人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

うちに子犬ちゃんがやって来ました。

2013-06-15 03:56:49 | 犬・猫関連
うちにまた子犬ちゃんがやって来ました。
三匹(写真に写ってるのは二匹ですが)。


 薄茶にグレーがかった黒鼻の子と、白に茶斑と、ベージュの子。
 ひと月ちょっと~1ヶ月半くらいなので、ちょうど扱いやすいくらい。里親さん探すのにも多少は余裕あるし、自分で御飯食べられるようにはなってるので(ミルク飲ませなきゃいけないと、大変なんで)、さほど手間かからないし。里親さん探しは持ってきた人(保護主さんとはまた別。里親探しの活動とかしてる人)がしてくれるんですが、この子たちはたぶんすぐ出るだろう、って言ってました。そういえば保護主さんがスイカくれたって、持ってきた人がくれたんですが、うちも母と2人だから絶対食べられないし、あれ、どうするんだろう。

 あんまり手間かからないとは言え、いろいろしなきゃいけないことはあるので、ちょっと疲れました。
 明日は1日お仕事だよ~。

2013年度中古文学会春季大会2日目に行って来ました!

2013-06-10 13:04:07 | 学会レポ
 昨日は学会(中古文学会)に行って来ました。本当は土曜日と日曜日の2日間なのですが、土曜日も参加するには仕事の都合がつきにくいと思ったので、日曜日だけの参加にしました。
 自分の発表でもないんで、お金をけちって夜行バスで。だって、ふつうに新幹線で行くと、4~5万かかるんだよ(東京って遠い)。行きの夜行バスは、ともかく寒かった!

 会場は学習院女子大。最寄りの駅は西早稲田駅ですが、あの辺りは10年ほど前にちょっと住んでいて土地勘もあるし、時間もあるし、東京駅からは東西線で早稲田駅に行くのが一番乗り換え少なそうだったので、早稲田駅から歩くことにしました。それでも早すぎたので、早稲田駅近くのあゆみブックスで時間をつぶす。不意に「いま革命が起こっているらしいよ」という声が飛び込んでくる。え? 何のこと?
 ずっと気になっていたリピット水田堯『原子の光(影の工学)』を発見したので購入。装丁もきれい。この本、原著は震災より前に出されてるのね。

 時間があるので会場まではのんびり歩きます。9時10分ごろに到着。門を入るときに、守衛さんに呼び止められちゃった。まだ早いけど、結構人います。やっぱり便利な場所だから、人多いのね。中古は例年オーソドックスなダークスーツが多いけど、今年はさすがに暑かったせいか、若干ラフでしたね。女性は特に、ワンピとか、ひらっとしたスカートの人も。

 なぜだか知り合い数人から、「痩せた?」って言われてしまう。痩せてないです。
 ひょっとしたら、やつれたとか、ふけたとかってことなのかな? そうは言えないから「痩せた」って言ったのかも。私もう32(もうすぐ33)だから、ふけても当然なんだけど。どういうわけかみんな(ドラえもんか何かのキャラクターのように)私は歳をとらないと思ってるらしいから。

 午前中の発表は、朝一2本、休憩を挟んで1本の、計3本。『源氏』の発表をまとめたようです。
 朝一の青木慎一さんの発表は、『源氏物語』夕霧の童殿上について、史実上の童殿上から意味づけたもの。きれいにまとまった発表でしたが、どうやらご本人、ネクタイのほうが気になるもよう。オーソドックスなのは似合わないけど、発表の場であまり派手なのはつけられないから、とか何とか。青木さんは研究の手法も堅実だし、いかにもまじめな雰囲気の人(だって夕霧だし)だけど、やっぱりその辺私立文化だなあ…、と感心してしまいました。

 2本目は朧月夜と玉鬘に関する表現上の重なりを丁寧に考察したものでしたが、意味づけの部分がちょっと弱かったかな。『源氏物語』にはほんとうに表現上の照応が多くて、それもさまざまな照応の仕方があるので、どう意味づけするかがほんとうに難しい。

 休憩を挟んだ3本目は、「くだもの急ぎにぞ見えける」という表現を、(教養のない)浮舟に傾斜する薫と、(教養のある)大君の側にひきとどめようとする弁の尼との攻防として読み解いたものでしたが…。この内容だとやっぱり、「食欲=性欲」って印象になりますね。一緒に話してたMさんは、そういう論文あった、って言ってたけど。確かにありそうだし、あったかも知れない。
 ついでに「琴をおしやりて」っていうの、源氏と女三宮にもあります。試楽の後の場面。女三宮がまだ一生懸命琴の練習をしようとするので、源氏が琴をおしやりて一緒にお休みになった…、っていう。琴=恋愛関係の表象が壊れてる、って私指摘したことあるんだけど、浮舟についても言えるのかな…?女三宮の場合は、教養がないとかではなくて、そもそもそういう発想がないんですが。

