ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

甲斐バンドツアー&リリースのプロモーション7

2024-10-15 15:11:00 | メディア
「ハイ、甲斐バンド50周年アニバーサリーライブハウスツアーもあるということなんですけども
これ、50周年だから、今回これも始まって…(『そう!』と甲斐さん)…他にもナンか?…」
…という富沢さんの振りに、かなり食い気味に(笑)
「来年、まっ、来年、ホールツアーがあります」
…と、甲斐バンドフリークの皆さまは、もうご存知の展開を発表されると

富沢さんが「あっ、そうだね」と頷かれたトコで
「その挙げ句、ちょっとデカいトコでくくるみたいな…ハイ」と
こちらは、フリークの皆さまの希望的観測通り?(笑)のご発言も飛び出しましたが
この流れは、それこそ「5年前」のアニバーサリーイヤーと同じ流れで
問題は、その「デカいトコ」が、どこか?ですよね?

奥さんは「THE BIG GIG AGAIN」が開催された時から
ずーっと「花園ラグビー場AGAIN」…それも、例の暴動で差し替えられる前の
本来、予定されていたセットリストでの再演を、切に願っております(笑)
まあ、花園側は、二度と貸してはくれないかも知れないけど(苦笑)
「THE BIG GIG AGAIN」も、場所は変わったことですし
どこか「花園」を彷彿させるような会場があれば、実現可能なような気が…?(笑)

それはともかく…
「だって、ライブハウスで、こんだけだと観れない人の方が多くなっちゃうよ?」と富沢さん
「まあ、そうですね」という甲斐さんのお返事に
「…ということは、来年は、じゃあ、ホールでやって…で、デカいトコで締めくくると…
(『ハイ、そうです』と甲斐さん)

甲斐バンドも、いっぱいイベントやってるからなあ…花園ラグビー場、箱根…
(『箱根→花園ラグビー場』と甲斐さんの訂正が入るも(笑))
イヤ、で、ねぇ、私は行ってる…全部観てますね」と、プチ自慢AGAIN(笑)
でも、甲斐さんは「今、都庁が建ってるトコで、3万5千くらい集めてたもんね…(『ねぇ、ホントに…』)

その挙げ句、GLAYが破るまでずっと、都心で誰もやってないんだもんね
(『そうだね、言われてみれば…』)…そうだよ
神宮球場とか、後楽園とか使うしかないじゃないですか?ね?
(『でも、飽きちゃうからね、アレ…』)…そう!そう!そう!
(『ちゃんとやらないとダメだもんね』)

実は、当時、マスコミから追われてて、あの近くのホテルに、ずっと住んでたんですよ
そこの角部屋だったんで…それ、23階なんですけど、そこから毎日見てたんですよ
『あの空き地…これ、ナンで使わないのかなあ?』って…(『あっ、それでイッたんだ?』)

そう!そう!そう!それでも、実現するまでに、1年以上かかってるからね
お役所仕事で、イベンター、ずっと泣いてました、ハイ
だから、ワケアリはワケアリで、苦い思いが苦い思いで、イイことにも繋がるんですよね
ずっと…ずーっと見てましたから、その空き地、僕…」と話されてましたが

奥さんは、最初、前のご結婚の際の「家を出て、ホテル暮らしを始めた」頃のことかと思ったものの
「THE BIG GIG」が開催された時には、もう再婚なさっていたことから
「ボニー&クライドみたいに逃げて」いらした時かと思い直したあと
「1年以上かかってる」という甲斐さんの一言に

「あっ!BIG GIGは、花園より先に企画されてたんだった!」ということを思い出し…って
花園ライブは「野外イベント」というよりも、大阪の観客動員数が増えて
それまで使用していた会場では収まり切れなくなったため、広い会場を探そうとした際に
甲斐さんの「ロックは格闘技だ」という言葉が重なって実現したらしい

更に「ワケアリ」や「苦い思い」とのワードから
やはり、離婚を正式発表なさる前の「ホテル暮らし」だと確信した模様…って
考えてみれば、その「発表前」には、箱根ライブを行われていて
「薬指にリングを着けているのがツラかった」と、おっしゃっていたそうですし
「公私共に大変だった時期」が「イイことにも繋がる」という言葉にジンとしてしまいました

それはさておき…この甲斐さんのお話に、富沢さんが「でも、アレですよね、我々は、表しか見てないけれどもね
裏には隠れたドラマがあるということですよね」と、おっしゃると
甲斐さんは「そうですね、ハイ…あっ、ありがとうございます、まとめて頂いて…(笑)
今日、ちゃんと仕事した感じでしたね、今ね」と返され(笑)

富沢さんが「イイ感じですかね?…(『イイ感じです』と甲斐さん)…まだまだありますよ
…で、今回ですね、驚いたのは、ボーナストラックで付いてるんですけれども
このデモテープとかね、ライブ音源とかって…」と、更に「お仕事」に励まれたトコで(笑)

甲斐さんは「ああ、でも、デモテープとか、いっぱい…(『いっぱい入ってる』と富沢さん)
いっぱい入ってます!あのー、デビュー前…デビューの1年前に録った…
レコード会社に送るために録った音源が、3曲入ってるんです
『アップルパイ』とか『魔女の季節』とかね

(『そう!それで、すごくやっぱりね、素晴らしいんですけども、よくこれ出しましたね』)
見つかったんですよ!…(『ビックリした!』)
1年…1年半くらい前に、ドラムの松藤と話してたら『ああ、俺、あるよ』って『お前、出せ!早く!』って…
でも、そのレコーディングは、松藤、いないんですよ…(『えっ!?いないの?』)

当時、『ジェフ』っていうバンドのリードギターが、エンジニアしてくれたんですよ
…で、それが、ナンか判んないけど、松藤と仲良かったんで
ナンか送ってくれてたらしいんですよね、いつか使えると思って…

