永遠の響き:私たちの本当の自己の記憶 ケネス・ワプニック Ph.D.
Echoes of Eternity: The Memory of Our True Self
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https://www.youtube.com/watch?v=tALpeeTniC0
変化の現象や経験は誰でも理解できますが、不変とは何かを理解する方法はありません。コースができること、そしてイエスができることは、それを示唆し、その状態がどのようなものであるかを私たちに反映させようとすることだけです。
それでは、私が言及したように、「不変なる住居(すまい)」の冒頭の段落を読んで始めましょう。これは第 29 章の第 V 節*です。
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*訳注:T.29.Ⅴ.1
あなたの中にはこの世界のすべてが忘れ去られている場所がある。 それはもはや罪や幻想の記憶が残っていない場所である。 あなたの中には時間が消え去っている場所がある。 そこでは永遠のこだまが聞こえている。 父なる神の子を喜ばせる賛美歌が天国へと立ち上る以外に何の音もしないような、この上なく静かな安息の場所がある。 父と子の両方が住まうところで彼らの両方が想起される。そして彼らがいるところには天国と平安がある。
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「あなたの中にはこの世界のすべてが忘れ去られている場所がある。 それはもはや罪や幻想の記憶が残っていない場所である。」この場所は、テキストの初期のセクションで私たちの正しい心と呼ばれる場所でしょう。それは贖罪の原理がある正しい心の中の場所です。
それは、聖霊がいる私たちの正しい心の中の場所であり、聖霊は、私たちが分離できると信じて眠りについた夢の中に持ち込んだ、神の愛とキリストとしての私たちのアイデンティティの記憶です。それが夢の始まりです。もう一度読みます。「あなたの中にはこの世界のすべてが忘れ去られている場所がある。 それはもはや罪や幻想の記憶が残っていない場所である。」
そして、その場所こそ、エゴが覆い隠そうとしている場所なのです。「あなたの中には時間が消え去っている場所がある。 そこでは永遠のこだまが聞こえている。」これは永遠そのものではなく、永遠の響きです。彼は前のセクションで、聖なる関係である「永遠の前触れ*」について語っています。
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*訳注 T.20.Ⅴ.1 永遠の前触れ
この世界では神の子は神聖な関係の中で本来の自分自身に最も近づく。 そこにおいて彼は 父が自分に対していだいている確かさを見出し始める。 そしてそこにおいて、彼は父の法則の外に置かれていたものに、その法則を取り戻し、失われていたものを見つけ出すという自分の機能を見出す。 時間の中でのみ、何かが失われるのであり、それは永遠に失われるのではない。神の子の断片たちは時間の中で、しだいに繋がっていき、そのように繋がり会うたびに、時間の終わりが近くなる。 繋がり合うという奇跡の一つ一つが永遠の強力な前触れである。
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前のセクションでは、「聖性の反映*」についても語っているので、ここで彼は「永遠のこだま(響き)」という言葉を使っています。これらはすべて、聖霊がいる私たちの正しい心の中、神の記憶がある場所、キリストとしての私たちの真のアイデンティティの記憶がある場所、愛の記憶がある場所について語るさまざまな方法です。その住処(すみか)では、私たちは自分の本当の姿の反映を見ているのです。
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*訳注 T.14.Ⅸ.8:3 聖性の反映
何が聖性の前に運んでこられたかにかかわりなく、聖性の唯一の応答は癒しである。自分自身の中の聖性の反映故に癒しだけを差し出すことを学んだ者たちは、遂に天国のための準備が出来たのである。 天国では聖性は反映ではなく、ここにおいて彼らに反映されていたものの実際の状態である。 神はイメージではない。そして神の一部としての被造物たちは真理においては、自らの内に神を保持している。彼らは真理をただ反映されるさせるだけではない。彼ら自身が真理そのものである。
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そして、もし私がそれを選び、それと同一化することを選んだら、私が信じているこの分離した個人的な自己、私が信じているこの非常に特別でユニークな自己のための場所はなくなります。なぜなら、その記憶が何であるか思い出してください。それは神の一人子の住処(すみか)の記憶なのです。
この世界では、神の一人子は数十億、数十億、数兆、数兆もの断片に分割されています。私たちがその住処(すみか)を思い出すことを選ぶとき、これはコースが聖なる瞬間を選ぶことと呼んでいるものですが、その聖なる瞬間には分離はありません。なぜなら、私は分離は決して起こらなかったと教えてくれる贖罪の原理と結びついたからです。
