12/21の続きでございます。
前回、加山又造のコメントと共にご紹介した、横山操。
本展に出品されているのは『雪富士』という作品でございます。
実を申せば
のろは、富士山の絵がというものがあまり好きではございません。
富士山というモチーフが、すでにして、無難と権威の象徴のように感じられるからです。
富士山が描かれているというだけでもう、やや斜に構えた見方をしてしまいます。
大きい作品ならばなおさらでございます。
しかし。
この、横山操の『雪富士』は、モチーフが何であるかということすら飛び越えて
「心にぐーっと来る」鬼気迫る迫力があったのでございます。それはもう心臓にグワシと。
この感覚を何とか言語化できないものかと、絵をにらんで頑張っておりますと
年配のご夫婦がおいでになり、この絵の前で二人して足を止められました。
しばらくそこにたたずんだのち、奥さまがポツリとおっしゃいました。
「装飾の絵とは全然違うな・・・たましい、そのものや」
嗚呼、これ以上のどんな言葉が必要でありましょうか。
さて、アーティストが他のアーティストについて語る姿が印象的だった、と申しましたが
作家自身が自らの創作について語る言葉もまた、たいへん興味深いものでございました。
いっぱいメモってしまいました。
絵を描くことは新しい発見をするための手段であり、対象を「みる」ことによって感じる、その感動を表現したい-----山口華楊
「絵でございます」というような絵はつまらない。人目を気にせず自由に描かれる子供の絵が一番すばらしい。他人はもちろん、自分にさえ「何だ、こんなの絵か」と思ってしまうようなものを描きたい-----岡本太郎
また、個人的に嬉しかったのは、長年会いたいと思っていた作品にまみえる機会を得たことでございます。
その作品とは即ち、八木一夫のザムザ氏の散歩でございます。
ええ、近美の『八木一夫展』には行きそびれたもので。
体のあちこちに空いた穴ぼこや、中途半端に伸びた管から
ぷー ぷー 何やら吹き出しながら、よたよたえっさえっさと歩く「ザムザ氏」は
醜悪かつユーモラスでございます。
題名はあとから与えられたものなのかもしれませんが
何の役にも立たず、いかにも頼りなく、
でもボク存在しちゃってるんですよねアララ、という悲しげなおかしみと深刻な孤立感は
カフカの作品に通じるものがございます。
今回、八木一夫の作品は3点展示されておりますが
そのどれもが何ともいわくいいがたい おかしみ を漂わせております。
こういうユーモアは、出そうと思ったって出せるものではございません。
パネルの方には、司馬遼太郎氏の「八木さんの作品は八木さんそのものだ」というような言葉が記されておりました。
八木氏の人柄を存じないのろではございますが
彼の作品を目の前にすると、この証言はおおいに説得力をもって響いたのでございました。
そんなこんなで本展は、量・質ともになかなかのボリュームを誇っております。
そして作品と がっつり 向かい合うのは、それなりに---変な言い方をお許しいただければ---、
身体と心の体力 を要するものでございます。
ああしかし、どうか皆様、一番最後の展示室に至るまでは、この 心身の体力 を保持していただきたい。
なんとなれば、最後の最後に田中一村が控えているからでございます。
私の絵が何と批評されても、私は満足なのです。それは見せるために描いたのではなく、私の良心を満足させるために描いたのですから。-----田中一村
他の作品と並んで展示室内に静かにたたずむ、二枚の田中一村。
生きていてよかったと思うのはこんな時でございます。
しかもその前には適度なクッションのベンチが。
しばしば一村の作品には「生命感あふれる」という賛辞が冠されます。
のろには彼の描いた作品が、単に「生」を表現したものとは、ちと違うと思われるのです。
一村の筆は 死 を 含 ん だ 生 命 の、今 一 度 き り の、鮮烈な輝きを
描いているように思われるのでございます。
彼が描く小鳥の身体の中には、人間よりずっと速い速度で収縮する、小さな小さな心臓が脈打っています。
彼の描く植物は、白い根毛を土中に張り巡らし、水分と養分を貪欲に吸い上げています。
彼の絵は腐葉土の匂いがします。植物や動物や微生物がその中で朽ちてゆく、土壌の匂いがします。
あらゆる生命がそこに還元され、新たな生命がそこから芽吹く、豊かで残酷な、土の匂いがします。
いずれ死にゆく私、いずれ死にゆく貴方。
つまるところ何もかも消えてゆくんでございます。
しかしワタクシ確信を持って申しますが
今一度だけの生命の時間をほんの少し割いて、田中一村にまみえることは
貴方の生命にとって、決して無駄なことではございません。
まあ
こんなわけで日曜美術館。
今年度は司会が代わってひと安心。
のろは本展により、この番組がこれからも
高いクオリティを保ちつづけてほしいものだ、という思いを
いっそう強くいたしました。
皆様、受信料、払ってあげましょうね。
払ってください、日曜美術館のために。