まさか、50年目で使えるとは思わなかったですけど…」と説明なさったものの
デビューアルバム「らいむらいと」に収録された「アップルパイ」より
このデモテープのバージョンの方が良かった…という話は出されませんでした

富沢さんは「ホントにこれはね、お宝音源って感じですよね
CDボーナスディスクっていうことなんで
1曲目が『HERO~ヒーローになる時、それは今』のCMバージョンから始まって
『バス通り(アナザーテイク)』、『恋しぐれ(ライブ1977)』…ズラズラズラ~と行きまして

16曲目『破れたハートを売り物に(ライブ in 石巻)』…
これ聴いた時には、ホントに『ボーナストラックだな』と思いましたよ…(『うん、そうですね』と甲斐さん)
…で、これ、よく思い切って、音源出しましたよ」と驚かれてましたが

甲斐さんは「イヤ、そういうのがないと、50周年BOX SETですからね
そういうのがないと面白くないじゃないですか?だから『よくぞ見つかったな』と…
それで、新聞に載ったんですよ、スポーツ紙にバーン!ってデッカい…
まあ、レコード会社の働きのおかげでね、ドーン!と載ったんだけど

…で、それを…記事を見たヤツが…昔、甲斐バンドにいた、ベースの長岡さんとか(から)
『俺もいっぱい持ってるよ』とか…『遅いよ!もう!』って…
遅いよね?もうこれ、決まってんだから、その時…記事出てたからね」と返され

「ああ、なるほどなるほど、なるほどね…で、それ、長岡さん持ってるヤツは…」という富沢の質問に
「長岡さん持ってるヤツは、長岡さんの故郷でやった…(長崎県)大村のライブテイク…らしい
…で、送って来たけど、まだ聴いてないな…聴けよ!聴けよ!(笑)」と笑っておられましたが(笑)

奥さんは、その直後に富沢さんがおっしゃった…
「じゃあ、55(周)年で入れればいいじゃない」との言葉に大きく頷き(笑)…って
長岡さんのラジオ番組では「きんぽうげ」と「ポップコーンをほおばって」だけがメドレーで…
それも、フルサイズでは流せないとのことだったので、ガチで期待してるみたいです(笑)

また、甲斐さんが「頑張ってやります!ありがとうございます
道で、つまずかなかったら、55年できると思います(笑)」と
冒頭の富沢さんのお話に引っかけて、冗談ぽくではあったとはいえ
まだまだ、現役で歌い続けるおつもりでいらっしゃるらしい言葉が聴けて、嬉しそうにしておりました
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甲斐バンドツアー&リリースのプロモーション6

2024-10-14 15:02:00 | メディア
「イタリア系とは、すごい仲良くなる」甲斐さんの話のあと…
富沢さんが「今、ちょっと思い出してね、その辺の話をちょこっと聴きながら
当時は、私もね、判んなかったね、正直言って…」
…と「ニューヨーク三部作」の辺りの甲斐バンドの音楽について話し出されると
「判る!判る!あの…俺も説明するんだけど、判って貰えなかったもん」と甲斐さん(苦笑)

富沢さんが「でも、その前の方は『甲斐くんの歌を説明しろ』って言われたら出来たね
ところが『破れたハートを売り物に』以降…『ブルー』…」と言いよどまれたトコで
「『ブルーレター』とかね」とフォローされ
「『ブルーレター』はね、あの時と、ちょっと違う…」という富沢さんの言葉にカブセるように
「イヤ、だから、基本的には、音聴くとあからさまに違うんですよね」とおっしゃって

「そうそうそう!今、聴いてみて『なるほどなあ!』っていうね
あの頃、たぶん、ちんぷんかんぷんだからね、全然判んないでね」との言葉には
「でもねぇ、日本の音楽ジャーナリズムは大変でしたよ
僕、だって、28(歳)くらいから、ジムに行き出したんですよ、フィットネスクラブとか言う…

当時、そんなにないじゃないですか?ホテルしかない…ホテルにフィットネスクラブあって
それ、行くじゃない?…で、取材する時、まっ『今、ジムに行って、体鍛えてんだよね』って言うと
そこは、全部カットされるんですよ…(『ナンで?』と富沢さん)
イヤ、だから、ロックミュージシャンは、不良性と…(『ああ』)…イイ…イイお尻があれば…
キュートなお尻があればOK!っていう…(『なるほど!なるほど!』)

そんな…『体なんか鍛えんな!鍛えたら困る!』って、それ全部カットされるんですよ(笑)
(『ホントに!?』)…イヤ!イヤ!富沢さんもカットしてたと思うよ、俺…(笑)
(『イヤ、俺は、たぶんしてないと思うよ』)」
…と、「えっ!?そっち!?」って方向に、話を持って行かれてましたが(笑)

富沢さんが「イヤ、でも、今だから正直に言った時にね
さっきの『サウンド』とかって言われた時に、よく判ってないんで、書きようがないんですよね
その前だと、(歌)詞を持って来て説明も出来るし
取材さして貰ってればね、甲斐さんのコメント入れながら、上手くまとまって行くんだけども
こと『サウンド』となって来るとさ、なかなか説明しにくい…」と明かされると

「でも、僕は、こういう風に言ってたんですけど
(ここで、バックが『ナイト・ウェイヴ』から『破れたハートを売り物に』に変わり)
まっ、なかなか、みんな上手く書いてくれない感じでしたね」と振り返られ
ちょうど「破れたハートを売り物に」の歌詞の部分が始まって
そのまま、大サビ前の間奏に差し掛かる辺りまで流れたあと

富沢さんは「お送りしたのは…」という曲紹介ではなく
「ただ、今ね、正直な話、あの当時の音ね、聴いてみた時に
『それまで甲斐バンド』って言われたら、説明しにくい訳よ
でも、そうかと言って『判んない』とは言えないじゃない?(笑)…ただ『それはムリ!』っていうね

我々は、ほら、フォークの出なんで…(『フォーク(笑)…「フォークの出」は面白いですね』と甲斐さん)
でも、あの…言葉から入って来るから、フォークロック系ではないわけ
ところが、甲斐バンドがね『ブルーレター』とか出して来ると
俺が言うと『サウンド志向』になるのね
でも『サウンド志向』は何か?っていうと、これ、説明しにくい

そこへ出て来た洋楽系の人達は、今と逆に言うと、それまではそうでもなかったんだけど
今度は『甲斐バンド』『甲斐バンド』言い出して行くっていうね、感じだから
すごく変わり続けて行く…みたいな…」と、おそらく?奥さん達オールドファンが
初めて、アルバム「虜」を聴いた時に感じた、良くも悪くも「これまでと違う音」というか
自分の中の「甲斐バンドの音楽像」みたいなものが変化した戸惑いと、同種の感覚を覚えられたんじゃないかと…?

