公式ファンクラブを作らなかった甲斐バンドの「機関紙」は
いわゆる「ファンクラブ甲斐報」ではなく
購読料を支払えば誰もが入手できるものだったそうですが
その分、甲斐バンドへのインタビューやコメント等
直接メンバーの皆さんが登場される機会が少なく
ある意味、独立した「読み物」であり
甲斐さんが目を通されてはおられたでしょうけど
おそらく?編集作業自体には「ノータッチ」でいらしたんじゃないかと…
もちろん、根底にあるコンセプトは「甲斐バンド」で(笑)
佐藤剛さんを始め身近な方々が、執筆、発行されたものですから
行間には「メッセージ」が溢れてますよね
例えば、1982年2月号の表紙のコラムには
「世は今[情報文化]だ」との書き出しで
容易く情報が手に入るようになったことによって
「自分の知りたいと思うものを考える間もなく
情報に溺れてはいないだろうか
知らなければ咎めだてられる、それは時代のせいだけではないだろう」
「[便利]になった。それを善とするか悪とするかは
利用するものの腕次第だ」と記されていて
当時の甲斐さんがサンストで「今は情報が溢れてるから
その中から必要なものを選び取らないといけない」とおっしゃっていたことを
補足、解説する文章が載っています
そして、この号の「PEOPLE」欄には
出版プロデューサー・残間里江子さんへのインタビューが…♪
山口百恵さんの「蒼い時」の出版を手掛けられた方ですが
甲斐さんとは「定期的に現状報告をし合う」間柄だそうで
我が家の資料にも「ロング・インタビュー」が数本あります
その内の1本は「かさぶた」に掲載されていて
最後のページに「この人のファンキーなエピソードをひとつ」と甲斐さん
残間さんがフリーになられたばかりの頃、在籍されていた女性誌の依頼で
ある芸能人の方のマンションに「張り込み」中
救急車が横付けになり「パジャマ姿の男がタンカに乗せられて
マンションから担ぎ出されて来たらしい」
「心臓を押さえたその男は、よく見るとどうも見覚えがある
あれ…その男は私である(笑)
彼女は愕然として、声をかけようかどうか…迷ってる内に
救急車はサイレンと共に立ち去った」と書かれてるんだけど
残間さんの…というより、甲斐さんのエピソードのような気が…?(笑)
しかも「ファンキー」って…(汗)
ちなみに、残間さんが「つきとめようとした芸能人は
もちろん私ではないよ(笑)
元世界的テクノバンドのTさんか
デザイナーのYか、そのあたりであろう」と…(笑)
同じマンションにお住まいだったんでしょうね(笑)
ともあれ、機関紙によると…
残間里江子の「コトバ」は的確だ
「コトバ」を選んで話している風は、まるでないのに
彼女の口から放たれる「コトバ」は見事に無駄がなく、かつ的確なのだ
街に氾濫している、上滑りの「コトバ」や
思い付きの「イケン」は、もう沢山だ
どんなに些細なことでも、自分の「コトバ」で
自分の「イケン」を構築しなければ「コトバ」は生まれて来ない
自分自身の情況を、自分の「コトバ」で語れる者こそ「ビートニク」だ
20歳の残間里江子は思った
これからは必ず「シャベリ」の文化がやって来ると…
「母が東北訛りの関西弁、父がズーズー弁」なので
話し方を矯正すべく、学生時代から「アナウンス・アカデミー」に通われ
卒業後、静岡放送へ入社されたものの
「女は家庭へ、仕事はコシカケという言葉が
まだキチンと現実にあった時代ですから」とご両親の引越しを機に退社
「人に会うのが恐くなるのだけは困る」と
1日に必ず10人の人に会って話をするということをご自身に課され
毎日8時45分の電車に乗って、知人を、知人の会った人を
知人の知人の知り合いを訪ね歩かれたという
「仕事でもなければ、気の置けない友達との茶飲み話でもない」
日課をこなされてる内に「女性自身」の記者の方から
放送局の方の座談会のコーディネートをする仕事に誘われ
それだけでは「限られた枠の中でしか人に出会えない」と
同時に文化放送の「道路交通情報センター」のアナウンサーも務められ
さらに、ヤマハの世界歌謡祭やポプコンなどの企画制作も…(汗)
しかし「週刊誌のペースで仕事をしていると自分がすり減っちゃう
映画やコンサートを観たり、美術展に行ったりした方が
良い仕事が出来ると判っていながら、あまり行けないから」と生活を一新
旅行したり、観たいものを観に行ったりするために必要な資金を確保する
ギリギリまで仕事をセーブなさったんだとか…
その頃にアリスや海援隊が所属するヤング・ジャパンから
定期刊行物に関するオファーがあり
「彼らの音楽、それ自体よりも
それを取り巻く社会情況に興味があって」
「音楽評論家のチョウチン記事を一切廃し