 午後は『狭衣』で2本(珍しい)と、伝本系の発表が2本。1本目は『狭衣』の『伊勢』引用から、禖子内親王との関係を考察したもの。どうなんだろうなあ…、私『狭衣』はほんと読むのがしんどくて、なかなかちゃんと読めないから、何とも言えないんだけど。

 2本目の千野さんは発表も上手。ちょっと早口だったので緊張してるのかなと思ったんですが、内容的にぎゅうぎゅうだったみたい。『狭衣』の一品宮に関して、『源氏』の落葉宮からの引用を指摘し、物語展開の手法として位置づけたものでした。
 ひとつ思ったのが、『狭衣』の「うわさ」は物語を動かしてゆくが、手紙は物語を動かさない、ということに関して、単純に「うわさ」(話し言葉)と「手紙」(書き言葉)という問題なのか、ということ。というのも、『狭衣』における「うわさ」は、まったく関係ないところに噂が立つ、と言っていたから。ひょっとしたら「うわさ」がフィクションだから物語を動かし、『狭衣』における「手紙」が事実を書くものだから、物語を動かさないのではないか。つまり、フィクションが物語というフィクションを動かし、事実はフィクションを動かさない、ということではないのか。その辺の、「うわさ」と「手紙」、フィクションと事実との組み合わせはどうなってるのかなあ…、ということを感じました。
 休憩を挟んだ最後の発表は、疲労から撃沈。すみません…。

 学会には本屋さんが来て、本が二割引になるのですが、人ごみが苦手な私はどうも買えないことが多いです。今回もとりあえず目録だけ貰って帰ってきた。

 帰りは高田馬場駅から乗りました。途中でかわいい文具屋さんを見かけたので色々購入。3000円くらい使ってしまう。くじをやっていて、新宿区の商店街で使える100円券が1枚だけ当ったのだが、当然使うあてはないです。

 浅草橋までJRを乗り継いで夜想の展示室に行ってきました。途中でゴスだったりロリだったりする女の子をちらほら見かけ、きっと私がいまから行くところから帰ってきたんだろうな、と思う。私みたいなダークスーツは、あそこだと却って浮くんだろうな。入るときに今野裕一らしき人と遭遇。今やってる展示は『毒姫』展、カフカトリビュート展、hippie coco's planet展の3つ。

 カフカトリビュート展が気に入りました。hippie cocoさんのぬいぐるみは、ふつうに可愛いのもあれば、ちょっとゴスっぽいのもありました。球体関節人形でも縫い目が入ったものが増えてきてたから、最近は関節よりも「縫い目」がフォーカスされてるのかな。
 返品された『夜想』を安く売ってたので、購入。

 帰りのバスは新宿から。バス乗り場の近くに紀伊国屋ができてたので、閉店時間の20時30分まではそこで時間をつぶします。森見登美彦の『聖なる怠け者の冒険』が出てるのを見かけたけど、たぶんこれは近所の本屋さんにも入るので買わない。
 帰りのバスは寒くなかったです。座席の関係なのか、空調を弱くしてたのか。インターチェンジのトイレが、帰りよりも行きのほうがなぜかきれいだった。

 今回のお買い物。


 これに行ったはずなんだけど…なぜか

お人形と乳房

2013-06-03 22:47:55 | 人形論(研究の話)
 今朝やっとごんちゃんの首輪つけられました。(ごんちゃん的に一方的に)仲の良いわんこたちを一緒に庭に出してやったら、テンション高くなって遊んで警戒心が緩んだので。そのあとはすっかりいつもどおりの感じで、甘えたれです。

久々に、お人形ブログらしく、人形ネタ。球体関節人形の乳房に関する、疑問をつらつら書いてゆきます。とくに解答があるわけではないんですが。

 日本の球体関節人形って、たいてい乳房の膨らみが控えめなんですね。これ、人形だからそういうものだと思われる方も多いかもしれませんが、人形作家さんたちが大きな影響を受けたハンス・ベルメールの人形の場合、結構胸大きいです。乳房とお尻とが交換できるぐらいなんで。
 日本人の特殊な嗜好なのだ、と考えてみても、日本的なマンガやアニメーションの世界は、童顔でも胸の大きなキャラクターにあふれているので、日本人がとりわけ貧乳好きだ、というわけではないと思います。
 ついでに言っておくと、ハンス・ベルメール的なフェティッシュな細部の増殖って、現代の(女性がつくる)お人形よりも、二次元芸術の方に多く見出だせるような気がしますね。「スーパーフラット」とかって、称揚されてたような。
 