ともあれ…甲斐さんは「だから、シンコーミュージックって楽でしたよ
だって、チューリップが、ああいうサウンドで売れてくれてる訳じゃない?
わりと、スタジオ自由に使わせてくれたんですよ、やりたい放題…
(『そうだね、シンコーはナンかサウンドに強くて、お金かけてやってくれたじゃない』と富沢さん)

そう!そう!そう!だから、そこでスタジオ(作業)を覚えたんだよね
僕ら、ヒドイもん、3枚目の『ガラスの動物園』って(アルバムは)600時間くらい使ってる
(『それ、ムッチャ多い!』)…そう!『いい加減にしろ!』って、上から当然言われるし…
まっ、それで、次の『この夜にさよなら』ってアルバムね、80時間で作ったんですよ…(『ほおー!』)
『やれば出来るじゃないか!』…『そう…そうですね』

イヤ、でも、600時間使って覚えたから、80時間で…
(『だって、あの頃ね、1時間で3万から5万するからね』)…イヤ、スゴイよ…(『ねぇ』)
それを、東芝の1スタをずっと押さえてて、ヒドイよねぇ
…で、ミカバンドが『どうしても使いたい』って言ってます
…って押されて(笑)ミカバンドに開けたりしたの(笑)

(『ああ、でも、ミカバンドは、何回も一緒に使ってたからね』)…そう!そう!そう!
(『まあ、そういう良い時代だったっていうことで、まあ、色んなことでやったっていうことでしょうね』)」
…と、かつてのおおらかなレコーディング風景に触れておられましたが(笑)

以前に長岡さんも、ご自身のラジオ番組で…アルバム「この夜にさよなら」のレコーディング中
プロデューサーとマネージャーが、屋根の上でサンオイルを塗って、日向ぼっこをなさってたとか
スタジオには、ちょっと顔を出されるだけで、自由にやらせてもらったと、おっしゃってましたよね?(笑)

それはともかく…「ハイ、ということでですね
話の流れとしてはね、この曲をかけざるを得ないでしょう!」と富沢さん
「…ということですけども…『ブルーレター』なんですが
これは、アレですよね、アナログでも出てる?」と振られると

甲斐さんは「あっ、そうなんですよ、これ、あの…さっき言ったみたいに
CD3枚とアナログ2枚(のBOX)…そのアナログ音源から聴いて貰おうと…
(ここで「ブルーレター」のイントロが流れ始め)…なかなか、これも重厚でイイ…」と話され
…って、いつもテッド・ジャンセンの名前に力を入れて話をなさってますが
アナログカッティングは、ライアン・スミスの担当なんですよね?(笑)

ともあれ…「そうですよね…で、当時でもね、ピカイチの音だったんだけれども
それを…ピカイチが、それをもっと良くなったって、ナンとも…聴いて貰うしかないですね
それでは『ブルーレター』を聴いて下さい」と富沢さん

ちょうど、甲斐さんの歌が始まるところから、間奏までを流され
「お送りしたのは、甲斐バンドデビュー50周年記念BOXから『ブルーレター』
アナログでしたけれどもね、音もやっぱりね、奥行きも良いし、幅も広いし…ということですかね
これ、聴いて貰ったらいいかなって感じですね、しっかりね…(『そうですね』と甲斐さん)

…と評されたあと「ハイ、それからね、甲斐バンド50周年アニバーサリー
ライブハウスツアーもあるということなんですけれども『Circus & Circus 2024』
10月の26日、広島から、これ、スタートということですかね?…(『ハイ』)

…で、27日が香川、11月4日が北海道、愛知、福岡、大阪…で
12月1日日曜日は、東京・Zepp HANEDA、それから静岡へ行って、宮城に行って
12月29日は神奈川の川崎CLUB CITTAなんですけどもね
これ、ライブハウスツアー…これ、どんな内容になるんですかね?」とお訊ねになると

甲斐さんは「あのね、5年ぶりなんですよ、僕ら
実はライブハウスをそれほどやってないまんま
すぐホール…(『…に行っちゃいました』と富沢さん)…行っちゃったんで…
だから、まっ、あのー、まっ、やろうと、5年前に1回やったんですけど…
ライブハウスって言っても、結局、Zeppとかね、みんな、1500から2000(人収容)くらいの小屋から
あと、浜松の『窓枠』っていう…(『500くらいのトコ』)…うん、そこ(会場選び)は幅広いんですけど

基本的に、僕ら、ライブバンドなんで、甲斐バンドは…
だから、ライブバンドのアイデンティティーを明快に打ち出すためには
やっぱり、ライブハウスが良いだろう…まっ、その出発点でもあるし…
まあ、そういうことで、まっ、ぜひ熱く楽しんで頂きたいなということなんですけど…

ライブハウスって言っても、まっ、僕ら、最初の方に『ルイード』ちょっとやって
あと『ジァンジァン』…(『あっ、ジァンジァンね』)…うん、ジァンジァン何回かやったくらいなんで…
ジァンジァンって、山手教会の敷地がね、あの地下にあったんだよね
あそこ、オーディションあるんですよ、実はキビシイのね、やっぱり…

