21歳ころに原型を書き、さらに25歳くらいのときに修正したもの。原型はバシュラール的な「炎と水」のイメージからいくつかの作品を読み解いたものですが、修正したときにはテーマを絞り扱う作品数も減らしました。どこかに掲載されることを目指していたような気もしますが、論文とも批評とも言いがたいもので、投稿するのも難しいため、ここに貼り付けておきます。もちろん、掲載して下さる出版社があれば、喜んで。
まず、「はじめに」の部分から。
0.はじめに
1.恥と後悔
あなたが恐れるのは自然だし当然でもあるのだが、恥と後悔もやはり病いなのだから。(114頁)
中世フランドル地方を舞台としたフランスの小説、マルグリット・ユルスナール『黒の過程』。主人公ゼノンの異父妹に当たるマルタが、ペストにかかった従姉妹ベネディクトを看病している。そこに、ペスト患者を診る医師としてゼノンが訪ねてきた。ゼノンとマルタは面識がないが、ゼノンはマルタが妹であることをひそかに感じとり、マルタも後に気づくことになる。これはその去り際、内心ペストを恐れるため病室に戻りたがらないマルタに、ゼノンが言った言葉である。
この後彼女は金貨一枚を払い、「金を払うという仕種がふたたび二人のあいだに距離を作り出し」「はるかに高いところに彼女を押し上げた」。しかしこのとき受けた恥の記憶、つまり彼女が卑怯であることを見ぬかれた記憶は、小説のラストまで長く尾を曳き、宗教裁判にかけられたゼノンのために金を払わないという態度を、彼女にとらせる。
ことほどさように、小説のなかで恥と後悔の対価として金が用いられる例は多い。そしてそれは、ペストの場面ではベネディクトの病室、ラストでは裕福で退屈な男と結婚したマルタの豪華で空虚な部屋など空間表象と、登場人物の内面が重ねられる表現とも関わってくる。
ここでは、そのようなものとしてフランスの小説を二編――マルグリット・ユルスナール『黒の過程』及びボリス・ヴィアン『心臓抜き』――と、中世ヨーロッパを舞台とした現代日本の小説である佐藤亜紀『鏡の影』を扱い、恥と後悔をめぐる表現を見てゆきたい。特に『黒の過程』を中心に論じることとなろう。なお、『黒の過程』と『心臓抜き』はフランスの小説であるが、日本語に翻訳されたものを本文として俎上にのせるため、ここでは三作品とも日本語小説として扱う。これら三つの論考は、それぞれ独立したものとしても読めるが、個々の作品における表現の連鎖を読み解く行為は徐々に、作品間のインターテクスチュアリティを形成することとなろう。長い小説の歴史の中で磨きこまれてきた表現は、それぞれの作品の特性、時代の雰囲気などを引き受けながら密接に結びつき、物語を展開させるがゆえに、それぞれの作品の特性、時代の雰囲気を浮き彫りにする。殊にそれぞれのラスト――自殺する主人公の意識が開かれる扉をとらえ自由になる『黒の過程』のラスト、恥と後悔を引き受けるものとなった主人公が黄金の部屋に引きこもる『心臓抜き』のラスト、主人公が快適な女の長持ちのなかに仕舞い込まれる『鏡の影』のラスト――は、内部をめぐる自由と引きこもりの力学を明らかにする。
2.空間表象と小説の扉
『黒の過程』のラストでは、自殺する主人公の意識に最後にとらえられたものが「開かれる扉の音」であり、小説全体が「開かれる扉」とともに閉じられる。空間表象が登場人物の意識と重ねられる本作品において「開かれる扉」が描かれることは、最後の視点人物である主人公の意識について考える上で重要だろう。
例えば、京極夏彦『鉄鼠の檻』では、「手紙」や書物と関わって「「檻」に閉じ込める」「扉を開く」という言葉が頻出する。視点人物の一人である飯窪は、ヒロインである永遠の童女鈴子が兄に宛てた手紙(恋文)を読んだ(開いた)ことによって記憶を閉じ込め、「私は手紙を読みました」という言葉によってそれを開く。
記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。
それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身をやつし、完膚なきまでに解体されてあっと いう間に霞となり塵となって消えて行くのだ。
