土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

東京裁判をやりなおせ!

2013-06-25 17:52:42 | 誇るべき日本の歴史

 

                                                    (靖国神社境内 バール判事石碑)

土佐のくじらです。

ブログ開設以降、長々と明治以降の戦争歴史に対する、私の個人的見解を述べてまいりましたが、
いよいよ、それも終盤になろうとしております。

日本は敗戦国となるのですが、その後の日本に、大きな影響を与えたものが、
終戦の翌年から始まった、極東国際軍事裁判、通称、東京裁判です。

この裁判が意味するものを申しますと、

戦勝国の連合国側こそが、民主的国家の陣営である・・・。
連合国側こそ、解放者なのである・・・。というイメージ戦略を、さも合法的なスタイルをとって世界にアピールし、
記録=史実として残した、歴史の勝者の一大キャンペーンだと言えます。

かつての日本の鎌倉幕府が、庶民レベルで人気の高かった平清盛に対して、
清盛悪人説を定着させるために、「平家物語」をつくり、琵琶法師を組織的に使って全国流布させたように。

歴史は史実です。
歴史は勝者がいくらでも書けるので、このように、全くあてにはならないのです。

連合国=民主主義的国家=民主主義的解放者を演出するその対比として、
日本が独裁的軍事国家であって、非人道的な振る舞いをしたことをことさら熱弁し、
その反対意見を、全く聞き入れなずに、行われたものであります。

これは、言葉の上では、「裁判」という、さも民主的手続きをとってはおりますが、完全な報復であり勝者のリンチです。

最後はアメリカの完全勝利と言われますが、アメリカ兵の死者は40万人にも及びました。
またイギリスを始め欧米諸国は、東インド以東のアジア植民地を失いました。
当時の、日本に対する恨み心は理解できます。

しかし、報復なら報復、リンチならリンチを、堂々とすればよろしいのです。
連合国こそ、野蛮人だったのですから。

裁判・・・という、一見きれいごと、民主的手法に則って行っているように見せるところが、
いかにも、狡猾な侵略者っぽくって、私は当時の白人が大っ嫌いです。

この東京裁判の、何が問題なのか。

1、A級戦犯を裁く「人道に対する罪」と「平和に対する罪」、この二つの新しい犯罪規定については事後法です。

昭和19年から、アメリカが急遽作成したものです。この2つに関しては、少なくとも昭和19年以降の事項に限り有効です。
事後法裁判は無効です。そうでなければ、民主的とは言えません。

2、反対意見を聞き入れないのは、恐怖裁判です。

GHQは占領下の日本に、プレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行いました。連合国や占領政策に対する批判や、東京裁判に対する批判も封じました。
裁判の問題点の指摘や批評は排除され、逆にこれらの報道は、被告人が犯したといわれる罪についてだけが、大々的に取上げ繰返し宣伝が行われたのです。
そして、イギリス領インド帝国の法学者・裁判官パール判事は判決に際して、「意見書」、通称「パール判決書」を発表し、 事後法で裁くことはできないと、全員無罪を主張しましたが、聞き入れられませんでした。パール判事は、1952年に再び来日 した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」とコメントしています。

3、連合国側の国際法違反を問わない、極めて不公平な裁判です。

この裁判では原子爆弾の使用や、民間人を標的とした無差別爆撃の実施など、連合国軍の行為は対象となりませんでした。

4、東京裁判の証人に、偽証罪は問われていません。

満州皇帝溥儀は、戦勝国ロシアに言いくるめられて、嘘の証言をしたことを、その後の自伝に書いております。
この時に、「南京大虐殺」などの日本軍非道説が、雨後の筍のように出てきたのは、「裁判なのに、嘘を言っても構わなかったから」です。
つまり、敗戦国日本を悪者にし、戦勝国である連合国を、ただ称えるためのセレモニーを、裁判という形で歴史に定着させたのです。