『裏切りの街角』が売れた直後だったんで…だから、オーディションなくて
『いいですよ』って言われて『おお、ラッキーだなあ』って…
ジァンジァン、絶対やりたいと思ってたからね
デビューの頃に、高橋竹山、観に行ったことあるんですよ…(『津軽三味線の…』)…うん『スゲーなあ!』と思って…
(『格調高かったですよ』)…そうです!そうです!ジァンジァン、当時はね

だから、ルイードを何回かと、ジァンジァン何回かやったあと、すぐホールに行ったんで…
まっ、そういう意味で、出発点って言えば、出発点なんですけど…
(『そういえば、すぐサンプラとか、やってたもんね』)
そうなんですよ、考えたら贅沢だよねぇ…(『いきなり、だって、大ホールになっちゃうんだもんね』)

今、いきなり武道館になってるようなもんですか?…(『そうだね』)
やっぱね、いきなり武道館は良くないからね…(『やっぱり段階踏んでね』)…そう、段階踏まないと…
(『ライブハウス…ハコやってから、小・中・大(ホール)、日比谷野音…』)
それで、あの…スケール上げて行きながら、打ち上げのそのスケールも上げないと、ねぇ?

最初は、居酒屋から始まっていいけどさ…(『やっぱり、地力がないと、やっぱりね』)
そうなんですよ…(『いきなり行ったら、やっぱり…』)…ナンか、ムリですよ、ねぇ?
いきなり行っていいのは、AdoとVaundyだけですよね(笑)」…と笑っておられましたが
「照和」に出演なさっていた頃には、ライブハウスとホールの二刀流でいらしたんですよね?(笑)

もっとも、奥さんは「ジァンジァン」の名前が出た時から
当時、地方在住の少女には、あまりに遠かったその場所に
ん十年の時を経て、足を踏み入れるきっかけとなったのが
ビルボードツアーメンバーの木村将之さんが出演されるライブだったことに、感慨を深くしておりましたけど…(笑)
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甲斐バンドツアー&リリースのプロモーション5

2024-10-12 14:08:00 | メディア
甲斐さんがゲストの「60分」の前半が終了し、CMを挟んで、後半がスタート♪
「今夜の『Age Free Music ミュージックトーク』は、今年デビュー50周年を迎えた
甲斐バンドの甲斐よしひろさんをゲストにお迎えしています
後半もよろしくお願いしたいと思いますけども…(『ハイ』と甲斐さん)

50周年記念BOXなんですけれども、とにかくね
1回聴いて頂きたいな…っていうね?音が全然違う…」と振られて
「だから、まあ、50年…くらい、ずっとやってることで…まっ、ベスト盤はね、過去にありますけど
今、アナログ音源っていうことで、アナログも相当イイ音ですからね

イヤ、CDもね、もうムチャムチャ、音良くなってるんですよ、実際…
デジタルリマスターっていうのが、10年くらい前に入って来て…
だけど、まあ、音の質も違うし、50年分まとめるってのは、大事なことなんで
そういう感じで、ちょっとイイ音も含めて…あと、歴史も感じて貰いながら…

…で、あのー、曲って、聴いた瞬間…イントロ聴いた瞬間に
いきなり、バーッと引き戻されるのが、音楽じゃないですか?
だから、映画とか演劇とかっていうのは、やっぱり、パッと触れても
思い出すのにフィードバックして来ない…結構、時間かかる…
…で、音楽だけは、一瞬で(過去へ)行くじゃないですか?…(『あっ、そうだね』と富沢さん)

だから、それが音楽の良さなんで、まあ、そういうところも含めて
自分の中の、こう…ナンか、色んな思いとか、思い出とかも含めて、感じて貰いながら聴いて貰うとね
(『なるほどね』)…楽しいかなという感じですね」
…と、甲斐さんご自身が「音楽って、そういうものだからね」と思っておられることを
このアニバーサリーBOXを手にされた方にも感じて貰いたいと希望なさっているご様子でした

次に、富沢さんは「…で、あとね、甲斐バンドなんですけれども
最初は…まっ、デビューしてから、何枚も(アルバムを)出していて
音にもかなりね、こだわって、ちゃんとやって来たっていうんですか?
あの辺りってのは、当時で言うと、ほとんど(誰も)やってないようなことをやってる…」

…と、おそらく?CM中に「ニューヨーク三部作」の頃についての会話がおありだったとおぼしき?
ちょっと唐突な感じの切り出し方で話を振られ(笑)
バックに「ナイト・ウェイヴ」が流れ始めた中
甲斐さんも「そう、だから、あの…僕ら、80年の終わりにニューヨークに行ったんですよ

結局、日本のスタジオとニューヨークとかって、これ、何が違うか?って言うと
エコールームって言って、エコーのための部屋っていうのが設置されてるんですよ
…で、日本って、そういうエコールームって、ないんですよ
だから、どうするか?と言うと、鉄板エコーって言って、機械でリバーブを作るっていうことになるんですけど…

確かに、向こうのエンジニア、すごく上手いんですけど
日本も上手い人、やっぱいるんですよ、実は…だけど、最終的にバランス取った時に…
最後に、そのエコールームのホルダー、パーッと開けるじゃないですか?
トンでもなく、魔法のように変わるんですよ

だから、やっぱり、そういう部分が、日本はないから…NHKだけなんですよ
NHKホールのところだけ隣接…まっ、NHKのスタジオ、全部使えるんですけども、そのエコーがね
だから、僕らは、そのエコーを求めて、ニューヨークに行って…

…で、パワーステーションスタジオっていう所で、まっ、ボブ・クリアマウンテンって言って
当時、ストーンズとか、ロキシー・ミュージックとか、スプリングスティーンとか
果ては『Let's Dance』のデヴィッド・ボウイまで(手掛けた)…
とにかく、80年代の一番代表的なエンジニアなんですね

