ゲデちゃんのショート、やっと見ました。そこまで酷くないじゃん…、と思った。確かにジャンプの調子は悪そうで、すべてのジャンプの着氷が乱れてたけど、転倒まではいってないし、ルッツが2回転になっても、3トーループつけてたし(回転不足だったけど)。レイバックスピンの入りで転倒してしまって、スピンがカウントされなかったのが、痛かったのかなあ…。何とか頑張ったとは言え、全部のジャンプで減点されてしまうと、点数出ないですよね…。
何だか滑りにくそうにしてましたよね。滑りにくそう、と言えば良いのか、滑りやすそうといえばいいのかよく分からないけれど。すぐにつるんと転んでしまいそうな氷。ただ、キスアンドクライの映像を見てると、コーチとの関係は良さそうなので、安心しました。来シーズンは、故障なく、うまくいきますように!
さて、『病の金貨』シリーズ、とりあえずは全部アップしたわけですが、21歳頃に書いた原型を、使わなかった部分がありますので、それも拾って上げていきたいと思います。
1,好意ある読者よ!(E.T.A.ホフマン「砂男」、1816年)
好意ある読者よ、この小説の登場人物が機械仕掛けの人形みたいだなんて言ってはいけない。「きみってのは、生命のない呪わしい人造人間だ!」ナターナエルに小説世界から追い出されても知らないから。けれども彼はその木偶人形を生命の世界から放り出せずに、結局自分から飛び降りてしまった。一瞬たりとも真面目に読むことを許さない循環する「妄想めいたメールヒエン」、このテーマパークのような世界は高速回転で、投げ出されたお客さま、大丈夫、外で正気に戻るから。正気に戻った私たちが見つけるのは「砂男」という看板で、この世界に入場するきっかけとなったひとつの疑問、「砂男」とは何だろう。
ここでは狂気と正気、炎と水、人形と人間等が回転させられ、最後に放り出されるそれらの中心は主人公の目であった。あまりにも有名なこの物語における「のぞき見」「眼だま」の意味をくだくだしく述べるのはやめておこう。押さえておきたいのは、この眼だまは、内面の情火=炎を映し出すが、この炎はコッペーリウスによって投げ入れられたものだということだ、それを奪うために(「コッペーリウスは炎のなかからまっ赤に焼けた火の粉を、あの例の拳でつかむと、それをぼくの眼のなかにばらまこうとするのであった」)。コッペーリウスが「歩みよっていく」と「音をたててたちのぼ」る炎、コッポラの望遠鏡で見ると(「じっとすわって死んでいるもののようにみえた」ものが)「しっとり濡れた月の光のような輝きがあふれ」「視力が燃えあがってきたかのようで、しだいにまなざしが生きいきと焔をあげて燃えたって」くるオリンピアの眼。しかし涙としての水はこれらを消すことができない。「湖ににている」といわれるクラーラの瞳にしても、「コーヒーが火のなかにふきこぼれ」ることを恐れて彼を見つめようとはしないように。あまつさえ「妄想めいたメールヒェンなんて火にでもくべてしまってちょうだい」との言葉によって、すんでのところでナターナエル(直前までその瞳からは涙があふれ出ていたのに)とロータルとの決闘(「燃えたぎる眼」との表現に注意)を引き起こすところだった。「ああ、あのひとはわたしのことなどちっとも愛してくれてはいなかったのだ、わたしの言ってることがわかってくれないのだもの」愛することと分かることが等価なこの世界では、ナターナエルにとって現実的な人間のクラーラよりも自分の眼だまをはめた自動人形のオリンピアのほうが人間らしい。けれどもオリンピアは眼だまをはずされ生命を失うのだ。対照的に「この世で生きる欲求の強い」クラーラは、彼が語った「妄想めいたメールヒエン」(彼の最期はこれに相似する)を理解せず、必死に生にしがみつき、ロータルに助け出される。彼が「死」を見たのは彼自身の瞳の中だったし、まっすぐにそれに向かって飛び降りてしまった。
