人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

ごんちゃん

2013-03-31 19:57:29 | 犬・猫関連
 昨日、母が訓練所に電話して、ごんちゃん(預かってもらっている子犬)の様子を聞いたそう。訓練所の所長さんは誰かの結婚式だったようで、あまり詳しくは聞けなかったけれども、ごんちゃんは外に出て遊ぶようになったそうです。
 ひと月くらい(馴れるまで)は会いに行かないほうがいいらしいけれど、ちゃんと私たちのことを覚えていてくれるのか、ちょっと不安です。

 少し前に、うちに来ると言っていた子犬たちは、あまりに小さすぎ(まだ目が開くか開かないかくらいだった)、少し事情もあって、もともと話を持ってきた人のところに引き取ってもらいました。いまは別の人が預っているそうです。

 というわけで、いまはもともといる成犬たちのみ。子犬がいると大変ですが、いなければいないで、何となく、活気がないです(もともと人間に活気がないので)。


猫部屋を覗くのすけちゃん。写真を撮ろうとしたら目を背けた。ほんとはもっと可愛いんだけど。


かいちゃんとめがちゃんがくっついて寝てたので。背景が汚いのは、勘弁して下さい…わんこたちはすぐに広げてしまうのです。

人形の衣装性、身体/衣装の修辞学

2013-03-31 10:03:34 | 人形論(研究の話)
 しばらく落ち込んでぼんやりしてました。なかなかやる気が出ないです。

 殊能将之さんが亡くなられたんですね。『ハサミ男』は衝撃的な叙述トリックでした。
 ハサミで身体を切り裂く行為を、叙述を切り裂き構成する、文芸行為の比喩として読み解くことは可能でしょうか? 読み直してみないと。


 今日は人形論の話。これまで3つに分けて説明してきましたが、ちょっと説明不足だったかな、という点に関して書いておきます。
 人形の衣装性に関して。身体=衣装であるということ。そして、織物(テクスト)を裁断し、縫製して衣に仕立てる行為が、文芸行為の喩となる点に関して。

 人形が衣装的な存在である、ということは、増渕宗一という人がずっと言っていることです。人形の本質はあねさま人形のようなものであって、身体なんかなくていい、衣装にくるまれた細い芯棒だけでいいと。谷川渥が『美術手帖』の彫刻特集(2006年3月号、「彫刻と人形 比較論の地平」)で要領よくまとめてるので、これが分かりやすい。

『蜻蛉日記』に、女神様は衣装を喜ばれるということなので、「雛の衣」を縫って、奉る、という場面が出てきます。人形の衣装性、裁縫との結びつき、それから身近なものの神様、という関連があって、私には都合いい。

 私は基本的にこれを踏まえます。
・ベルメールの球体関節人形などはこの分類で言えば「彫刻」であり、量塊と比例を転倒させている。
・最近の日本の球体関節人形群は、ベルメールの「方法論的暴力」とは無縁で、単純な衣装性に回帰している、
と谷川は言います。

 でも私は、単純な回帰ではないと思うんですね。それは例えば、少女たちの「人形になりたい」欲望を千野帽子が指摘しています(千野帽子「活字の国のピュグマリオン 少年王・澁澤龍彦、少女たちに簒奪される」『ユリイカ』2005年5月号)が、単純なオブジェ(になりたい)志向ではないだろうことと、同じです。人形のようなものとしてしかありえない、ばらばらなパーツとしての身体を、つなぎ合わせ、構成するための手段として球体関節人形が選ばれている。これに関しては、最初に書いたような気がします。

 今回注目するのは、(ベルメール的なものを形式的には継承し)身体性が露出する最近の日本の球体関節人形において、その身体に、しばしば縫い目が入れられることです。私がイメージしているのは三浦悦子さんの人形ですが、その他にも、腹部やいろんな部分が切り裂かれ、縫い合わされたような表現をとる人形がほんとうに多い。そこでは、身体そのものが衣装のように裁断して縫製することの可能なものとして表現されているように思います。

 私の専門は(もともと)『源氏物語』ですから、少し関連することに触れると、折口信夫を踏まえながら、
・古代的な感覚においては、衣を贈る行為は魂の分与である
が、『源氏物語』の時代になるとそういう感覚がかなり薄れてくる、ということをいろんな人が指摘してます。
 平安時代になると
・自由に活動する「心」「魂」がともに和歌の表現として定着し、「魂」と「心」が接近してゆく
ことが指摘されている(今井久代「自らを刻む言葉としての身と心と魂」『文学』2006年9・10月号)のですが、
 これをさらに「衣」に関わらせて考えれば、
・「心」の分与という表現を経て、なおかつ、衣そのものを「身」と呼ぶ表現(現代でも、「身頃」とか、あると思うけど、そんな感じ)を踏まえて、衣を贈る行為が「身」を分与するものと表現されるようになる
ことが、指摘できると思います。
(だから、人形モチーフから着せ替え人形的なものと雛人形の類似性、信仰の対象としての着せ替え人形、それから「分魂」へとたどり着いた笙野頼子の直感は凄い)
 ここで、衣装と身体とが等号で結ばれてくる。

 で、私の最終的な目的は、人形論の文学論への転用です。
 すでにみなさまもご存知の通り、裁縫や手芸、織物(テクスト)に関わる表現は、物語を紡ぎ、カットし、つなぎあわせて構成する、文芸行為の喩としてしばしば、用いられます。
 衣装と身体とが等価なものとして人形が表現されることによって、衣装を裁断し、縫製すること=物語を語ること、という文芸行為の比喩を、人形による自己表象の世界に導入することができるわけです。
 私がイメージしてるのは、飛浩隆の『ラギッド・ガール』みたいな感じですけど。