前回、加山又造のコメントと共にご紹介した、横山操。
本展に出品されているのは『雪富士』という作品でございます。
実を申せば
のろは、富士山の絵がというものがあまり好きではございません。
富士山というモチーフが、すでにして、無難と権威の象徴のように感じられるからです。
富士山が描かれているというだけでもう、やや斜に構えた見方をしてしまいます。
大きい作品ならばなおさらでございます。
しかし。
この、横山操の『雪富士』は、モチーフが何であるかということすら飛び越えて
「心にぐーっと来る」鬼気迫る迫力があったのでございます。それはもう心臓にグワシと。
この感覚を何とか言語化できないものかと、絵をにらんで頑張っておりますと
年配のご夫婦がおいでになり、この絵の前で二人して足を止められました。
しばらくそこにたたずんだのち、奥さまがポツリとおっしゃいました。
「装飾の絵とは全然違うな・・・たましい、そのものや」
嗚呼、これ以上のどんな言葉が必要でありましょうか。
さて、アーティストが他のアーティストについて語る姿が印象的だった、と申しましたが
作家自身が自らの創作について語る言葉もまた、たいへん興味深いものでございました。
いっぱいメモってしまいました。
絵を描くことは新しい発見をするための手段であり、対象を「みる」ことによって感じる、その感動を表現したい-----山口華楊
「絵でございます」というような絵はつまらない。人目を気にせず自由に描かれる子供の絵が一番すばらしい。他人はもちろん、自分にさえ「何だ、こんなの絵か」と思ってしまうようなものを描きたい-----岡本太郎
また、個人的に嬉しかったのは、長年会いたいと思っていた作品にまみえる機会を得たことでございます。
その作品とは即ち、八木一夫のザムザ氏の散歩でございます。
ええ、近美の『八木一夫展』には行きそびれたもので。
体のあちこちに空いた穴ぼこや、中途半端に伸びた管から
ぷー ぷー 何やら吹き出しながら、よたよたえっさえっさと歩く「ザムザ氏」は
醜悪かつユーモラスでございます。
題名はあとから与えられたものなのかもしれませんが
何の役にも立たず、いかにも頼りなく、
でもボク存在しちゃってるんですよねアララ、という悲しげなおかしみと深刻な孤立感は
カフカの作品に通じるものがございます。
今回、八木一夫の作品は3点展示されておりますが
そのどれもが何ともいわくいいがたい おかしみ を漂わせております。
こういうユーモアは、出そうと思ったって出せるものではございません。
パネルの方には、司馬遼太郎氏の「八木さんの作品は八木さんそのものだ」というような言葉が記されておりました。
八木氏の人柄を存じないのろではございますが
彼の作品を目の前にすると、この証言はおおいに説得力をもって響いたのでございました。
そんなこんなで本展は、量・質ともになかなかのボリュームを誇っております。
そして作品と がっつり 向かい合うのは、それなりに---変な言い方をお許しいただければ---、
身体と心の体力 を要するものでございます。
ああしかし、どうか皆様、一番最後の展示室に至るまでは、この 心身の体力 を保持していただきたい。
なんとなれば、最後の最後に田中一村が控えているからでございます。
私の絵が何と批評されても、私は満足なのです。それは見せるために描いたのではなく、私の良心を満足させるために描いたのですから。-----田中一村
他の作品と並んで展示室内に静かにたたずむ、二枚の田中一村。
生きていてよかったと思うのはこんな時でございます。
しかもその前には適度なクッションのベンチが。
しばしば一村の作品には「生命感あふれる」という賛辞が冠されます。
のろには彼の描いた作品が、単に「生」を表現したものとは、ちと違うと思われるのです。
一村の筆は 死 を 含 ん だ 生 命 の、今 一 度 き り の、鮮烈な輝きを
描いているように思われるのでございます。
彼が描く小鳥の身体の中には、人間よりずっと速い速度で収縮する、小さな小さな心臓が脈打っています。
彼の描く植物は、白い根毛を土中に張り巡らし、水分と養分を貪欲に吸い上げています。
彼の絵は腐葉土の匂いがします。植物や動物や微生物がその中で朽ちてゆく、土壌の匂いがします。
あらゆる生命がそこに還元され、新たな生命がそこから芽吹く、豊かで残酷な、土の匂いがします。
いずれ死にゆく私、いずれ死にゆく貴方。
つまるところ何もかも消えてゆくんでございます。
しかしワタクシ確信を持って申しますが
今一度だけの生命の時間をほんの少し割いて、田中一村にまみえることは
貴方の生命にとって、決して無駄なことではございません。
まあ
こんなわけで日曜美術館。
今年度は司会が代わってひと安心。
のろは本展により、この番組がこれからも
高いクオリティを保ちつづけてほしいものだ、という思いを
いっそう強くいたしました。
皆様、受信料、払ってあげましょうね。
払ってください、日曜美術館のために。