のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ラースと、その彼女』

2009-01-29 | 映画
寝ている間にピッキングで部屋に侵入されて本だけごっそり盗まれる
という夢を見ました。
寝覚め最悪でございます。

それはさておき

ようやく『ラースと、その彼女』を観てまいりました。
いやあ、大変いい映画でございました。
前評判がよかったのでそこそこ期待しておりましたが、のろの期待を上回る良作でございました。

ストーリーは↑公式サイトを御覧いただくとして。

ラースと人形のビアンカをめぐる、田舎町のもろもろ。
語り口はユーモラスでございますが、「変な奴 V.S.まともな人」という型通りの、皮肉を含んだユーモアではございません。むしろ、まともな大人を自認する人々も、端から見ればちょっとおかしな嗜癖や子供っぽさを大なり小なり皆持っている、ということがやんわりと語られ、あくまでも優しい視点で描かれております。

やんわりとしているだけに、共感のしどころ、感じどころは見る人によって様々かと存じます。
のろが感じ入ったのは、ラースとビアンカを受け入れる、町の人々の優しさでございます。



もちろんラースが人形に恋したことは、小さな田舎町にとってちょっとどころではない事件でございます。日曜日には皆が教会に集まるような町で、車椅子に乗せられて公然と出歩くセックスドールというとんでもないシロモノが、人々の間にとまどいを引き起こさなかったわけではございません。ビアンカはコミュニティにとって、いわば大きな異物でございました。
しかし町の人々は、異物にそれっと飛びかかって排除したり、ラースをしゃにむに「矯正」しようとしたり、まともではないからと言って村八分にしたりといった頑迷で排他的なあり方はとらず、あえて彼女を受容することを選ぶのでございます。その受容の過程で人々も、ラース自身も、今まで目をそむけて来た様々な感情と向き合うことになります。そして本当に大切なものは何かということに気付いたり、確認したりしていくのでございます。

弟が狂ったと頭を抱えるラースの兄に「何であれ、彼女がやって来たことには理由があるのですよ」と諭す医師。
「たかが人形、大したことじゃないわ。...あんたとこの妹なんて猫に服を着せてるじゃないの!」と言い放つおばちゃん。
ビアンカを教会に入れる入れないで揉めた時、「イエスならどうしただろうか?」と皆に問いかける牧師さん。
こうした知性と度量と優しさでもってビアンカを受容することで、時々ちょっとぶつかりあいながらも前に歩き出す町の人々、そしてラース。

終盤に語られる「彼女(ビアンカ)は私達みんなに素晴らしい贈り物をくれました。私達が思ってもみなかった仕方で」という牧師さんの言葉は、この作品に一貫して流れている知性と優しさとユーモアを凝縮したようなセリフでございます。
「優しい」と申しますとちと柔弱なイメージになってしまいますが、本作はその一貫した優しさの中に、むしろ確固とした気骨を感じる作品でございました。たくましい優しさ、とでも申しましょうか。口調は穏やかかつユーモラスでありながら、その中に、様々な固定観念や偏見に対するカウンターパンチを含んでいるのでございます。

また共感しどころと言えば、ラースの「身体に触られると、痛い。熱いものに触ったときみたいに反射的に身を引いてしまう」という言葉に、触られることが非常に苦手なのろは大いに共感いたしました。ラースは身体的にも精神的にも、人と「触れ合う」ことをとても恐れております。ラースがその恐れを克服していく過程が本作の一番の主題であると申せましょうが、彼の抱いている恐れを描くにあたっての適度な距離感もまた、よろしいものでございました。
べったりとくっついてしまうのではなく、異常なものとして突き放してしまうのでもなく。まさしく町の人々がとった「寄り添う」という態度にも似た絶妙な距離感でございます。観ているこちらも町の人々と一緒に、ラースという内気な青年を見守っているような心地になりました。

北欧映画のような淡々とした雰囲気の漂う本作、意外にもれっきとしたアメリカ映画でございます。またウィキペディアによれば監督のクレイグ・ギレスピーはオーストラリア生まれで、19歳のときアメリカに渡ったとのこと。いやはや、イメージで決めつけてはいけませんね。ともあれ、9.11以降、国際社会で傲慢さや自国中心主義ばかりが目につくようになってしまったアメリカという国で、このような作品が生まれたのは、何かこう、心が明るくなるようなことでございます。