土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

必要なのは、平和への検証 (前編)

2013-06-07 17:47:29 | 誇るべき日本の歴史

土佐のくじらです。
今日も歴史を綴って参ります。

なぜ歴史を学ぶ必要があるのか。
それは、過去の事例から、現在そして未来における、国家の方向付けの判断の機軸を得るためです。

残念ながら現在の左翼的教育では、それが全くできておりません。
イデオロギーを叫ぶだけで、何事も事実から学べておりません。

歴史を学ぶに当たっては、戦争という不幸な事実から、どうしても眼をそむけることはできません。
悲しいですが、それは人類の歴史は、戦争の歴史でもあるからです。

しかし、その事実をつぶさに学び、真に教訓を得ることによって、戦争により生命を失ったり、
悲しいつらい人生を歩まざるを得なかった方たちが、本当の意味で浮かばれると思うのです。

飛行機事故でも、自動車事故でも、医療事故でも、はたまた、昨今話題に上っている原発事故であっても、
事実の検証なしで、更に高度な付加価値を生む選択はできません。

医療事故があるからといって、病院そのものをなくしてしまうことが、果たして正しい判断でしょうか?
たとえば手術ミスがあるからと言って、手術そのものをなくしてしまうことが、人類にとって幸福な選択なのでしょうか?

私はそうは思いません。
なぜなら、そういう判断では、手術で亡くなる人は、いなくなるかも知れませんが、
今度は、手術ができなくて亡くなる方を、大勢作ってしまうはずだからです。

同様に、戦争の不幸を本当の意味でなくしたいと思うなら、
歴史の事実の積み重ねから眼をそむけることで、その願いが適うことはありません。

むしろ戦争の歴史を検証し、なぜ戦わなければならなかったのか、なぜ、ある時は勝ち、ある時は負けたのか。
勝った時にどうすれば良かったのか。
また、どうすれば負けなかったのか。
そしてどうすれば、あんなひどい負け方をせずに済んだのか。

これが検証されなければ、戦争で死んだ多くの諸先輩方に、申しわけないと私は思うのです。
それが本当の意味での、平和教育というものではないでしょうか。
これをしない限りは、平和主義でも平和教育でも何でもなく、ただの思考停止であり、判断の拒絶です。

刻々と流れる時間の中で、そして変化する社会の中で、思考停止や判断拒絶を続けていれば、
本来やらなくてよかった戦いを、むしろしなくてはならない選択に、国民が追い込まれることだってあるのです。

それが、最も不幸なことなのではないですか?
それは歴史を検証すれば、そういう事例で満ち溢れているから言えるのです。

左翼教育では、それが問題なのです。
今の歴史教育では、そのことがきちんと検証されていません。

故に、左翼教育こそ危険だと思います。

私が検証する限り、今の日本を取り巻く状況は、明治維新~征韓論ころにとても似ています。
そして日清・日露。太平洋戦争を合わせたくらいの、国難フラグを認識できます。

今日本に必要なのは、平和への真の検証です。
そのために今の日本人は、自虐史観の脱却し、冷静な眼で自国と他国を分析する必要があると思います。