さて、「砂男」とは何か。母親が口にし、主人公がそう思ったことが物語の入り口となるひとつの疑問。婆やの言葉では、砂を子どもの眼の中に入れて眼だまを取り出し、半月に持ち帰って自分の子どもたちの餌にする、という男だった。が、すでに見てきたように、砂男と目されるコッペーリウス(コッポラ)が主人公の眼の中に投げ入れたのは炎だったし、物語に砂が登場すること自体ない。石ならばあるのだ、父親が死ぬ日、コッペーリウスが最後に訪ねてきたときの「重たく冷たい石のなかにとじこめられたような気」、彼が頭蓋を粉砕してその上に伸びてしまった敷石。が、石でも、炎でも、灰でもなく、砂。ここで注意したいのが、幼時の覗き見の場面で主人公がコッペーリウスを見た途端、砂男とは婆やが話したお伽ばなしのような「お化け」ではなく、「どこへでもその男が足を踏みこむところ、悲しみと――苦しみと――一時的にしろ、永久的にしろ破滅をもたらす、醜くも幽霊のようにぞっとする怪物」となったとの表現である。すなわち、この物語はお伽ばなしではなくて主人公が破滅する小説なのだ。「砂男」がこのような「怪物(幽霊)」である限り、つまり砂男が砂男ではない間、この小説は継続する(なお、オリンピアの瞳の「月の光のような輝き」は、砂男の子どもたちが半月に棲んでいることに対応する)。であるならば、最後に「分裂した」ナターナエル、頭蓋を粉砕して伸びてしまった敷石は、閉じ込められた「重たく冷たい石」が割れ、砂となったことを表すのではなかろうか。瞳の中に「死」を見ても、分裂した彼は重たく冷たい石の下で眠ることはできない。ただ砂のように頭蓋をこなごなにして、その上に伸びているだけだ。そう、「砂男」とは、粉砕された石、すなわち分裂し破滅した主人公のことなのだ。
ナターナエルはクラーラの営む「落ち着いた家庭の幸福」、「立派な別荘の門前」の中には決して入ることができないだろう。
本文引用について:E・T・A・ホフマン 深田甫訳『ホフマン全集第三巻 夜景作品集』創土社、昭和46年。
それにしても、漱石の『それから』のラスト、『砂男』だと思ったのって、私だけでしょうか。
何だか滑りにくそうにしてましたよね。滑りにくそう、と言えば良いのか、滑りやすそうといえばいいのかよく分からないけれど。すぐにつるんと転んでしまいそうな氷。ただ、キスアンドクライの映像を見てると、コーチとの関係は良さそうなので、安心しました。来シーズンは、故障なく、うまくいきますように!
さて、『病の金貨』シリーズ、とりあえずは全部アップしたわけですが、21歳頃に書いた原型を、使わなかった部分がありますので、それも拾って上げていきたいと思います。
1,好意ある読者よ!(E.T.A.ホフマン「砂男」、1816年)
好意ある読者よ、この小説の登場人物が機械仕掛けの人形みたいだなんて言ってはいけない。「きみってのは、生命のない呪わしい人造人間だ!」ナターナエルに小説世界から追い出されても知らないから。けれども彼はその木偶人形を生命の世界から放り出せずに、結局自分から飛び降りてしまった。一瞬たりとも真面目に読むことを許さない循環する「妄想めいたメールヒエン」、このテーマパークのような世界は高速回転で、投げ出されたお客さま、大丈夫、外で正気に戻るから。正気に戻った私たちが見つけるのは「砂男」という看板で、この世界に入場するきっかけとなったひとつの疑問、「砂男」とは何だろう。