グスタフ・マイリンク『ゴーレム』にも、語り手の意識とも関わって、『黄金の扉』が描かれる。
『ゴーレム』は、ユダヤのゲットーを舞台に展開する、ゴーレム伝説を核とした分身物語である。語り手が帽子を間違えられ、裏に「アタナージウス・ペルナート」と金文字で書かれている、間違えた相手の帽子を被ったことで、夢の中でその相手の人生を辿りなおすという枠を持つ。夢は、「いつか直接に体験したり読んだり聞いたりしたものが、そのさまざまな色彩や明度のいくつもの流れが、ひとつに混じりあって流れていく」「ぼくはそれらを遠くに投げようとする。しかし、そのたびごとに小石はぼくの手からこぼれ落ちて、ぼくはそれらを視野のそとに追いやることができない。/これまでぼくの生活のなかでなんらかの役割をもったすべての石が、ぼくのまわりに浮かびあがろうとしている」(3~4頁)と、自己の記憶(体験や読書、伝聞)の喩である小石の流れによって導かれ、実際にはなかった火事によって途切れる。
夢の中では、彫刻師である「アタナージウス・ペルナート」が、徳高く貧しいラビのヒレルを導きとし、分身や亡霊、ゴーレムと対決しながら、「ヘルマフロディート」との結合を目指す物語、そしてヒレルの娘であるヒロイン、ミルヤムとの恋が展開される。幼少時の記憶を閉じ込めた「部屋」が、おそらく恋の相手であった「アンジェリーナ」という名によって取り戻されるが、記憶の回復は「ぼくの青少年時代を覆い隠していた垂れ幕が、上から下までぱっと裂け開いた」(137頁)と表現される。さらに、謎の人物の依頼によって『イッブール』という本を修理するものの依頼者は取りに来ないように、「記憶」「書物」「閉じる/開く」が重要なモチーフとなる。
語り手は夢から覚めて後、夢の記憶を頼りに帽子を返しに行く。記憶の中では錬金術師小路の白く仄かに輝く家の前にあった木の柵のところには「金箔の格子があって、通りを塞いでいた」(366頁)。格子と平行に走っている塀にはオシリス崇拝を表した金色のフレスコ画が描かれ、
門の扉は神そのものだった。二枚の扉がそれぞれ半身をなし、右が男性、左が女性のヘルマフロ ディートをかたちづくっていた。そのヘルマフロディートは、豪華な螺鈿の平たい玉座に座り、―半 浮き彫りなのだ―金色の頭は兔の頭だった。そのふたつの耳はまっすぐに立ち、たがいにぴったり くっつきあって、開かれた本の両方の頁のように見えていた―(同)
帽子を差し出した「ぼく」は、「開かれた扉」の向こうに、ペルナートとミルヤムを見ることができた。が、ペルナートが振り返り、「鏡のなかにぼくを見ているのではないか」と思った「そのとき門の扉が閉じられた」(367~368頁)。帽子は元の持ち主に戻り、「ぼく」は決して庭に入ることが出来ない。夢の中では旅立とうとしても内部を漂うことしかできなかった「ぼく」は再び世界に入ることは出来ない。扉が開かれ、帽子が手渡されると同時に、語り手と主人公とのただ一度の会合がなされるが、開かれた世界は、扉と共に閉じられる。「扉」はフィクションの構成、語り手の意識、そして読み手の意識を結び、そして閉ざすものとして、小説空間で重要な意味を帯びる。
引用文、頁数は、以下による。
・マルグリット・ユルスナール 岩崎力訳『ユルスナールセレクション2 黒の過程』(白水社、2001年)。
・京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社文庫、2001年)。
・グスタフ・マイリンク 今村孝訳『ゴーレム』(河出書房新社、1978年)。
小学校の時の教科書に、あまんきみこの『名前を見てちょうだい』という話が載ってたんだけど、帽子の裏の名前がモチーフになってたのね。大事な大事な帽子の裏に、名前を書くんだけど、帽子が飛ばされて、いろんな動物の手に渡る。で、その度に主人公は、「名前を見てちょうだい」、っていうんだけど、なぜか帽子の裏の名前は相手のものになっていて。最後に、巨人に出会ったときに、主人公は怒って大きくなって、これは私の帽子よ!って主張する。そうしたらちゃんと帽子の裏の名前は自分のものに戻ってて、帽子がやっと自分の手に戻った、という。