その彼とやろうと…で、『破れたハートを売り物に』っていうデモテープを送ったんですよ
そしたらもう、すぐ返事が来て…『やっていい』って…
…で、まあ、パワーステーションスタジオっていうのは、そのボブ・クリアマウンテンと
ニール・ドーフスマンっていうのと、あと、ボン・ジョヴィのファースト(アルバム)やって
グラミー(賞)を獲ったエンジニアがいるんですけど、その3人で作ったんです、最初…

もちろん、その…オーナーはいるんですよ
それは、ジョン・ボン・ジョヴィのおじさん…ボン・ジョヴィ家…イタリア系…
そのボン・ジョヴィ家がオーナーで…だから、僕が行って、2年目の頃に
スタジオで掃除してるヤツがいて(笑)学生っぽいヤツが…
…で、『何やってんの?』って言ったら…『あ、僕、バンドやってます』って言って
それが、ジョン・ボン・ジョヴィなんですよ

だ…だから、ボン・ジョヴィ家のスタジオなんで
ジョン・ボン・ジョヴィは、掃除の手伝いを…(『してたんだ?』と富沢さん)
してました!してました!それが、3年後に、あっという間にもう…2年か?
もう、その時、結構イイ感じだったらしいんだけど、本人は食えないからね

だから、まっ、そういうすごく80年代のモデルケースになったくらいの、すごいスタジオですね
まあ、よくそこに潜り込めたなと…だから、ボブ・クリアマウンテンの…
世界中みんなやってる訳だから、アーティストが…
僕、じゅう…11番目だったんですよ、甲斐バンドは11番目で
僕らのあとが、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースで…(『へえー!順番待ちしてる訳だ?』)

もう順番が、みんなあるんですよ、もう…だから、そういうローテーションで回していかなきゃいけない
だから、1年半後、2年後になるんですよ
だからもうアルバム作っといて、ミックスしたら
もう次のスタジオにすぐ入らないと…間に合いたいじゃないですか?
だから、そういう感じで…それでニューヨークに…
結局、ナンやカンやと10年、行ったり来たりしてましたけどね
イヤ、だから、そのシステムを作ったの、僕らです、ニューヨークのね」

…と、ニューヨークでの、ボブとのお仕事の進め方などについて話されてましたが
富沢さんが「…なるほどね…で、とにかくね、あの時代も取材をさして頂いてて
音も変わって来るじゃない?一緒にリズムも変わって来る訳だから、スタイルが変わるから
当然、それに伴って、音楽も変わって来るじゃない?…(『そう、当然!当然!』と甲斐さん)
だから、その辺だよね、その辺、甲斐バンドが…

…と、話をなさっている途中で、甲斐さんが
「だから、すでに、僕らが81年に(パワーステーションで)やり始めた時には
『SSL』って言って、コンピューターで動く卓が、もうあったんですよ、その時…
イヤ、ちょうど始めたんですよ、それはどういうことか?って言うと、記憶させられるんですよ
だから、一応やったことを記憶するんで、コンピューターが…

そうすると、もう1回やり直しの時に、ギザ…やり直す時って、フェーダーに印を書いてても
そんなピッタリいかないじゃないですか?でも、機械は戻してくれるんで…
『夜聴いてダメだったら、明日一番で、もう1回できるから電話ちょうだいね』っていう感じだったんで…
だから、その『SSL』っていう卓を初めて見て…しかも、デジタルの導入ですから
初めの方だからね『スゴイなあ!』って…

だけど、使ってるリバーブは、アナログリバーブなんですよ、機械じゃないんですよ、わざと…
何十年も前からのヤツをずーっと、みんなで残してて…
だから、ニール・ドーフスマンは、スティングとか
ダイアー・ストレイツとかで、グラミー(賞を)獲ったヤツなんですけど…

ボブ・クリアマウンテンと僕とニール・ドーフスマンは同級生なんですよ
しかも、2人ともイタリア系なんで、僕、イタリア系とは、すごい仲良くなるんですよ
ナンか判んないんですけど…それはナゼか?タコとイカを食べるから(笑)
でも、そういうの、あるよね?何食べるか?で国民性って…
だから、仲良かったこともあって、ずっと10年くらいね、まっ、行ったりしたんですけど…」

…と、話題を変えてしまわれたので(笑)富沢さんが、お話しになりたかったことは、また次回に…(笑)
ただ、最後の「イタリア系」云々に関して、以前に甲斐さんは
「福岡の人間が、短気で、スケベで、マザコンっていうのは、イタリア人と一緒だからね(笑)」
…と、おっしゃっていたような記憶が…?(笑)
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甲斐バンドツアー&リリースのプロモーション4

2024-10-10 15:05:00 | メディア
富沢さんのカットインはあったものの、そのあとも「バス通り」が流れ続ける中
「デビュー作ですね」と甲斐さん
富沢さんから「デビューのね…このあと『裏切りの街角』っていうのを出すけれども
『裏切りの街角』は、かなり(売上が)イッた?」と訊ねられて

「75万枚とか…一応…ナンかね、10ヶ月くらいに渡って、ずっとチャートインしてたから
ちょっとずつ…まっ、10ヶ月チャートインしてたら売れますよね」とお答えになってましたが

テレビへの出演をお辞めになり、ライブを始めとする「生演奏」が出来る場所を主戦場になさって
休み返上で、地道に活動を続けられたからこそのロングチャートインとなった訳でしょうし
「有線放送大賞新人賞」を受賞なさったことが、それを証明しているんじゃないかと…?