ここでは狂気と正気、炎と水、人形と人間等が回転させられ、最後に放り出されるそれらの中心は主人公の目であった。あまりにも有名なこの物語における「のぞき見」「眼だま」の意味をくだくだしく述べるのはやめておこう。押さえておきたいのは、この眼だまは、内面の情火=炎を映し出すが、この炎はコッペーリウスによって投げ入れられたものだということだ、それを奪うために(「コッペーリウスは炎のなかからまっ赤に焼けた火の粉を、あの例の拳でつかむと、それをぼくの眼のなかにばらまこうとするのであった」)。コッペーリウスが「歩みよっていく」と「音をたててたちのぼ」る炎、コッポラの望遠鏡で見ると(「じっとすわって死んでいるもののようにみえた」ものが)「しっとり濡れた月の光のような輝きがあふれ」「視力が燃えあがってきたかのようで、しだいにまなざしが生きいきと焔をあげて燃えたって」くるオリンピアの眼。しかし涙としての水はこれらを消すことができない。「湖ににている」といわれるクラーラの瞳にしても、「コーヒーが火のなかにふきこぼれ」ることを恐れて彼を見つめようとはしないように。あまつさえ「妄想めいたメールヒェンなんて火にでもくべてしまってちょうだい」との言葉によって、すんでのところでナターナエル(直前までその瞳からは涙があふれ出ていたのに)とロータルとの決闘(「燃えたぎる眼」との表現に注意)を引き起こすところだった。「ああ、あのひとはわたしのことなどちっとも愛してくれてはいなかったのだ、わたしの言ってることがわかってくれないのだもの」愛することと分かることが等価なこの世界では、ナターナエルにとって現実的な人間のクラーラよりも自分の眼だまをはめた自動人形のオリンピアのほうが人間らしい。けれどもオリンピアは眼だまをはずされ生命を失うのだ。対照的に「この世で生きる欲求の強い」クラーラは、彼が語った「妄想めいたメールヒエン」(彼の最期はこれに相似する)を理解せず、必死に生にしがみつき、ロータルに助け出される。彼が「死」を見たのは彼自身の瞳の中だったし、まっすぐにそれに向かって飛び降りてしまった。
さて、「砂男」とは何か。母親が口にし、主人公がそう思ったことが物語の入り口となるひとつの疑問。婆やの言葉では、砂を子どもの眼の中に入れて眼だまを取り出し、半月に持ち帰って自分の子どもたちの餌にする、という男だった。が、すでに見てきたように、砂男と目されるコッペーリウス(コッポラ)が主人公の眼の中に投げ入れたのは炎だったし、物語に砂が登場すること自体ない。石ならばあるのだ、父親が死ぬ日、コッペーリウスが最後に訪ねてきたときの「重たく冷たい石のなかにとじこめられたような気」、彼が頭蓋を粉砕してその上に伸びてしまった敷石。が、石でも、炎でも、灰でもなく、砂。ここで注意したいのが、幼時の覗き見の場面で主人公がコッペーリウスを見た途端、砂男とは婆やが話したお伽ばなしのような「お化け」ではなく、「どこへでもその男が足を踏みこむところ、悲しみと――苦しみと――一時的にしろ、永久的にしろ破滅をもたらす、醜くも幽霊のようにぞっとする怪物」となったとの表現である。すなわち、この物語はお伽ばなしではなくて主人公が破滅する小説なのだ。「砂男」がこのような「怪物(幽霊)」である限り、つまり砂男が砂男ではない間、この小説は継続する(なお、オリンピアの瞳の「月の光のような輝き」は、砂男の子どもたちが半月に棲んでいることに対応する)。であるならば、最後に「分裂した」ナターナエル、頭蓋を粉砕して伸びてしまった敷石は、閉じ込められた「重たく冷たい石」が割れ、砂となったことを表すのではなかろうか。瞳の中に「死」を見ても、分裂した彼は重たく冷たい石の下で眠ることはできない。ただ砂のように頭蓋をこなごなにして、その上に伸びているだけだ。そう、「砂男」とは、粉砕された石、すなわち分裂し破滅した主人公のことなのだ。
ナターナエルはクラーラの営む「落ち着いた家庭の幸福」、「立派な別荘の門前」の中には決して入ることができないだろう。
本文引用について:E・T・A・ホフマン 深田甫訳『ホフマン全集第三巻 夜景作品集』創土社、昭和46年。
それにしても、漱石の『それから』のラスト、『砂男』だと思ったのって、私だけでしょうか。