5、昭和天皇と日本国民全員を人質にとって行われた、極めて卑怯な裁判です。

まぁこれは、言わずもがな・・・ですよね。
 
6.東京裁判を日本が認めることを条件に、日本の独立はなされました。

日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条で、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の 他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するもの とする・・・。とあります。
つまり、「日本よ、占領を解いて欲しければ、東京裁判を認めよ。」ということです。
日本の独立は、日本が侵略国家で、卑怯で、非人道的な歴史を抱えることとは、実はセットメニューだったのです。

7.東京裁判は、連合国=民主主義国家=解放軍という演出です。
 
世界人権宣言第11条には、「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。」とあります。
東京裁判は、1948年(昭和23年)11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了したが、世界人権宣言は、その直後の1948 年(昭和23年)12月10日の第3回国際連合総会で採択されました。
つまり、東京裁判の判決は、世界人権宣言の採択に間に合わせる形で行われたのです。


ともあれ東京裁判は、裁判という名には、全く相応しくありません。
これがもし、本当に裁判ならば、今中国で政治犯に行われている裁判を、アメリカは非民主的だと非難する資格はありません。

本当に民主的国家の世界ならば、東京裁判はやり直すべきです。
その時には、ぜひ拙ブログ、「誇るべき日本の歴史シリーズ」を、参考にしていただければと思います。



99頭の白ライオンと、1頭の金象の戦い。(第2次世界大戦総括と真の教訓)

2013-06-24 18:28:45 | 誇るべき日本の歴史

土佐のくじらです。
2回続けて国境線ネタでしたので、読んでくださった方は、つまらなかったかも知れませんね。(笑)

私は地図を見るのが大好きで、何時間眺め続けても飽きないのです。
現代の地図は、様々な国家があります。
約200カ国あるそうですね。

しかし第2次世界大戦時の国家の数というのは、わずか30カ国ほどでしかないのですね。
その内、黄色人種の独立国というのは、日本と中華民国、満州国とタイ王国ぐらいでした。
世界の国々の大部分は、白人系国家によって占領され、植民地となっていたのです。

当時の地図は、今とは随分と違う様相でした。
まさに全世界が、白人系の人々による支配傘下に収まる直前でした。

侵略的な思考というのは、肉食獣的な発想と行動を伴います。
当時の植民地獲得競争の覇者、白人系社会は正に、肉食獣の王者ライオンの群れと言えます。

餌を取るためのテリトリー拡大のための動きからして、「白ライオン」の群れとたとえるのが正しいと思います。

一方私の見解では、当時の日本は、国防軍的思考の国家です。
国境線を厳密に守る国民性もあり、そういう意味で日本は、草食獣の王者「象」のような国家だったと思います。
当時の勢力図から言って、99頭の白ライオンと、一頭の金象との戦いが、第2次世界大戦の姿でしょう。

もちろん、狡猾なハイエナ(ナチスドイツ)や、陽気なジャッカル(イタリア)も金象の仲間でしたが、
彼らは、自分たちの周囲の縄張り争いに終始していたようです。
本来仲間であったはずの、パンダ(中華民国)は、白ライオンにいいようにあしらわれていました。

金象には、浮気性の豹(朝鮮)や、老いたサイ(満州=旧清国)が仲間でした。
以前に、老いたサイから養子入りした子サイ(台湾)は、とても筋の良い子でしたが、まだ乳飲み子から脱したばかりでした。

そういう状況下に、第2次世界大戦の世界はあったのです。
金象は果敢に戦いましたが、飢えと疲労(石油不足と長期戦)に苦しみ、結果は負けてしまいました。
肉食獣はとても狡猾で、正々堂々と戦う金象を、じわじわと効果的に弱らせていったのです。

先の大戦が、世界からの石油の輸入禁止にあると私が言っても、
「あんな無謀な戦いをするくらいなら、世界に屈服すれば良かったじゃないか!」とおっしゃる方もいるでしょう。
しかしそうなれば、日本人は白人の侵略社会から、二度と逃れることはできなくなるのです。