ともあれ…富沢さんが「そうだね…で、この時もね、取材さして貰って
甲斐さん、こんなこと言ってます…っていうこと…結構イイこと言ってんだよね」とおっしゃると
「ナンですか?(笑)」と甲斐さん

「本人前に『結構イイこと』ってのはない(笑)」という富沢さんの言葉に
「失礼だろ!(笑)本人は、いつだってイイこと言ってるつもりで喋ってんだから…」と返されてました(笑)

そのあと、富沢さんが「…で、特に、これはイイこと言ってんですよ、いいですか?」
…と、かつての取材で、甲斐さんがおっしゃったという言葉…
「デビュー曲は、そこそこイッてしまったので
『次はもっと良いものを…』とプレッシャーを感じたこともあるが
俺は、もっと良い状況が、もっと満足感が欲しかった

それと、俺の場合、納得できる言葉が見つからなければダメで
あの時は、なかなか納得できる言葉が見つからなくて、それで粘っていた
そしたら…『走る車の泥に叩かれ 見上げた時 街が泣いてた』っていう
気に入った言葉が生まれたんですよ」…を読み上げられると
甲斐さんは「それ、フレーズのことを言いたいのね?」と確認…って、ご自身の言葉ですよね?(笑)

(この辺りで、見計らったように「裏切りの街角」が流れ始め…)
富沢さんから「そうですね、これはね、結構、私の中で印象があるので
それ引っ張って、これ書いたと思うんだね…これはどうでしょうかね?」と訊ねられても
「『どうでしょうか?』って(笑)…イヤ、別に…もう、喋ったこと忘れてますからね
ものすごい前でしょ?これ…」と、つれないお返事…(苦笑)

ただ…「相当前ですよね、1975年くらいじゃないですか?」という富沢さんのお答えに
「ああー、まっ、やっぱり、ちっちゃい頃から洋楽、もうバリバリ…
ウチ、もうホントに洋楽どんどんかかってたんで、洋楽も聴いてたのと
同じ分量くらい、歌謡曲も聴いてたんですよ

サウンドもグッと来る…メロディでグッと来るけど
泣けるのはやっぱり、日本語の歌詞じゃないとダメじゃないですか?
だから、そこをずーっと狙ってたんですよね
だから『バス通り』でデビューした時に『ナンかイヤだな』と思ったのが
フォークバンドみたいに…当然だよ、あのサウンドだったら、そうなるんだけど…

でも…『あっ、そうか、このまま行くと「フォークバンド」って言われるんだ』と思ったんで
それで、半年くらい、間…ホントは、3ヶ月後にリリースしなきゃいけなかったんですけど
ちょっと待って貰って、それで『裏切りの街角』を書いたんですよね」
…と、甲斐バンドフリークの皆さまにはお馴染みのエピソードで返され

「確かに…こういうタッチだと、フォークバンドになっちゃうね」という富沢さんの合いの手には
「そう!そう!だから『裏切りの街角』売れてから、あんまりそういう感じの…
(フォークバンドと)いう感じでは、みんな言わなくなったんですよ
だから、ナンか得体が知れない…ちょっと…まっ、サウンドもちょっとあるし…みたいなね」
…と、意識的に「アーシー」なイメージを打ち出された話をなさってました

そして、更に富沢さんは…「で…『安奈』なんですけれども…
『安奈』もですね、すごくね、えー、この時も取材して書いてるんですけど…」
「かつての甲斐さんの言葉」の読み上げへ…

「夢のない人生なんてクズだ…と同時に、現実を見つめない人生もクズだ
俺は夢を実現するために、現実を乗り越える
ビッグになれば金が入る。それで食う。これが現実だ
俺は常に生き続ける。でないと、俺を信じてくれる奴らが
『やっぱり夢なんて持ってても生きられない』と思うから…
(彼らは、夢を実現するためにビッグになる道を選び『HERO』以降、ひたすら邁進した)」

…と読み終えられた途端に「それ、絶対盛ってますよ!」と甲斐さん(笑)
「絶対、そんな…言ってないと思う、俺…特に、その…金のことは…」と全否定(笑)
富沢さんが「でも、なかなか、こう…勝手に書いてる訳じゃないからね
だからね、話として、だいたい1時間、話をしてる訳だから、そん中で抜粋してる訳だからね」 

…と説明なさると「…ってか、僕の全体のトーンを、ある種、言葉に…更にしてるっていう…
(『そうだね』と富沢さん)…ね?まあ…まあ…
そのー、そこに呼応したり、共鳴したり…っていうことですね?…(『そうですよ』)…ハイ」
…って、ナゼか甲斐さんが、言葉を選んで説明なさって、富沢さんが鷹揚に頷くという図式に…(苦笑)

ここで『安奈』が流れ始め、2コーラス目が終わったトコで
富沢さんが「お送りしたのは、甲斐バンドで『安奈』でした…懐かしいな」と、おっしゃると
甲斐さんは「音、ムチャムチャ良いでしょ?…(『良いですよね』と富沢さん)…ねぇ?

さっきの『バス通り』もそうだったけど、これ、あの…『スターリング・サウンド』って言って
ナッシュビルにあるマスタリングスタジオの、テッド・ジャンセン…って
まあ、元々、ニューヨークにあった(スタジオな)んですけど…
(テッド・ジャンセンは)ビリー・ジョエルとか
そういうの、すごい…ずーっとやってる人なんですけど、今、ナッシュビルに行って…

…で、そのー、テッドは、1回(一緒に仕事を)やったことがあったんで…
もう、今、現役のマスタリングエンジニアで、一番イイんですよ、だからもう、頼んだら…

でも『「安奈」って、こんなに音イイの!?』って…
今まで…かつてない…『ちゃんと聴く気がする』っていうか、イイ音ですよね?」
…と、ご自身のラジオ番組で、この「安奈」を流された時と同様に熱く語っておられました(笑)

富沢さんが「…で、音源なんですけれども、名門スタジオ『スターリング・サウンド』の
テッド・ジャンセンがリマスターで、ライアン・スミスはアナログカッティングを担当したところ…」

…と紹介され始めると「そう!そう!今度…だから、アナログが2枚、CDが3枚
…で、そのCD3枚の内、1枚はアウトテイクっていうか、16曲くらいかな?
そういう感じの内容なんですよね」と御自らご説明(笑)