もし分離がないなら、変化も、罪も、罪悪感も、恐怖もありません。したがって、時間もありません。ですから、たとえあなたの体がまだ時間と空間の世界の中で機能しているように見えても、あなたがその住処(すみか)にいるとき、あなたの現実は時間と空間の外にあります。つまり、過去に何が起こったかに影響されないということです。
あなたは未来について何の心配もありません。不安はありません。心配もありません。そして、あなたが感じているのは、現在の平和と愛だけです。エゴの偽りの現在の罪悪感ではなく、罪が退けられたときに来る聖霊の愛と平和です。でもそれは、あなたの体が未来のための計画を立てないという意味ではありません。それは、あなたが保険に加入しないという意味ではありません。あなたが未来のための準備をしないという意味ではありません。
それは、あなたが不安や緊張、恐れを感じることなくそれを行うことができるという意味です。あなたはただ、それが体を持つ普通の人がすることだからそうするのです。その言葉の語源的な意味で、あなたが普通から外れているのは、あなたが普通の不安、普通の罪悪感、普通の恐怖、普通の防衛、人々が抱いている執着を共有していないからです。
ですから、聖なる瞬間において、本当にあなたの個人的な自己が突然消えて、あなたが神の心に飛び込むということではなく、消えるのはすべての緊張、すべての葛藤、すべての不安、すべての憂鬱、すべての怒り、すべての裁き、すべての批判、すべての特別さです。それが消えるのです。
プロセスの最後の最後になって、個人的な自己、私、分裂した心そのものが消えます。しかし、それはプロセスの最後の最後にのみ起こります。私たちが進むにつれて変わるのは、私たちがより聖霊を選び、エゴを選ばないということです。つまり、不安が減り、緊張が減り、未来への恐れが減り、未来への被害妄想が減り、惨めな過去に対する憂鬱が減るなどです。
つまり、私たちはエゴの秘密の夢と世界の夢という恐ろしい重荷から解放され、より多くの時間を聖霊の住処(すみか)で過ごすことを選んでいるということになります。これは、再び天の私たちの住処(すみか)の反映です。「休む場所があり」これは再び、聖なる瞬間が表す私たちの正しい心の中の場所です。「父なる神の子を喜ばせる賛美歌が天国へと立ち上る以外に何の音もしないような、この上なく静かな安息の場所がある。父と子の両方が住まうところで彼らの両方が想起される。そして彼らがいるところには天国と平安がある。」
これは、あなたが体の耳で世界の音を聞かないという意味ではありません。それは、あなたの周りで起こることにあなたが無関心になるという意味ではありません。あなたが無関心になるのは、エゴが世界の音と結びつけるすべての裁き、すべての攻撃的な思考です。あなたが気に入らない人が言うこと。あなたが気に入らない人がすること、それがあなたの個人的な生活と個人的な世界の人々であれ、世界全体の人々であれ。
ですから、あなたの体は機能し続けるのです。あなたの感覚器官は、いつもと同じことをしますが、あなたの脳がそれを解釈する代わりに、心によって攻撃し、欠点を見つけ、罪悪感を見つけ、特別さと分離を強化するようにプログラムされていたものが、あなたの感覚器官があなたに示すものは、あなたの心、あなたの正しい心によって解釈されるのです。
そして、それはコースが第12章の「聖霊による判断*」の冒頭で言及していることです。すべては愛の表現か、愛への呼びかけとして認識されます。言い換えれば、私があなたに対してどのように振る舞うか、あなたについてどのように考えるか、あなたについてどのように感じるかは、あなたが何をするかによって変わることはありません。なぜなら、あなたが特に不快で、意地悪で、残酷で、非人間的で、無神経な態度をとることによって、愛を表現しているのか、愛を求めているのかに関わらず、私があなたの言うことやすることを受け止め、自分の耳ではなくイエスの耳を通して聞くとき、第12章で彼が説明しているように、私や他の人に対するあなたの攻撃はあなたの恐れの表現であり、恐れは愛への呼びかけであるとわかるからです。ですから、私がどのようにあるかには変化がないのです。なぜでしょうか?なぜなら、私は天の住処(すみか)の反映に住むことを選んだからです。
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*訳注: T.12.Ⅰ.8:7
聖霊は他者の中の愛ある想念だけを受け入れ、それ以外の一切は助けを求める懇請と見なすようにと教えたことにより、恐れそのものが助けを求める懇請だと教えたのである。これが恐れを認識するということの真の意味である。 あなたが恐れを守ろうとしなければ聖霊は恐れを解釈し直してくれる。それが愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である。 わたしたちは既に恐れと攻撃は必然的に結びつくということを学んだ。 もし攻撃だけが恐れを生み出すというのなら、そしてもしあなたが攻撃を助けを求める呼びかけとしてのありのままに見るなら、恐れの非実在性が必ずあなたに明らかになってくる。というのも恐れとはまさに 否認されてきたものを無意識のうちに認識して愛を求めている呼びかけだからである。
