第13回目は、都市内分権を考えた。
都市内分権という言葉は、いろいろな意味で使われるが、広義では、自治体の行政区域を分けて、各区域に一定の権限移譲を行うことをいう。その背景としては、合併が進み、その結果、市域が広すぎ、あるいは地域ごとの違いが大きく、ひとつの自治体として画一的な政策を行うことが、必ずしも適切でなくなってきたことがある。わが相模原も、大学がある南区と、旧藤野町、相模湖町、城山町がある緑区とは地域の様子がずいぶんと異なる。
都市内分権の流れは、さかのぼれば、社会構造の変化を受けてのことである。転換点は1990年に入ってからだと思う。1990年というのは、まさに転機で、日本が青年期から、中年期に入った時代だと思う。ずっと面倒を見てくれた親父が、いよいよ目一杯になり、子どもが自立しなければいけなくなった時である。
ここに子どもとは、国との関係では地方自治体であり、地方自治体のなかでは地域の住民である。親の役割は、実際に手を差し出して面倒を見るのではなく、親父セーフティネットをつくり、子どもの自立を応援するのが役割になった。それが地方分権でもある。
地方分権は、国、県、市町村の関係を再構築するだけでなく、その市町村の下にぶる下がっている地域団体を再編成することになる。国の省庁担当課別の縦割りは、実は、県、市町村だけつながっているのではなく、さらにその下の地域団体までつながっているので。それを地域ごとに再編成、再構築するのが都市内分権である。
都市内分権では、必然的に、地域に権限や資源を割り当てることになる。これがうまくいくかどうかは、当然、地域の力量次第である。したがって都市内分権で本当に議論すべきは、どのようにすれば、地域が都市内分権を担えるようになるか、その仕組みをつくり、研鑽をつむことだと思う。
ただし、私の授業であるから、国、県、市町村という垂直的統制関係が、実際、どのようになっているかを示すのに、国の担当が主催する全国大会、その後の懇親会の様子で説明することになる。
実を言うと、横浜市にいたので、国、県、市というの縦割りで仕事をしたのは、都市計画の企画調査課にいた時のみである。その時の全国大会は、北海道の十勝川温泉であった。午後に受付て、国の説明があり、大学の先生の話を聞き、その後、懇親会になった。ちなみに翌日は、サケの遡上場の見学だった。
授業では、大宴会における座席につくり方、席順、私の位置(国出身の田中先生と私の席の違い)などを説明することになる。それまで、横浜市で、わが道をゆく政策づくりばかりしていたので、この都市計画時代の全国大会という手法が、あまりに印象的だったので、授業の中で思い出して、披露に及ぶという仕儀になった。
もう20年も前のことであるが、今日でも、まだあるのだろうか。私のなかでは、懐かしい、微笑ましい体験として残っている。