音楽情況を社会学の方面から捉えた」異色の音楽誌を発刊
その編集部を母体に出版物やイベントの企画制作を行う会社を設立
この会社の初仕事が「蒼い時」のプロデュースだったそうですが
「取材で2〜3度、話した程度」という残間さんに
山口百恵さんが出版の全てを託されたのは
「最初から出版社を決めずに」拘束されることを回避し
「彼女が書くことと、私が出版社の人達と話すことを同時進行」になさって
「良いものが出来たら出そうと話していた」からでしょうね
その後、数々の企画制作を手掛けられる中で「甲斐よしひろと出会い」
「まだ、2〜3度話したことしかありませんけど、実に清々しい人ですね
今は圧倒的に女性の方が面白いと思うんですが
甲斐よしひろは話していて、本当に話しがいがあります」と残間さん
後に「ある一定の周期を置いて会いたいと思う人がいる
何度も重ねて会うよりは間隔を開けて刺激し合いたい人
ふとした拍子にどうしているのだろうと気になり
気になった途端、無性に会いたくなる人
私にとって、甲斐よしひろはそんな人である」
「彼が[今]をどう感じ、どう自分の中に取り入れているのか
物事のどこにYESマークを出し
どこにNOマークを出しているのか
私が密かに作った自分流のリトマス試験紙で
試してみたくなるのである」とおっしゃってるんだけど
初めて甲斐さんにお会いになった時には
「一見すると、いかにも気難しそうで苦手なタイプ」と思われたらしい(笑)
でも「ひとたび口を開くや、すっかり意気投合してしまい(笑)」
1年ぶりという「現状報告」兼インタビューでは
「正味11時間、テープが止まってからも
彼は熱い口調で話し続けていた」そうです(笑)
「かさぶた」に掲載されている記事も
残間さんが、甲斐バンドのツアー先だった名古屋まで出向かれ
甲斐さんにお会いになった後、ライブとその打ち上げを挟んで
深夜1時から本格的にインタビュー開始
お店が閉店して行くたびに、次々と河岸を変えられ
甲斐さんが、午前8時過ぎの新幹線で帰京されるまで
延々と語り合われたようです(笑)
残間さんもアクティブな方だと思うけど
このインタビューの前日、レコーディングで一睡もせずに
三重県でのライブ&打ち上げ
その後、移動の車中で仮眠を取られ、またライブ&打ち上げ
…で、「報告会(笑)」を終えられ、また東京でレコーディング…って
甲斐さん、恐るべき体力ですよね(笑)
いわゆる「ファンクラブ甲斐報」ではなく
購読料を支払えば誰もが入手できるものだったそうですが
その分、甲斐バンドへのインタビューやコメント等
直接メンバーの皆さんが登場される機会が少なく
ある意味、独立した「読み物」であり
甲斐さんが目を通されてはおられたでしょうけど
おそらく?編集作業自体には「ノータッチ」でいらしたんじゃないかと…
もちろん、根底にあるコンセプトは「甲斐バンド」で(笑)
佐藤剛さんを始め身近な方々が、執筆、発行されたものですから
行間には「メッセージ」が溢れてますよね
例えば、1982年2月号の表紙のコラムには
「世は今[情報文化]だ」との書き出しで
容易く情報が手に入るようになったことによって
「自分の知りたいと思うものを考える間もなく
情報に溺れてはいないだろうか
知らなければ咎めだてられる、それは時代のせいだけではないだろう」
「[便利]になった。それを善とするか悪とするかは
利用するものの腕次第だ」と記されていて
当時の甲斐さんがサンストで「今は情報が溢れてるから
その中から必要なものを選び取らないといけない」とおっしゃっていたことを
補足、解説する文章が載っています
そして、この号の「PEOPLE」欄には
出版プロデューサー・残間里江子さんへのインタビューが…♪
山口百恵さんの「蒼い時」の出版を手掛けられた方ですが
甲斐さんとは「定期的に現状報告をし合う」間柄だそうで
我が家の資料にも「ロング・インタビュー」が数本あります
その内の1本は「かさぶた」に掲載されていて
最後のページに「この人のファンキーなエピソードをひとつ」と甲斐さん
残間さんがフリーになられたばかりの頃、在籍されていた女性誌の依頼で
ある芸能人の方のマンションに「張り込み」中
救急車が横付けになり「パジャマ姿の男がタンカに乗せられて
マンションから担ぎ出されて来たらしい」
「心臓を押さえたその男は、よく見るとどうも見覚えがある
あれ…その男は私である(笑)
彼女は愕然として、声をかけようかどうか…迷ってる内に
救急車はサイレンと共に立ち去った」と書かれてるんだけど
残間さんの…というより、甲斐さんのエピソードのような気が…?(笑)
しかも「ファンキー」って…(汗)
ちなみに、残間さんが「つきとめようとした芸能人は
もちろん私ではないよ(笑)
