発見せり」というタイトルで
どなたの手によるものか判らない記事(笑)が載っているんだけど
10月2日の八王子から11月3日の武雄、次の長崎と
甲斐バンドのライブやツアー中の様子が記されていて
その中に「連日の徹夜続き、おせおせのニュー・アルバム
ミックスダウンの真っ最中とあって
実際、甲斐の眼はよく見ると真っ赤だ」とか
「[破れたハート…]を作り始めてから
一体どれくらいの時間がかかっているのだろう?
800時間、いや、そんなナマやさしい数字ではなさそうだ
とにかく、ニュー・アルバムは完成した」
「庭では大森信和が、バーベキューの火を起こそうと
懸命にウチワをバタつかせている
その炭にまみれた焼肉を松藤英男は丁寧に網のスミに寄せ(笑)
甲斐よしひろは、ウィスキーをヤカンの水で割りながら
先ほどから田中一郎とストーンズの話に花を咲かせている
10月15日、甲斐の部屋に気の置けないスタッフや友人達が集まって
LP完成の打ち上げが行われた
みんな心地良い疲労感と解放感の中で、したたかに酔っていた
もう明け方の3時はまわっただろうか?
まるで水揚げされたばかりのマグロのように
甲斐がコロンと転がって眠っている
あまりにもアッケラカンと…(笑)
酔った頭で俺は発見する。無防備であることのしたたかさを
無防備を装うより、無防備でいられることの凄さを
甲斐よしひろは、もはや完全に無防備だ」
奥さんが「可愛い♪」と言うこと間違いなしのお姿ですが(笑)
内輪の方だけの打ち上げで、リラックスなさったのも束の間
年末恒例の武道館の後、翌年の春のツアーを休まれ
またレコーディングに苦しまれる日々に突入されるんですよねぇ…(汗)