少し前の話題になりますが、公共図書館において『アンネの日記』が破られるという事件が相次ぎました。
→練馬区立図書館の記事
→被害のあった図書館。
犯人について、偏った政治思想の持ち主であるとか、
当初は様々な憶測がとびかいました。
容疑者らしき人が逮捕され、どうやらその人は『アンネの日記』はアンネが書いたものではない、と主張しているそうですが、
その主張が何によるものなのかはよく分かりません。
責任能力があるか精神鑑定する、ということなので、なにかしら精神的な疾患を抱えた人なのかもしれません(もちろん、精神的な疾患がある人がこういう犯罪を犯しやすいとか、こういう犯罪を犯しても仕方ないとかいうことではありません)。
ただここでは、なぜ『アンネの日記』を破ったのか、どういう思想信条に基づく犯行だったのか、ということは考えません。
私が考えたいのは、『アンネの日記』のもつ、少女の身体性、そして、本と私との対話、という側面です。
『アンネの日記』を破損した犯人を探すことを困難にしたのが、
個々人がどのような本を読もうと自由であり、それは大事な秘密なんだ、という思想です。
→図書館の自由に関する宣言。
書物との対話は、書物と私の間だけの秘密。
実はこれが、『アンネの日記』の持つ構造なのです。
『アンネの日記』は、13歳の誕生日に日記を貰ったアンネが、日記に「キティ」という名前をつけ、二人だけの秘密を書き記すところからはじまります。
心のなかの秘密を日記に向かって告白する。
完璧な近代文学のお約束です。
しかもそれを、アンネが亡くなった後に、父が編集し、刊行する。
確か、日記自体もお父さんにプレゼントされたんじゃなかったのかな。
西洋一神教的世界においては、父とは言葉です。
父の娘の言葉という構造も完璧。
(ちなみに、アンネが書いたものではない、という主張は、女性を作者として認めない、テクスチュアル・ハラスメントの側面もあるように感じます)。
アンネが亡くなったことを知った後日記を渡された父オットーは、どんなふうに感じたでしょうか。
亡くなったはずの娘が、違うかたちをとって、再び還ってきたように感じたのではないでしょうか。
生き生きとしたアンネの声が、文字となって受肉して、紙の上から語りかけてくるように感じたのではないでしょうか。
後に父の編集を排した『完全版』が出版された経緯も面白く、
たぶんいまでは、父の改変による作品世界の変容に対する考察なんかも出てるんでしょうね。
そして日記には、少女の秘密が書き記されているのです。
少し古い世代の方には、「アンネ」というとただちに生理用ナプキンを連想される方も多いと思います。
実はこれ、『アンネの日記』からとられたんですね。
「アンネ株式会社」の宣伝課長だった渡紀彦が顛末記を刊行しており、
紙製ナプキンの発売を「オトメ」のセクシャリティ形成の重要な転機と位置づける川村邦光の『オトメの身体』(紀伊國屋書店、1994年)が取り上げています。
顛末記の『アンネ課長』(1963年)のほうは参照していないので、『オトメの身体』からの引用で申し訳ないのだけれども。
坂井(=社長の坂井素子。引用者注)から勧められた『アンネの日記』を読んでみて、”アンネ"という言葉の持つ響きに、「処女のままでこの世を去ったという一点に翻然と悟ることがあった」と記している。「"清純"であり、苦痛でなく"喜び"であり、陰鬱でなく"明朗"であり、美しいものでなければならない」というイメージに、"アンネ"はぴったりだったのである。(151頁)
隠れ家のなかでも明るく、溌剌と、みずみずしく成長するブルジョア的身体。
渡はそこに、生理のにおいを嗅ぎつけたのでしょうか。
いわゆる近代的「内面」の形成には、読書空間の成立が重要な機能を果たしたことが考察されます(前田愛『近代日本の文学空間』新曜社、1983年→平凡社ライブラリー、2004年など)が、少女のメンタリティを形成する上でも重要です。
これを川村邦光は「心の小座敷」と名づけ、
狭い部屋ではあれ、実際に個室をもつことができ、「心の小座敷」のなかでのみ、のびのびとした心で、ひとり勝手気ままに「女王」として、また「お嬢様」として振舞えることに、無上の喜びをみいだしている。この「心の小座敷」は、読書を通じて「女王」や「お嬢様」として自分を表象できる、〈オトメ共同体〉それに〈ブルジョア家庭〉のなかで培われていったのである。(『オトメの祈り』紀伊國屋書店、1993年、232頁)
と述べます。
アンネは小さな隠れ家のなかで、「個室」というものを持つことすらままならなかったことでしょう。
しかしながら、「日記」が、心のなかの極小の「個室」を形成することを可能にしました。
あるいは、隠れ家のなかで人知れず成長する少女の身体そのものが、「内面」であり、人に言えない「秘密」の表象となる。
犯人がなぜ『アンネの日記』を破損したのか私には分かりません。
ただ、『アンネの日記』はアンネの身体そのものであり、したがって破損されたのはアンネの身体である、ということだけは言っておきたいのです。