これ、よく分からない話だな―、と思ってたんだけど、『ゴーレム』を読んで、ああ、これかあ、と思ったんですよね。
つづく。
まず、「はじめに」の部分から。
0.はじめに
1.恥と後悔
あなたが恐れるのは自然だし当然でもあるのだが、恥と後悔もやはり病いなのだから。(114頁)
中世フランドル地方を舞台としたフランスの小説、マルグリット・ユルスナール『黒の過程』。主人公ゼノンの異父妹に当たるマルタが、ペストにかかった従姉妹ベネディクトを看病している。そこに、ペスト患者を診る医師としてゼノンが訪ねてきた。ゼノンとマルタは面識がないが、ゼノンはマルタが妹であることをひそかに感じとり、マルタも後に気づくことになる。これはその去り際、内心ペストを恐れるため病室に戻りたがらないマルタに、ゼノンが言った言葉である。
この後彼女は金貨一枚を払い、「金を払うという仕種がふたたび二人のあいだに距離を作り出し」「はるかに高いところに彼女を押し上げた」。しかしこのとき受けた恥の記憶、つまり彼女が卑怯であることを見ぬかれた記憶は、小説のラストまで長く尾を曳き、宗教裁判にかけられたゼノンのために金を払わないという態度を、彼女にとらせる。
ことほどさように、小説のなかで恥と後悔の対価として金が用いられる例は多い。そしてそれは、ペストの場面ではベネディクトの病室、ラストでは裕福で退屈な男と結婚したマルタの豪華で空虚な部屋など空間表象と、登場人物の内面が重ねられる表現とも関わってくる。
ここでは、そのようなものとしてフランスの小説を二編――マルグリット・ユルスナール『黒の過程』及びボリス・ヴィアン『心臓抜き』――と、中世ヨーロッパを舞台とした現代日本の小説である佐藤亜紀『鏡の影』を扱い、恥と後悔をめぐる表現を見てゆきたい。特に『黒の過程』を中心に論じることとなろう。なお、『黒の過程』と『心臓抜き』はフランスの小説であるが、日本語に翻訳されたものを本文として俎上にのせるため、ここでは三作品とも日本語小説として扱う。これら三つの論考は、それぞれ独立したものとしても読めるが、個々の作品における表現の連鎖を読み解く行為は徐々に、作品間のインターテクスチュアリティを形成することとなろう。長い小説の歴史の中で磨きこまれてきた表現は、それぞれの作品の特性、時代の雰囲気などを引き受けながら密接に結びつき、物語を展開させるがゆえに、それぞれの作品の特性、時代の雰囲気を浮き彫りにする。殊にそれぞれのラスト――自殺する主人公の意識が開かれる扉をとらえ自由になる『黒の過程』のラスト、恥と後悔を引き受けるものとなった主人公が黄金の部屋に引きこもる『心臓抜き』のラスト、主人公が快適な女の長持ちのなかに仕舞い込まれる『鏡の影』のラスト――は、内部をめぐる自由と引きこもりの力学を明らかにする。
2.空間表象と小説の扉
『黒の過程』のラストでは、自殺する主人公の意識に最後にとらえられたものが「開かれる扉の音」であり、小説全体が「開かれる扉」とともに閉じられる。空間表象が登場人物の意識と重ねられる本作品において「開かれる扉」が描かれることは、最後の視点人物である主人公の意識について考える上で重要だろう。
例えば、京極夏彦『鉄鼠の檻』では、「手紙」や書物と関わって「「檻」に閉じ込める」「扉を開く」という言葉が頻出する。視点人物の一人である飯窪は、ヒロインである永遠の童女鈴子が兄に宛てた手紙(恋文)を読んだ(開いた)ことによって記憶を閉じ込め、「私は手紙を読みました」という言葉によってそれを開く。
記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。
それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身をやつし、完膚なきまでに解体されてあっと いう間に霞となり塵となって消えて行くのだ。
グスタフ・マイリンク『ゴーレム』にも、語り手の意識とも関わって、『黄金の扉』が描かれる。