富沢さんが「50周年アニバーサリーBOX…こちらはですね
今回は、アナログとCDにしたじゃないですか?2枚と3枚っていうかね
これ、ご自身の中で、どういうものを作ろうと…こう…したんでしょうね?
ベストアルバムは結構、数も出てる…」という質問をなさると

「イヤ、基本的に、CD2枚のベストがあって、それと同じ内容が、アナログ盤で2枚付いて…
…で、もう1枚、CDは、アウトテイク集が付いてるってことですね
…で、あと、ブックレットが豪華仕様になってると…」とお答えになったのへ

「…っていうのが、50周年のアニバーサリーBOXの味だと思うんですけれど
音は素晴らしいな…っていうのは、特にね、特徴って感じがするんですけれども…」と、まとめられ(苦笑)
「…ということでですね『安奈』まで聴きましたけども、まだまだ聴き足らないと思うんですけれども
ここで1回、締めて、CMに行きたいと思います」

…と、どうやら前半戦が終了した模様でしたが
これまでのところ、それぞれの「当時」に、富沢さんが、甲斐さんに取材なさって
ご自身には印象的でいらした甲斐さんのお話を、熱量を持ってお書きになった記事が
当の甲斐さんにはハマらなかったというか(苦笑)
「喋ったこと忘れてますから」とか「絶対盛ってますよ」って言われてしまうという(汗)
富沢さんには、ちょっと残念な展開だったような気が…?(苦笑)
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甲斐バンドツアー&リリースのプロモーション3

2024-10-08 14:12:00 | メディア
さて、ようやく?本格的なプロモーションタイムが始まりそうな「軌道修正」を挟んで…
「まずですね、50周年ということで、色んなものが出て来たんですよね
私が昔、甲斐さんに出すために、取材させて頂いて、書いた文章のリストがあったんで
使えそうなヤツを持って来ましたんで…(笑)」と富沢さん

「…で『HERO』の時にですね、こんな風におっしゃったんですね
『今の日本のアーティストには、タフっぽいのっていないじゃない?
生きざまを熱く歌えるのは、俺たちしかいないんじゃない?

俺たちは、1年ほど前から…『今はどうあれ、それでも前に進まなければ
どうにもならないんじゃないか?』と思っていた
そのエッセンスが、1曲に凝縮されて、抽出したのが『HERO』だと思ってる…
(『うーん!』と甲斐さん)…ってなことをおっしゃってたんですが…?」と振られると

甲斐さんは「まあ、その…タフな人もいたとは思うんですけども
いかんせん、絶対数が少ないからね、ミュージシャンのね
まず、その…ニューミュージックも含めて、ロック…まっ、僕ら、ロックとか
…っていうことになってますけど、それ含めても、ナンか、絶対数少なかったもんね?」と返されてましたが

当時は「不確実性の時代」と呼ばれ、若者たちは「三無主義」で
「ニューファミリー」や「フィーリング」という、ふんわりしたワードが流行る中
どストレートに熱く、いわゆる「ナアナア」を嫌った発言や、こだわりを持った楽曲を発信する
…といったことは「理屈っぽい」との一言で片付けられたらしく(汗)

ツアーの合間のみならず、遠征先の会場でリハーサルを終えられたばかりの甲斐さんが
時間を割いて、相手にしっかりと伝わるよう、真摯に取材に応じられたにも関わらず
「生意気」だの「反逆児」だのと叩かれることも少なくなかったそうで(汗)
奥さんは「『甲斐さんらしい』っちゃ『らしい』んだけど…」と思いつつも
その記事をお書きになった方の名前を睨みつけていたんだとか…(苦笑)

ともあれ…富沢さんが「そうだね…それでですね『こんなことやるとはね』って話が出てんですけども…
『HERO』が、ベストテンのトップになった日
彼らは、アルバムのレコーディングで福岡のスタジオにいました
トップになったという知らせが入った時、レコーディングをいったん中止し
すぐにワインが取り寄せられ、乾杯が行われました

『屈辱のデビュー』から、4年余りの年月が流れていました
彼らは、不幸にも、ゲームの始まりに引いてしまったババをようやく捨て去り
エースに交換することが出来たのでした」…と読み上げられると
「それは、富沢さんが書いたんですよね?」と甲斐さん

富沢さんが「ハイ、俺が書いた…」と、お答えになるのへカブセて(笑)
「俺、『屈辱のデビュー』って、思ってないもん(笑)」と、おっしゃって
更に…「イヤ、普通…何かって言うとね…」という富沢さんの言葉を遮るように(苦笑)

「イヤ、僕、ナンでか?って言うと『デビュー作は当たらない方がいい』と思ってたわけ
デビュー作が当たると、ロクなことない…
たいてい、みんな、1発目で当たると、そのあと大変なことになってるじゃないですか?」
…と説明なさっているのへ、今度は富沢さんが

「なぜ、そう(いう文章に)なってるか?って言うと、アレですよね
デビューコンサートを神田共立講堂でやったじゃないですか?…(『ああー』と甲斐さん)
その時、私、もちろん観に行ってるんですけど
2千人のね…いっぱいになったわけ

ところが、チューリップがね、出て来て…(『そう、後半ね』)…うん、チューリップが出て来て
(『ああ、ありましたねぇ』)…チューリップ(の出番)が終わったらもう、みんな帰っちゃった…
(『まあ、でも、それはー、もう…』)…帰っちゃったんですよね

…で、その時に、これも取材してるんですけども…
『結果的に、甲斐バンドにとって、記念すべきデビューコンサートの現実というものを
否応なしにに知る薬となってしまった』
…ということで、甲斐さんは『本当に悔しかった!俺たちのコンサートだぜ!
俺たちは、たった100人でもいい、俺たち甲斐バンドを観に来てくれる客が欲しかったんだ!』…っていう

