愛することしかしないということ。 イスラエル-パレスチナ問題
報道ステーションで3人の娘たちを殺されたガザ地区のアブラエーシュという医師が、それでも憎まないと言っているのを見た。ネガティブにネガティブで対応しても解決しない。 復讐を選ぶことで墓穴を掘ることになると言う。
一方のイスラエルに住む歴史の教師は、パレスチナの子供が殺されている写真をSNSに掲げ、停戦を訴えたが、当局に拘束され、学校では教え子たちから追い出され、教職を解かれた。彼は裏切り者になった。 (「NHKスペシャル」で放映) 彼も、このガザ地区の医者と同じように「憎しみ」を選択しなかった。
「愛」はキリスト教が教えている最も大切な教えだが、ここに人は条件を付けた。 自国の正義に反する者は愛するに値しない。 それはユダヤ教も、イスラム教も同じ。 イスラエルも、合衆国も、他のどの国も強力な軍隊を持ち、核武装をし、国民を守るというお墨付きによって、自国の正義に反することには裁きを下し、戦い、報復する。
でも、この医師は「愛すること」しかしない。 正義の鉄槌を下す人々からすれば、なんとも情けなく、弱弱しく、現実を見ない愚か者か夢想者だ。
しかしもし、神がたった一つ、「愛」だけ、であるとしたら、二元的な愛と憎しみ、善と悪のの壮絶なバトルが続く(これはごく普通の人気映画のテーマだ。)世界に神は関わらないとしたら、神が憎しみや懲罰や攻撃や虐待をまったくこれっぽっちも持たないし、知りもしないとしたら、どうだろう。
これに対して、旧約聖書の神は、裁く神だ。 懲罰も、復讐も、破壊も、収奪もみな知っている。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」…ヨブ記1章13節~21節
旧約聖書に登場する神は恐ろしい。バベルの塔、ノアの箱舟、ソドムとゴモラも、人間の行いに神は天罰を下す。 ダビデに力を与え、敵を打ち滅ぼす。皆殺しにする。 偶像崇拝をするユダヤ人にも辛い試練を与える。 世の終わりには裁きを下す。
神がそうなのだから、その神を信奉する民もそのようになるのはごく自然なことではないだろうか。 彼らもやっぱり神に代わって正義の鉄槌を下す。 彼らは神の僕(しもべ)だからだ。 このことにほとんどの人は異を唱えない。 今、イスラエルが行っている戦いは、一朝一夕で始められたものではない。 彼らの行為には思想的にユダヤの伝統が重厚な後ろ盾として存在している。 それはユダヤ人の歴史を見ればわかる。 イスラエルはアッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、ローマに蹂躙されてきた。 実に紀元前6世紀から国を守るために、彼らの祖先は戦い、死んでいっているのだ。 我々外野が「仲良くしてね。」なんて言っても簡単に受け入れられるものではない。
→「イスラエルパレスチナ問題」 https://www.youtube.com/watch?v=T9L7ExUgEi0
ここで脱線するようだが、「正義」について、述べておかなければならない。 「正義」という言葉は、相対化されてしまった。 国同士が戦争を起こすとき、政治家はなんて言うかと言うと、凡そ「国民の命を守らなければならない」ということと、「正義を貫かねばならない」という、この2点だ。我々はお互いの国がこの同じ2点を掲げて、戦いに突き進んでいる様子を見ている。 どちらの正義なのかは勝敗が付くまで相対化され、決着がついた時に「勝てば官軍」、「歴史は強者によって作られる」と言われるように絶対化される。 これらを冷静に見た人はもう「正義」という言葉はただの飾りだと思うようになる。
もし、国として敗北しても、挫けずに「正義」を貫こうとするなら、テロをおこすしかなくなる。 もちろんテロという言葉は勝利した方が使う言葉だ。 彼らにとってはそれは「聖戦」である。
でも、本当の「正義」というものが、本来あるはずなのだ。 奇跡のコースはそれを以下のように説明する。
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愛は罪人にとっては理解不可能です。
なぜなら、罪人は、正義は愛から切り離されたものであり、何か他のものを表していると考えているからです。こうして、愛は弱いものであり、復讐は強いものであると知覚されます。なぜなら、審判が愛に味方しなくなった時に愛は敗北したのであり、罰から救い出してもらうには、愛は弱すぎるという事になるからです。しかし、愛がなくなった復讐は、愛から分離し隔離される事で強力になったことになります。愛が正義と活力を奪われ、打つ手もなく救い出す力もなく弱々しくたたずんでいる時、復讐以外に何がその人達を助け、救う事が出来るでしょう。…Text-25-8-8
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愛に満ちた正義が、神の子に受け取る権利があると知っているものを神の子が受け取る時、神は喜びます。
なぜなら、愛と正義には何の違いもないからです。その二つが同じものであるからこそ、慈悲が神の右に立ち、神の子に自らの罪を赦す力を与えるのです。
…Text-25-8-9
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本題に戻るが、実は、先述のユダヤ人の歴史の教師の選択にも、旧約聖書の後ろ盾があることを忘れてはならない。 それはまず、下記の箇所がある。