『ゴーレム』は、ユダヤのゲットーを舞台に展開する、ゴーレム伝説を核とした分身物語である。語り手が帽子を間違えられ、裏に「アタナージウス・ペルナート」と金文字で書かれている、間違えた相手の帽子を被ったことで、夢の中でその相手の人生を辿りなおすという枠を持つ。夢は、「いつか直接に体験したり読んだり聞いたりしたものが、そのさまざまな色彩や明度のいくつもの流れが、ひとつに混じりあって流れていく」「ぼくはそれらを遠くに投げようとする。しかし、そのたびごとに小石はぼくの手からこぼれ落ちて、ぼくはそれらを視野のそとに追いやることができない。/これまでぼくの生活のなかでなんらかの役割をもったすべての石が、ぼくのまわりに浮かびあがろうとしている」(3~4頁)と、自己の記憶(体験や読書、伝聞)の喩である小石の流れによって導かれ、実際にはなかった火事によって途切れる。
夢の中では、彫刻師である「アタナージウス・ペルナート」が、徳高く貧しいラビのヒレルを導きとし、分身や亡霊、ゴーレムと対決しながら、「ヘルマフロディート」との結合を目指す物語、そしてヒレルの娘であるヒロイン、ミルヤムとの恋が展開される。幼少時の記憶を閉じ込めた「部屋」が、おそらく恋の相手であった「アンジェリーナ」という名によって取り戻されるが、記憶の回復は「ぼくの青少年時代を覆い隠していた垂れ幕が、上から下までぱっと裂け開いた」(137頁)と表現される。さらに、謎の人物の依頼によって『イッブール』という本を修理するものの依頼者は取りに来ないように、「記憶」「書物」「閉じる/開く」が重要なモチーフとなる。
語り手は夢から覚めて後、夢の記憶を頼りに帽子を返しに行く。記憶の中では錬金術師小路の白く仄かに輝く家の前にあった木の柵のところには「金箔の格子があって、通りを塞いでいた」(366頁)。格子と平行に走っている塀にはオシリス崇拝を表した金色のフレスコ画が描かれ、
門の扉は神そのものだった。二枚の扉がそれぞれ半身をなし、右が男性、左が女性のヘルマフロ ディートをかたちづくっていた。そのヘルマフロディートは、豪華な螺鈿の平たい玉座に座り、―半 浮き彫りなのだ―金色の頭は兔の頭だった。そのふたつの耳はまっすぐに立ち、たがいにぴったり くっつきあって、開かれた本の両方の頁のように見えていた―(同)
帽子を差し出した「ぼく」は、「開かれた扉」の向こうに、ペルナートとミルヤムを見ることができた。が、ペルナートが振り返り、「鏡のなかにぼくを見ているのではないか」と思った「そのとき門の扉が閉じられた」(367~368頁)。帽子は元の持ち主に戻り、「ぼく」は決して庭に入ることが出来ない。夢の中では旅立とうとしても内部を漂うことしかできなかった「ぼく」は再び世界に入ることは出来ない。扉が開かれ、帽子が手渡されると同時に、語り手と主人公とのただ一度の会合がなされるが、開かれた世界は、扉と共に閉じられる。「扉」はフィクションの構成、語り手の意識、そして読み手の意識を結び、そして閉ざすものとして、小説空間で重要な意味を帯びる。
引用文、頁数は、以下による。
・マルグリット・ユルスナール 岩崎力訳『ユルスナールセレクション2 黒の過程』(白水社、2001年)。
・京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社文庫、2001年)。
・グスタフ・マイリンク 今村孝訳『ゴーレム』(河出書房新社、1978年)。
小学校の時の教科書に、あまんきみこの『名前を見てちょうだい』という話が載ってたんだけど、帽子の裏の名前がモチーフになってたのね。大事な大事な帽子の裏に、名前を書くんだけど、帽子が飛ばされて、いろんな動物の手に渡る。で、その度に主人公は、「名前を見てちょうだい」、っていうんだけど、なぜか帽子の裏の名前は相手のものになっていて。最後に、巨人に出会ったときに、主人公は怒って大きくなって、これは私の帽子よ!って主張する。そうしたらちゃんと帽子の裏の名前は自分のものに戻ってて、帽子がやっと自分の手に戻った、という。
これ、よく分からない話だな―、と思ってたんだけど、『ゴーレム』を読んで、ああ、これかあ、と思ったんですよね。
つづく。