屈服すれば日本人ということだけで差別され、搾取される未来が待ち受けていました。
そのときは、そういう時代でした。

いや、現代を生きる日本の方々に申し上げます。
これは、過去の昔話ではありません。

中華人民共和国というのは建国以来、周辺諸国周辺諸国を侵略し続けています。
満州、内モンゴル、ウイグル、チベット・・・

1949年の建国以来1980年まで、その活動をやめませんでした。
貧国でありながら、核兵器や大陸間弾道弾を製造し続けました。
彼の国は完全な、侵略国家的な遺伝子を持つ国なのです。

そして彼らは、漢民族でない・・・という理由だけで、侵略した土地の人々を差別し、搾取する対象とし続けているのです。

彼の国がもし、尖閣を占拠し、沖縄や台湾を併合すれば、日本の石油輸入ルートは中国が握るようになります。
戦前と同じ状況が、日本人に訪れるようになります。

歴史的に、草食獣の王者は日本です。
日本は警戒と準備を怠らず、なおかつ毅然とするべきです。
そして、やるべき手立てを、やるべきときに打つべきです。

平和ボケや、過度の恐怖は侵略者の思う壺です。
平和ボケしていたり、恐れて逃げ惑う草食獣の群れほど、肉食獣にとってねらいやすいものはないからです。

彼ら(肉食獣=侵略者)は、自分たちより強い相手は狙いません。
相手が強ければ、弱くしてから狙います。

かつての侵略者たちが、強い日本を、ABCD包囲網で弱くさせたように。

彼らの野望を諦めさせるのは、彼らより強くあることです。
そして彼らのかく乱(自虐史観や日本侵略国家説等々)に、惑わされないことです。

日本人には、国防以外の興味はありません。
それは歴史を精査すればそうなります。

日本人には国防と、それに伴う安全しか興味はありませんが、
しかし時には、肉食獣(侵略者的思考)にも学び、戦略的に国防できるよう、大きく脱皮するのも一考ではないかとも思います。

国防においては、負けは許されないのですから。
繰り返しますが、絶対に負けは許されないのです。






欧米の引いた国境線に関する迷惑な話

2013-06-24 11:05:25 | 誇るべき日本の歴史

土佐のくじらです。
国境線に関する話題をもう一つ。

世界地図を見ると、各国のを仕切る国境線が書いてあります。
それは大抵のところでは、山地の峰伝いや、大河がそれを兼ねているところが多いと思います。

それは、軍事境界線であり、同時にそこに暮らす人々の生活圏でもあります。
ですから国境線は通常だと、まっすぐにはなりませんね。

しかしアフリカ大陸の国々の国境線では、まっすぐなものが多いです。
またアメリカ合衆国とカナダとの国境線や、アメリカやオーストラリアの州境線は、ほぼまっすぐな形をしています。

これらはなぜかと申しますと、あらかじめ地図を広げて、サァーーーーーと、大雑把に引いたものなのですね。
これらを引いた者は、ここに最近入植した人ですね。
大きな地図を見る知識があるますからね。

そう、このまっすぐな国境線を引いた人たちこそ、これらの地域を植民地化した侵略者たちなのです。
まっすぐに引いた国境線は、現場ではほとんど無意味です。

なぜなら、当然その間には高い山があり、大きな川もあるからです。
これらは人の行き来をかなり妨げますので、山や川を越えて生活することはないからです。

ということは、まっすぐに引かれた国境線が意味するものは何かと申しますと、
「そんなものは、事実上無意味だ。」ということなのです。

つまり、占領地の大まかな線引きというのは、あらかじめにとりあえず決める、適当な振り分け程度のものであって、
実際には、その時々の軍事境界線が、我々の取り分だ・・・ということです。