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)
「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記32:35)
さらにもっとも注目すべきなのが第2イザヤ書である。
なぜ第2というのかというと、このイザヤ書は3人の作者がいるとされ、バビロン捕囚の解放時に書かれた第2イザヤは、他のイザヤとまったく異なるからだ。 第2イザヤは、後にこの箇所はキリスト教によってイエスを予言するものとして重要視されることになる。
その中の第4詩は「苦難の僕」と呼ばれるもので、度重なる自分の民族に降りかかった苦難に対して、一般常識的な対応とは全く違う姿勢を説いた。 その部分を丸ごと下記に掲げる。
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わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。
見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。
わたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。…イザヤ53章
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岩田靖男という哲学者はこう言う。 「ここには悪業を裁き、悪業に報いる、という発想は全くない。 ただ、苦しみを引き受け続けるだけである。現代のユダヤ人哲学者レヴィナスの思想で言えばそういう受動性の極限の姿が神の栄光の現れである、ということになるだろう。」 (西洋思想史入門)
ただ、苦しみを引き受け続けるだけなのか? もし我々がご利益、家内安全、商売繁盛のために、神を信仰するのなら、その対価を得ることによって完結してしまう。 言わば取引成立ということだ。 それは他人に対しても同じである。 イエスが「お前たちに善くしてもらう者に善くしてたからと言ってお前たちにどんな善意があるのか。 罪人もまた同じものをお返しとして受け取るために罪人に貸すのである。」…ルカ6-33 と言ったことだ。 これをレヴィナスは「善行とは自分自身に還帰しない業」と言う。 人間はこの聖性をこの世に輝かせるために生まれ出た。
ユダヤの思想はここまで深まっていたのだ。
イエスの生涯はまさにこの「苦難の僕」であった。
イエスの弟子のパウロはこう言った。
「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。」…ローマ人への手紙 12:17-19
そしてイエスの生き方はさらに徹底したものだった。 たぶん、イエス自身は「神が復讐をする」なんてことも言わなかったはずだ。 言ったとしたら他のイエスが言った箇所と矛盾を起こしてしまう。 イエスはどこまでも愛の人だった。 パリサイ人たちの間違いを手厳しく指摘し、神殿境内では商売人を追い出したけれど、けっして剣に対して剣で対抗しなかった。 ゲッセマネの園でペテロは捕えに来た大祭司の手下の耳を切って抵抗したが、イエスはそれを止めさせた。そして、結局はむごたらしく殺されてしまった。 これはイエスの父である神が「愛」であり、復讐と裁きの神ではなかったからだ。 ここに第2イザヤ書が反映される。 イエスが生まれた時のエルサレムはもうすでに、入れ代わり立ち代わり、様々な国から蹂躙され、暴力の下にあった。 今と何も変わらない。
イエスの有名な言葉、「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」…マタイ 5章39節は、その後、換骨奪胎されてしまった。
前述のガザ地区の医者はイエスと同じ、常識外れの弱っちい馬鹿者だ。 ただ、この人はイエスと同じように「愛」しか知ろうとしなかった。 もちろん、彼は「憎しみ」を選ぶこともできた。 しかし選択肢は「愛」と決断した。 この人は「神の国」にしか住まないことを選んだ。 最愛の娘3人を殺されてどれほど苦しんだことだろうか。 それでも決断したのだ。 それは「それでも人生にYESと言う(trotzdem Ja zum Leben sagen)」とフランクルが言ったことに一致する。 フランクルも戦後、ナチの親衛隊だった人ともいっしょに山に登り、カトリックの信者と再婚して、同じユダヤ人から弾劾された。 彼も、このガザ地区の医者と同じように「憎しみ」を選択しなかった。
愛は本質的に拡張していく。 民族の壁を飛び越える。
そんな生き方もあるのだ。 愛だけ。 愛だけしか見ない生き方もあるのだ。
もし明らかな犯罪が行われ、被害を受けたとしても、愛が足らなくて、愛が欲しくてやってしまった間違いなのだと理解することもできるのだ。 正義の鉄槌を下す常識人にはこれはまるで馬鹿に見えるかもしれない。 でも馬鹿でいい。 ただ、一つのこと、憎しみの連鎖に入るよりはいい。
「あなたが愛だけを望むのなら、他には何も見ないでしょう。」 Text12-8-1
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