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つまり、ここで何が起こっても私には関係ないということです。私の体は適切な決定を下し、適切な対応をしなければならないし、コースは、あなたが適切な対応をすべきではないとは決して言いません。しかし、あなたの周りで起こっていることへの対応として何をするにしても、自我ではなくイエスを教師として行うなら、そこには愛があるでしょう。愛が内容となり、何も変わりません。 第26章からの、私がいつも引用する素晴らしい一節があります。「天国の歌から一つでも音が抜け落ちることはなかった。*」ですから、イエスがここで「天への賛歌」と呼んでいるこの素晴らしい歌は、パンフレットでは「祈りの歌*」と呼ばれています。第21章の冒頭では、「忘れられた歌*」です。
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*訳注: T.26.Ⅴ.5-6:2
あなたが持ち続けて永遠になるものにしようとしたあの一瞬は、天国では瞬く間に過ぎ去り、それが現れたことに気づいた者さえいなかった。 瞬時にして消滅し、神のこの単純な智識に影響することさえなかったものは、今なおそこに存在してるはずもなく、それをあなたが自分の教師として選ぶことはできない。過去においてのみ、すなわち遥かなる過去の創造に答えて世界を作り出すにはあまりにも短すぎた時間においてのみ、この世界は現れたかに見えた。それは遠い昔、あまりに微小な時間枠で起こったため、 天国の歌から一つでも音が抜け落ちることはなかった。 だがその一瞬は、あたかも時間の中で再び作り出され得るものであるかのように、一つ一つの赦さない行為や、考え、全ての裁きや罪への信念の中で今もなお呼び戻されている。 あなたは往古の記憶を自分自身の目の前に保持しているのである。 そして記憶の中だけに生きる者は自分がどこにいるかを自覚していない。 赦しは時間からの大いなる解放である。 それは過去が終わっていることを学ぶ為の鍵である。
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*訳注 T.21.Ⅰ.6-7 忘れられた歌
耳を澄ましなさい。おそらくあなたは完全には忘れられていない往古の状態をかすかに思い出すだろう。 それは朧(おぼろ)げなものかもしれないが、全く馴染みのないものではない。とうの昔に題名を忘れた歌のようであり、 あなたはそれをどこかで聞いたかも少しも憶えていない。 その歌の全部ではないが特定の人や場所や物などに付随してはいない旋律のほんの一部があなたと共にとどまっていた。それでもこのほんのわずかな断片から、あなたはその歌の麗しさやそれを聞いた時の素晴らしい情景や、その場にいて、あなたと共に、それを聞いた者たちを自分がどれほど愛していたかを思い出す。
その歌の調べ自体は無である。 それでもあなたがそれを自分の中に抱き続けたのはその調べそのもののゆえにではなく、それが思い出せば、涙せずにいられないほど、愛おしく大切なものの記憶をそっと呼び覚ますものだからである。 あなたは思い出せる。思い出せばこれまで自分が学んだこの世界を失うことになると信じて恐れているのである。 それでもあなたはこれに比べれば自分で学んだ世界の中にあるどんなものもその半分も大切ではないと知っている。 耳を澄ましなさい。 そしてはるか昔にあなたが知っていた往古の歌を覚えているかどうか確かめなさい。その歌は大切にするようにとこれまで自分に教えてきたどんな旋律よりもずっと大切にされてきた歌である。
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*訳注 「祈りの歌」 「奇跡講座」下巻 付録を参照。
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その歌は完全に影響を受けません。父と子、創造主と被造物、原因と結果を結びつける一体性の象徴であるその愛、その一体性は、神から分離するという小さな狂った考えのような馬鹿げた考えによって完全に影響を受けることはありません。私たち全員の内側のどこかに、その変わることのない住処(すみか)の記憶があります。
それが、私が先ほど言及した美しいセクション「忘れられた歌」の背後にあるものです。特にそのセクションの最後の部分です。なぜなら、イエスは私たち一人一人がその記憶を持っている、その歌のメロディーをまだ私たちの中に持っていると教えているからです。
しかし、私たち全員がその歌をかき消そうとしてきたのです。
私たちがそれをかき消そうとし、実際に経験として、かき消してきたという事実は、それがそこに存在しないという意味ではなく、単に覆い隠されているという意味です。繰り返しますが、これが「不変なる住居(すまい)」のセクションの冒頭のテーマです。
これは、私たちが少なくともその住処(すみか)に触れ、少なくともその存在を理解し始められるようにするためのイエスの試みです。
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