現地地理の緻密な調査すら、費用がもったいないとも取れますしね。

つまり、初めからビジネス的な侵略的経済を前提としていない限り、まっすぐな国境線というものは引けないのです。

国境を定めることを、その中における自国の自由と安全の国際的担保・・・と、日本人なら自然と思い描いてしまうのですね。
それは江戸時代初期から続く、日本特有の国境概念です。

ですから、大韓帝国独立の際にも、満州国創立の際にも、緻密な生活圏に根ざした国境線を引いております。
ここには、国境内の自由と安全の担保の思想、国内の充実の思想はあっても、侵略の思想は出てこないのですね。

そして、そういう国境概念を持つ日本人は、国境からは出ないのです。
自由と安全が担保されませんし、国境から出る=悪となるからです。

つまり、ここが日本侵略国家説が間違っている大きな証拠です。
日本人は元々、侵略を発想しないのです。

昔の古い侵略的な世界世論=白人社会の当たり前とは、日本人の概念がかけ離れていたのですね。

ともあれ、この白人系侵略者たちが、全世界に勝手に引いた国境線が、いまだに禍根を残しております。
それはアフリカ大陸諸国で今も続く、部族間構想の火種になっているからです。

まっすぐな国境線だと、現場レベルでは生活圏を無視したものとなります。
生活圏を無視した国境による国家設立は、仲の悪い部族通しの国家ができたり、各国で少数部族が多数排出されることになりますね。

大抵、隣通しの国や部族というものは、世界どこに行っても仲の悪いものです。
となると、国内で内乱の火種を、アフリカ諸国は最初から持たされた結果になっているのですね。

かつての植民地時代に、侵略者である白人が勝手に引いた国境線は、
今もアフリカ諸国民に、多大なる不幸の影を引きずらせているのです。

これが、本当の侵略の歴史の禍根というものです。
彼らはこの歴史的事実をきちんと認識し、反省してアジア・アフリカ諸国民に詫びるべきです。


日本と世界の、国境への感覚の違いについて。

2013-06-23 14:38:12 | 誇るべき日本の歴史

土佐のくじらです。
今日は少し、趣向を変えて。(笑)

さて皆様は、「国境」という言葉に、どういうイメージをお持ちですか?

国境とはその名の通り、国家の境ですけど、
日本人がイメージする国境と、世界の人々がイメージする国境とは、微妙なズレがあると、私は思うのですね。

かつては、そう、第2次世界大戦以前には、今よりももっと明確な「ズレ」がありました。

日本人がイメージする国境というのは、「国民の生活圏」だと思うのです。
日本国民が、自由に行き来して良い地域・・・とでも言いましょうか。

もっと厳密に言うと、「日本人の生活圏で、かつそれを、日本国や世界が認めている範囲。」と言えると思うのですね。
一方、世界で言う「国境」のイメージというのは、「防衛圏」だと思うのですね。

自国軍が、手持ちの軍勢で、他国軍を追い払うことのできる範囲ですね。
言い換えれば、「軍事境界線」が「国境」なのです。

しかしこれは、近年の世界では、随分と日本に近い感覚になってきました。
今では多くの国々が、日本では当たり前とも言える「国境観」を持つようになりました。

私がこういう言い方をするのは、この現代的な国境への感覚を、最も古くから持っていたのは、他ならぬ日本人だからです。
第2次世界大戦までの世界は、完全な、国境=軍事境界線でした。

大事なのは、それまでは現代のような、厳密な国境への意識を持っていたのは、世界では日本人だけだったということです。
ある意味で世界は、日本化したのですね。
なぜそうなったかは、また後日ご紹介いたします。

さて、戦国時代が終わるまでの日本人は、世界共通の国境への概念、国境=軍事境界線でした。
しかし徳川幕府によって、国内の幕藩体制が推し進められると共に、年貢の取れ高を決める上で、とても重要な国境(くにざかい)を決めましたけど、
その時に決まった国境(くにざかい)が、今の日本人の、国境への基本概念を決めたと私は思います。