…と、当時のご自身の記事を読み上げておられましたが
「屈辱のデビューコンサート」に関して、富沢さんがお書きになった甲斐さんの言葉は
「俺たちにとっては、耐えられないくらい屈辱的なコンサートだったね」や
「泣けるものなら泣きたかったよ」といった言葉と共に
すべて、甲斐さんの著書「荒馬のように」に記されています(笑)

それはともかく…この富沢さんの説明に対して…
「まず、そのー、ベストテンの時に、ナンで福岡にいたかと言うと…
その…『ベストテン』と言っても、その『番組』じゃないからね?オリコン1位の時ね」と甲斐さん

富沢さんの「オリコンの1位の時?あの『(ザ・)ベストテン』じゃないんだ?」との言葉に
「『ベストテン』はね、1位なってないのよ
ナンでか?って言うと…まあ、これ、長くなるけど言う…どんどん言っていい?…(『うん、言って』と富沢さん)

まず、オリコンで1位なる時は、もうその4日か5日前に判んのよ
それで…『1位なるよー!』って言われて
『わっ!じゃ、大変だねぇ!』って言って、マスコミから逃げるために、福岡にわざわざ行って
アコースティックだったら出来る、レコーディングスタジオがあったんですよ
まっ、そこでやろうと…(『なるほど!』)

したら、ちょうどオリコンの前の日に…発売の前の日に、やっぱ『1位になった!』ってなったんで
みんなで、ワーッと乾杯して、スタジオで…
そのまんま、ムチャムチャでかいディスコへ行ったんですよ…ナンか、2千人くらい入るような…
…で、そこで、ツェッペリンやってるヤツがいて…バンドが…ムチャクチャ上手いのよ
それが、クリスタルキング…ではなかったかな?…(『ええーっ!?』)

あとでデビューして…マー坊(田中昌之さん)だっけ?
あの彼が、ロバート・プラントの…ボーカルの…やってたんですけど、ムチャうま…上手かったね
まさか、あんな『大都会』でね?『ツェッペリンじゃないのかよ!?』って思ったんですけど…(笑)

…と話されてましたが、当時の「里帰りレコーディング」についての記事には
「HERO」が1位になったという知らせを受けた皆さんは、乾杯のあと
「多夢」というライブハウスに行かれたらしく
そのステージで歌っておられる甲斐さんの写真が掲載されてます(笑)

そのディスコに行かれたというのは、以前に、長岡さんが、ご自身のラジオ番組で…
「新宿歌舞伎町のディスコで、私もバンドのマネージャーに連れられて行って
(『ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ』という曲がかかると)
よく『ストップ!』って言って踊った記憶があります(笑)

甲斐バンドのキャンペーンで、初めて札幌行った…
そこでも、マネージャーに連れられて、ディスコで踊らされた記憶がありますよ
マネージャー、ディスコ好きだった…?(笑)」…と、おっしゃっていたし
おそらく?マネージャー氏主導で、そういう流れになられたのかなあと…?(笑)

それはさておき…「で、それで、デビューコンサートどーののことに関して言うと
まっ、これは…まっ、ホントはデビューじゃないんですけど(笑)…まっ、そういうのがあったんですよ
(『でも、記念コンサートって聞いた』と富沢さん)
(チューリップと)プロダクションが一緒だから、まあ、そういう仕込みがあって…

…で、まっ、でも、それ、しょうがないよね?ナンか、ねぇ?
もう、ナンか、財津(和夫)さんも『行くからさ』って、言ってくれてるし
『来なくていいよ』って、言えないもんね?だって…(『そら、そうだね』)…うん
…って、年齢的にも、キャリア的にも「上の人間には逆らえない」福岡県民ですもんね?(笑)

ともあれ…富沢さんが「この文章書いてる時は一応、取材して書いてんだ、俺もね」とおっしゃると
甲斐さんは「ああー、でももう、富沢さん、絶対3倍書くからね、そういう時…
(『ウソだ…ちょっと盛ったかな?(笑)』)
相撲取りの…ナンか、巡業の苦い歴史みたいな…ナンか、ウソ書くもんね、昔から…

でもさ、冗談じゃなくて、こういうの、あった方がいいんですよ、最初に…(『うん、うん』)
途中であると、そういうの、キツイじゃないですか?…(『そうだよね』)
苦いとか、そういうものは、最初の方にあったら
『あ、ナンだ、そういうもんなんだ』って、怒るより先にさ、学ぶっていうか…(『そうだよね』)

うーん...だから、1発目は、ほどほどに…で、基本的に2枚目で絶対売れたかったんですよ
…で、ドラムの松藤くんが、ウチのバンドに入って、ドラムやり始めた人なんで
時間稼がなきゃいけないじゃないですか?(笑)
だから、年間…もう、100本以上やってたんだけど、ツアー…(『ああ、ツアーをね』)

例えば、サテライトみたいなトコ、あるじゃないですか?
そういう所でも、楽器持ち込んで、生で無理矢理やらして貰ってたもんね、ナンか…
(この辺りで、バックが『HERO』から『バス通り』に変わり
どうやら、アルバムの収録順に流している模様)

神戸の地下に、サテライトあるんですよ、ムッチャ人が集まる…
…で、そこ、誰も生(演奏を)やったことないんで『やらして貰えません?』みたいな…
(『マネージャーに言って貰って…』)…そういう、ナンか、積み重ねをね
最初の方にやった方がいいけどね」と話し終えられたトコで「バス通り」のイントロが終わり
1コーラス目が終わった途端…富沢さんが「お送りしたのは、甲斐バンドで『バス通り』でした」とカットインなさっていました(苦笑)

甲斐バンドフリークの皆さまには有名な、この「神戸の地下のサテライトスタジオ」の話が
当時から、50年近く経っても、甲斐さんの印象に残っておられることを思うと
奥さんが遠い目をするのもムベなるかなと…(笑)
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