堀内宗心『私の茶の湯考』世界文化社
「第6章 私と茶ごころ」より抜粋
わび茶の原点に帰れ
(p225)
21世紀の茶の湯ということを考えるうえに
茶の湯、道具、稽古の一体化への努力ということが
必要であります。
(p226)
わび茶の本義は道具一種に徹することであると
私は申しておりますが
他の道具は多少軽いものであっても
寄せて茶事をするということは
その人の見識と力量によることであります。...
そのような道具では満足できないという人があれば
そういう人は客に呼ばなければよいだけのことであります。
懐石は一汁二菜が原則
(p227)
茶事の食事というのは、濃茶をいただくための
必要十分な食事を用意することで
いくらもてなしといっても
過剰の食事と不必要な時間の浪費は
慎むべきことであります。
真のわび茶
(p236)
わび茶といえば
今日ではどちらかと言えば草葺きの屋根の下で
さびかけた茶碗でもひねくっているような
いわゆるわびたる風態であることをわび茶と考え
考えさせる傾向がありますが
むしろこれは形の上のわびと考えるべきことで
私がかねてわび茶の原点として強調してまいりましたように
村田珠光の原点にかえって
精神的な意味において
わび茶のあり方を考えねばならないということであります
わび茶には
大いなる勇気が必要であるのであります。
利休が草庵の茶室を推進し
楽茶碗を登用したということにも
非常な勇気が必要であったはずであります。
この点が
わび茶といわれる点なのであります。
後生の茶人が
その形だけをまねてわび茶と称するのは
死んだわび茶というべきであると
私は考えます。
※この最後の一文は
とても厳しい一言に感じます。
肝に銘じて・・・と言いたいところですが
わび茶の幼稚園児としましては
まずは
先人を真似ることから
始めるしか進路は見つかりません。
エセ侘び茶人の非を認めつつ
いつか真の侘びに近づけることを願い
令和元年の秋
橋を渡り
小さな船を漕ぎ出して参りたいと思います。
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tomoko
雲や
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