この時に徳川幕府は、各藩の国境(くにざかい)を、山の峰や大きな川で仕切りました。
それは今でも、都道府県境にその名残を残しています。
大抵の都道府県境は、山の峰や河川ですからね。

山の峰や河川は、戦国時代までの軍事境界線でもありました。

しかし、その後徳川幕府は、藩通しの流通や、勝手な戦を禁じたので、その後長きに渡って続く江戸時代により、
その藩の国境(くにざかい)がそのまま、領内の人々の生活圏になっていったのですね。
こうして日本人の国境への意識は、長期間に渡って、ごく自然に形成されたのですね。

つまり、現代的国境観とも言える、「生活圏+それを、その国や世界が認めたもの」という概念の元は、
日本の江戸時代なのです。

これを明治以降の日本人は、海外に新しく得た朝鮮などの領地や、日本の後押しでつくった、満州国においても適応させてしまいました。
元来の日本は、海に囲まれた国ですので、他の国々との国境への対応に未熟なところがあると思います。
ですから、現代の皆様が普通にイメージするように、「世界の国々の了承を得た地域。」として、韓国を独立させたり併合したり、満州国を創設したりしていたはずですね。

当然明治以降の日本人は、「世界が定めた国境ならば、当然日本人の安全と権利が保証されて然るべきである。」と思ったはずです。

しかし、ところがどっこい、当時の世界の人々の感覚では、日本人が持つような、厳密な国境という概念はないのですね。
あくまで当時の外国人は、軍事境界線=国境なので、目に見えない国境なんて、おかまいなしでどんどん進入してくる訳ですよ。

今の尖閣諸島沖の、中国漁船問題みたいな事例は、あちこちで多発していたはずですね。

ですから、朝鮮を独立させれば、国境線も同時に確定するはずだ・・・という、明治日本の読みははずれたと思います。
そこで、大韓帝国創設→日韓併合→満州国創設と、日本的価値観で押し広げたのだと思いますね。
いずれも、当時の国際社会の信認は得ておりますのでね。

我々はつい、現代の国々の感覚、地図で惹かれている、国境線の枠国の中の国々という、現代的感覚で思考してしまうのですけど、
当時と今では、一つ一つの物事への考え方が、全く違うということを前提に議論しなければならないと思います。

とまぁ、長々と書きましたけど、この日本と世界の国境への、感覚の明らかな違いなども、
当時の日本が、侵略国家ではなかった証拠であると私は思っております。









日本の、前代未聞の負けっぷり。(石油がなければ、結局は負け。)

2013-06-22 11:44:01 | 誇るべき日本の歴史

土佐のくじらです。

私は今では、すっかり歴史ファンですが、昔はそうではありませんでした。
学校で習う歴史の授業は、面白いとは思わず、どちらかと言えば嫌いでした。

しかしある時から、「世界から何とか、戦争をなくせないものか。」と思い始め、歴史を学びなおす必要性を感じたのです。
戦争をなくすには、戦争の歴史も学ばなければならなかったのです。

私は偶然それにたどり着きましたが、よくよく考えてみれば、これは必然だと思います。
戦争の歴史や、歴史の教訓に眼を背けるだけでは、真の平和は遠ざかるのみです。
病気の研究なくして、健康にはなればいのと同じです。

さて、先の大戦で日本は大負けしましたけど、この負け方は通常の戦争ではあり得ないパターンとなっております。
それは、日本本土が守られていない・・・ということです。
これは、通常では考えられない陣形です。

戦争末期に日本は、B29の空襲などを、頻繁に受けるようになります。
この時点で、日本本土には、軍の上層部と国民を監視する憲兵くらいしか残っておりませんでした。
実働部隊のほとんどを、海外の戦地に送り出して、戦い続けているのです。