→練馬区立図書館の記事
→被害のあった図書館。
犯人について、偏った政治思想の持ち主であるとか、
当初は様々な憶測がとびかいました。
容疑者らしき人が逮捕され、どうやらその人は『アンネの日記』はアンネが書いたものではない、と主張しているそうですが、
その主張が何によるものなのかはよく分かりません。
責任能力があるか精神鑑定する、ということなので、なにかしら精神的な疾患を抱えた人なのかもしれません(もちろん、精神的な疾患がある人がこういう犯罪を犯しやすいとか、こういう犯罪を犯しても仕方ないとかいうことではありません)。
ただここでは、なぜ『アンネの日記』を破ったのか、どういう思想信条に基づく犯行だったのか、ということは考えません。
私が考えたいのは、『アンネの日記』のもつ、少女の身体性、そして、本と私との対話、という側面です。
『アンネの日記』を破損した犯人を探すことを困難にしたのが、
個々人がどのような本を読もうと自由であり、それは大事な秘密なんだ、という思想です。
→図書館の自由に関する宣言。
書物との対話は、書物と私の間だけの秘密。
実はこれが、『アンネの日記』の持つ構造なのです。
『アンネの日記』は、13歳の誕生日に日記を貰ったアンネが、日記に「キティ」という名前をつけ、二人だけの秘密を書き記すところからはじまります。
心のなかの秘密を日記に向かって告白する。
完璧な近代文学のお約束です。
しかもそれを、アンネが亡くなった後に、父が編集し、刊行する。
確か、日記自体もお父さんにプレゼントされたんじゃなかったのかな。
西洋一神教的世界においては、父とは言葉です。
父の娘の言葉という構造も完璧。
(ちなみに、アンネが書いたものではない、という主張は、女性を作者として認めない、テクスチュアル・ハラスメントの側面もあるように感じます)。
アンネが亡くなったことを知った後日記を渡された父オットーは、どんなふうに感じたでしょうか。
亡くなったはずの娘が、違うかたちをとって、再び還ってきたように感じたのではないでしょうか。
生き生きとしたアンネの声が、文字となって受肉して、紙の上から語りかけてくるように感じたのではないでしょうか。
後に父の編集を排した『完全版』が出版された経緯も面白く、
たぶんいまでは、父の改変による作品世界の変容に対する考察なんかも出てるんでしょうね。
そして日記には、少女の秘密が書き記されているのです。
少し古い世代の方には、「アンネ」というとただちに生理用ナプキンを連想される方も多いと思います。
実はこれ、『アンネの日記』からとられたんですね。
「アンネ株式会社」の宣伝課長だった渡紀彦が顛末記を刊行しており、
紙製ナプキンの発売を「オトメ」のセクシャリティ形成の重要な転機と位置づける川村邦光の『オトメの身体』(紀伊國屋書店、1994年)が取り上げています。
顛末記の『アンネ課長』(1963年)のほうは参照していないので、『オトメの身体』からの引用で申し訳ないのだけれども。
坂井(=社長の坂井素子。引用者注)から勧められた『アンネの日記』を読んでみて、”アンネ"という言葉の持つ響きに、「処女のままでこの世を去ったという一点に翻然と悟ることがあった」と記している。「"清純"であり、苦痛でなく"喜び"であり、陰鬱でなく"明朗"であり、美しいものでなければならない」というイメージに、"アンネ"はぴったりだったのである。(151頁)
隠れ家のなかでも明るく、溌剌と、みずみずしく成長するブルジョア的身体。
渡はそこに、生理のにおいを嗅ぎつけたのでしょうか。
いわゆる近代的「内面」の形成には、読書空間の成立が重要な機能を果たしたことが考察されます(前田愛『近代日本の文学空間』新曜社、1983年→平凡社ライブラリー、2004年など)が、少女のメンタリティを形成する上でも重要です。
これを川村邦光は「心の小座敷」と名づけ、
狭い部屋ではあれ、実際に個室をもつことができ、「心の小座敷」のなかでのみ、のびのびとした心で、ひとり勝手気ままに「女王」として、また「お嬢様」として振舞えることに、無上の喜びをみいだしている。この「心の小座敷」は、読書を通じて「女王」や「お嬢様」として自分を表象できる、〈オトメ共同体〉それに〈ブルジョア家庭〉のなかで培われていったのである。(『オトメの祈り』紀伊國屋書店、1993年、232頁)
と述べます。
アンネは小さな隠れ家のなかで、「個室」というものを持つことすらままならなかったことでしょう。
しかしながら、「日記」が、心のなかの極小の「個室」を形成することを可能にしました。
あるいは、隠れ家のなかで人知れず成長する少女の身体そのものが、「内面」であり、人に言えない「秘密」の表象となる。
犯人がなぜ『アンネの日記』を破損したのか私には分かりません。
ただ、『アンネの日記』はアンネの身体そのものであり、したがって破損されたのはアンネの身体である、ということだけは言っておきたいのです。