 理由はよく分からないんですが、日本の球体関節人形が乳房の小さなものとして始発したことは、ゴシックロリータで拒食症的な女性の自己像を託すアイテムとして発展する大きな原動力になった気がします。

 最近の人形作家さんに、堀佳子さんという方がいるのですが、自分の人形について、ちょっと面白いことを言ってました。

これまで作ってきた機能重視の球体をしんどく感じて、実用でない球体を導入しようと思い、胸に球体を入れたんです。胸というのは女性にとって大事なもので、母性の象徴でもある。それが取り外せるということは、母性から切り離されることが可能ということですから、これは少女で、しかも人間的というより機械的な少女だなと感じたんです。
                     (「堀佳子インタビュー」『別冊Dolly Dolly 少女人形』2004年10月)


 ハンス・ベルメールのようにフェティッシュの対象としているのではなく、客体としてではなく、人形の側に立ってものを見ていることが分かります。球体の入った乳房は、取り外し可能なものとして、サイボーグ的な身体表象へと通じている。そのようなものが、女性による自己表象の手段となる…わけです。

 最近、アンジェリーナ・ジョリーの乳房切除のニュースがありましたが、そのあと彼女、「再建手術」なるものも受けてるんですよね。とするならば、乳房は取り除くこともできるし、また作ることもできるもの。ここから、いくらでも取り外し可能、取り替え可能な乳房への距離は、あと少しです。

歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その3

2013-06-02 21:30:19 | 書評の試み
 ごんちゃんにはまだ首輪がつけられてません。あんなに甘えたれになってたのに、ちょっとでも追いかけるみたいになると駄目みたい。首輪つけようとすると、どうしても追いかけるみたいになるので。首輪がついてれば、つかまえようもあるんですが。明日は店(1階の店舗で自転車店をやってます)が開くので、仕方ないから小さい部屋のなかに閉じ込めてる。去勢手術の抜糸には、ゲージに追い込んで閉じ込めて行くしかないのかなあ。

 しばらく続きを書いてなかったので、とりあえず「歩行と舞踏のあいだで」まとめます。(→その1その2メモ
 
 『それから』では詩と散文についてのメタフィクショナルな言説があらわれ、目的の場所に歩いてゆく(歩行)散文と、目的もなくただ散歩(遊歩)する詩、と区別される。なおかつ生殖や恋愛は散文的なものである。物語には詩を想起させる円環的なイメージが多出し、生殖をイメージさせる受粉が描写されながらも、三千代の赤ん坊が亡くなったことや、受粉とは切り離された、ただ芳香する白い花のイメージが恋愛物語を動かす。けれども結局物語は恋愛物語であり、いわゆる無目的(反生殖)を目的とした展開を免れ得ているわけではない。
 尾崎翠『第七官界彷徨』におけるコケの受粉や、においの描写はおそらく、『それから』を踏まえているものだろう。反生殖の立場は明確にされないこの物語が、にも関わらず、少女的なものとして成立しえているのは、コケの受粉←『それから』のアマランスのイメージが、反生殖を暗示させるためだろう。加えて、『第七官界彷徨』では詩についてのメタフィクショナルな言説が『それから』以上に多い。はじめから、詩を書くこと、という「目的」が提示されるし、「ひとつの恋愛をしたようである」という物語も提示される。けれども目的を遂行することは詩的ではない。詩を書くことについても、恋愛物語についても、当初の目的はずれにずれ続けるのである。

 前回引用してなかったけど、いま気づいた。三五郎が歌う歌に、「はじめ赤毛のメリイを愛していたジャックが途中で道草をはじめて黒毛のマリイと媾曳をして、そしてしまいにはまた赤毛のメリイが恋しくなったというような仕組のオペラ」(113頁)というのがある、「道草」って言葉が出てきますね。

ごんちゃんの首輪

2013-06-02 11:17:46 | 犬・猫関連
 夜中のあいだに、ごんちゃんが首輪抜けしてしまい、まだ首輪がつけられていません。
 首輪をつけようとしたら怒って噛みそうにしたので、これじゃ全然駄目だ、小さな子どものいるお家に貰ってもらうなんてとてもできない、ってまたなってます。ちょっとでも追いかけるふうになると駄目みたい。
 結局、うちで飼うことになるのかなあ…。せっかくいい人がすごくほしがってくれてるのに…。