元世界的テクノバンドのTさんか
デザイナーのYか、そのあたりであろう」と…(笑)
同じマンションにお住まいだったんでしょうね(笑)
ともあれ、機関紙によると…
残間里江子の「コトバ」は的確だ
「コトバ」を選んで話している風は、まるでないのに
彼女の口から放たれる「コトバ」は見事に無駄がなく、かつ的確なのだ
街に氾濫している、上滑りの「コトバ」や
思い付きの「イケン」は、もう沢山だ
どんなに些細なことでも、自分の「コトバ」で
自分の「イケン」を構築しなければ「コトバ」は生まれて来ない
自分自身の情況を、自分の「コトバ」で語れる者こそ「ビートニク」だ
20歳の残間里江子は思った
これからは必ず「シャベリ」の文化がやって来ると…
「母が東北訛りの関西弁、父がズーズー弁」なので
話し方を矯正すべく、学生時代から「アナウンス・アカデミー」に通われ
卒業後、静岡放送へ入社されたものの
「女は家庭へ、仕事はコシカケという言葉が
まだキチンと現実にあった時代ですから」とご両親の引越しを機に退社
「人に会うのが恐くなるのだけは困る」と
1日に必ず10人の人に会って話をするということをご自身に課され
毎日8時45分の電車に乗って、知人を、知人の会った人を
知人の知人の知り合いを訪ね歩かれたという
「仕事でもなければ、気の置けない友達との茶飲み話でもない」
日課をこなされてる内に「女性自身」の記者の方から
放送局の方の座談会のコーディネートをする仕事に誘われ
それだけでは「限られた枠の中でしか人に出会えない」と
同時に文化放送の「道路交通情報センター」のアナウンサーも務められ
さらに、ヤマハの世界歌謡祭やポプコンなどの企画制作も…(汗)
しかし「週刊誌のペースで仕事をしていると自分がすり減っちゃう
映画やコンサートを観たり、美術展に行ったりした方が
良い仕事が出来ると判っていながら、あまり行けないから」と生活を一新
旅行したり、観たいものを観に行ったりするために必要な資金を確保する
ギリギリまで仕事をセーブなさったんだとか…
その頃にアリスや海援隊が所属するヤング・ジャパンから
定期刊行物に関するオファーがあり
「彼らの音楽、それ自体よりも
それを取り巻く社会情況に興味があって」
「音楽評論家のチョウチン記事を一切廃し
音楽情況を社会学の方面から捉えた」異色の音楽誌を発刊
その編集部を母体に出版物やイベントの企画制作を行う会社を設立
この会社の初仕事が「蒼い時」のプロデュースだったそうですが
「取材で2〜3度、話した程度」という残間さんに
山口百恵さんが出版の全てを託されたのは
「最初から出版社を決めずに」拘束されることを回避し
「彼女が書くことと、私が出版社の人達と話すことを同時進行」になさって
「良いものが出来たら出そうと話していた」からでしょうね
その後、数々の企画制作を手掛けられる中で「甲斐よしひろと出会い」
「まだ、2〜3度話したことしかありませんけど、実に清々しい人ですね
今は圧倒的に女性の方が面白いと思うんですが
甲斐よしひろは話していて、本当に話しがいがあります」と残間さん
後に「ある一定の周期を置いて会いたいと思う人がいる
何度も重ねて会うよりは間隔を開けて刺激し合いたい人
ふとした拍子にどうしているのだろうと気になり
気になった途端、無性に会いたくなる人
私にとって、甲斐よしひろはそんな人である」
「彼が[今]をどう感じ、どう自分の中に取り入れているのか
物事のどこにYESマークを出し
どこにNOマークを出しているのか
私が密かに作った自分流のリトマス試験紙で
試してみたくなるのである」とおっしゃってるんだけど
初めて甲斐さんにお会いになった時には
「一見すると、いかにも気難しそうで苦手なタイプ」と思われたらしい(笑)
でも「ひとたび口を開くや、すっかり意気投合してしまい(笑)」
1年ぶりという「現状報告」兼インタビューでは
「正味11時間、テープが止まってからも
彼は熱い口調で話し続けていた」そうです(笑)
「かさぶた」に掲載されている記事も
残間さんが、甲斐バンドのツアー先だった名古屋まで出向かれ
甲斐さんにお会いになった後、ライブとその打ち上げを挟んで
深夜1時から本格的にインタビュー開始
お店が閉店して行くたびに、次々と河岸を変えられ
甲斐さんが、午前8時過ぎの新幹線で帰京されるまで
延々と語り合われたようです(笑)
残間さんもアクティブな方だと思うけど
このインタビューの前日、レコーディングで一睡もせずに
三重県でのライブ&打ち上げ
その後、移動の車中で仮眠を取られ、またライブ&打ち上げ
…で、「報告会(笑)」を終えられ、また東京でレコーディング…って
甲斐さん、恐るべき体力ですよね(笑)