通常ですと、本土決戦に備えて、外地から兵を引き上げるところです。
大抵の戦争では、国の中心に行けば行くほど、一番手ごわい部隊で守っているものです。

ですから大抵は、最強部隊との対決は避け、国の中心部から離れた僻地において戦い、
そこで領地を取り合うのが、通常の戦争です。
しかし日本軍はそのようなことをせず、どんどんインド方面に戦線を拡大しています。

たとえば、サッカーで言えば、ゴールキーパー一人を残して、残り全てを攻撃にまわしているようなものです。
将棋にたとえれば、王将一人を残して、あとの手駒全てが攻めに回っている陣形ですね。
そんなのあり得ないでしょう?

サッカーでも将棋でも、ゴールや王将が危険となれば、攻撃陣も退却しますよね。
この時の日本は、これを一切しておりません。
とても、下手くそと言えば下手くそな戦いです。

どうしてでしょうか?
なぜこんな、ムチャクチャな陣形を選択したのでしょうか?

日本がたとえ局地戦最強軍であっても、これでは、”一度局地戦で敗れれば負け”になってしまいます。
事実アメリカは、一つの戦局に、日本軍の3倍の兵士と武器で対応しております。

人海戦術と、圧倒的な物量作戦です。
軍備の性能で劣る当時のアメリカは、この方法で勝ち始めました。
いくら最強日本軍でも、3倍の兵力では負け始めてしまいました。

私はこの日本軍の、不可解すぎる行動は、
当時の日本にとっての、「石油が確保できなければ結局は負ける・・・。」という現実認識、
そのものを現しているのではないでしょうか?

そうとしか思えないし、それだけしかつじつまが合いません。

石油さえあれば、当時の世界最強兵器製造を再開でき、いくらでも動かせます。
さすれば当時の日本軍の、局地戦最強という特徴から言えば、勝ち筋がいくらでも見えてくるのです。

この第2次世界大戦における日本軍の戦いは、現代においても重大な教訓を含んでいると思います。

「石油が手に入らなければ、日本は結局は負け。」
この法則は、今でも全く不変であるからです。


これは、昔話ではないのです。
今、現在、ただ今のことなのです!

今の日本は、東シナ海~アラビア海までの海上ルートで、9割以上もの石油資源を輸入しております。
いわゆる、シーレーンというものです。

もしもこのシーレーンが、日本と敵対する勢力によって、戦前の日本と同様に、民間船が攻撃されるような事態に陥って、
もしも日本に、石油が全く入らないことになったとすれば・・・。

その時日本は、その勢力に屈服するか、しゃにむに石油を取りに動くか、選択肢は二つに一つとなります。
これが歴史から学ぶ、これからの日本の選択です。

シーレーンの安全を、いかに確保するか。
これは現代、そして近未来の日本人にとって、極めて重要な選択のはずです。

これは日本が、石油を重要な産業基盤エネルギー源としている限り、この国と国民に付きまとう宿命です。
ですから日本人は、いつの世であっても、つらい歴史から眼を背けてはいけません。

歴史認識が甘ければ、現状認識も甘くなるのです。

ですから自虐史観は危険です。
これは日本が弱くなれば得をする勢力が、仕掛けた陰謀であると思っておいた方が良いです。
さすれば、つじつまが合うからです。

尖閣諸島は、東シナ海にあります。台湾もそうです。
尖閣諸島は、ただの無人島ではありません。
日本の防波堤です。

防波堤に切れ目ができれば、そこから川の水はいくらでも出てきますよね。
このたとえ話が、多くの方にご理解いただけることを切に願います。

現中国、中華人民共和国は、国家ができて以来、侵略の歴史しかありません。
その点において日本とは真逆の、バリバリの侵略国家の遺伝子を持ち続けております。

日本人はそろそろ、侵略と国防の違いを熟知することが、必要な時代に入ったことを悟らなければなりません。
日本を再び軍事大国にしたくなかったなら、そうさせない手立てを、着実に撃たなければならないということです。