何時ものようにプールに行くと水泳教室のK女史が講習生の出席を取っておられた。
私が側に行き
「お早うございます。Kさんですね?」と挨拶をすると
「あらッ 先週も名前を聞かれたわ」とおっしゃる。
あれッ 先週に名前を尋ねたかな~ァ? と瞬間思った。
「すみませんね~ェ もう 忘れてしましました」
「耄碌寸前ですよ」と苦笑いをすると
「大丈夫ですよ」
「今、私の名前をちゃんとおっしゃったでしょう」と、慰められた。
「もう水泳教室は終わりですね?」
「水泳の記録会は今日ですか?」と聞くと
「先週済みました。今日は総合復習と自由な泳ぎです」と言うことだった。
プールに入るとAクラスの方々の指導をされていた。
最初は講習生にクロールで25mを自由に泳がせていたが、ふと、見ると講習生の中で一人素晴らしい泳ぎを見せている方がいらっしゃった。
前にはお目に掛かれなかった。
実に綺麗なフォームで流れるように泳いでいらっしゃる。
泳法は「ハイ・エル泳法」だ。
ハイ・エル泳法は、そう簡単に出来る泳法ではない。
先ずストリームラインが崩れてはいけないし、確かな身体のローリングが必要だ。
たった10回(一回2時間)の講習会でよくも、アレだけ上手く、なられるものだと感心した。
軽やかな、その方の泳ぎに、つい見とれてしまった。
私は水中歩きに精を出す。
時々講習生の泳ぎを見ながら・・・。
その内に、なんと「蹴伸び」の練習を始められた。
ほう~ォ 蹴伸び(ケノビ)とは?ね~ェ?
これも、簡単なことだが、やれば結構 難しい。
最低でも水中で壁を蹴って、そのままの姿勢で5mは行くものだ。
水泳の選手なら高校生で10m以上は伸びる。
そのタイムも10秒前後である。
私? 私は3mくらいです。(笑)
指導の先生は生徒さんが蹴伸びをする度に水中の姿勢を確認しておられる。
私も気になるので水中から生徒さんの蹴伸びを拝見する。
「蹴伸び」は壁に沿って、そのまま身体を沈め水中で壁に腰を掛けるような姿勢(身体は底面の床と水平)になり両手を真っ直ぐ前に伸ばして掌(テノヒラ)を重ね上の手の親指で下の手をつかむ、壁を蹴った後は伸ばした両手は頭の両方の耳を挟むようにして身体は真っ直ぐにする。
両足もきちんとつま先まで揃える。
「蹴伸び」は壁を蹴った力と身体の姿勢で伸びの距離が違う。
生徒さんの水中の姿勢を見ると両手を開いている方、折角、両手を重ねて伸ばしておられるのに両手の位置が顔の下になっていたりして思わず惜しい!と叫ぶ感じになる。
蹴る足も身体を沈める形が悪く壁を蹴る足が壁に滑って身体が斜めになっていたりしている。
惜しい。
余り水中で生徒を見ると、また不審に思われるので途中で止める。
私は軽く25mを片道泳ぎ(約25秒)暫くインターバルを取り、また25m を軽く泳ぐ。
累計で100m~200m くらい泳いで1時間が過ぎる。
時間の経つのは早い。
何時間いても料金は同じだが何時までも居られるものでない。
この教室も今日で終了する。
来週からは、また、お年寄り天国になる。
昔は考えられない真冬でも泳げる温水プールの恩恵に与っている私である。
半世紀と言う時間の経過がどのような物かを考えると恐ろしい限りだ。
世界で始めて飛行機を飛ばしたライト兄弟の弟も原爆が落とされたことを知り衝撃を受けたと聞いている。
自分達兄弟が人類のためと思った飛行機が、こともあろうに人類の破滅を招くものに成長した恐ろしさは想像を越したものであったのだと思う。
私は
これには私も驚いた。
『ライト兄弟――兄のウィルバー(1867~1912年)と弟のオービル(1871~1948年)』
つまりライト兄弟の弟さんは昭和23年に亡くなられているのだ。
初めて飛行機なるものを飛ばしたのは1903年12月17日と言われるから実に僅か50年も経っていない。
私のような貧しい貧乏人が、さも当たり前のように今は自家用車に乗っているのである。
私が子供の時代に自分が大人になった時に自家用車を運転しているなど想像外だった。
カミさんは子供の頃ランプの火屋(ホヤ)の煤(スス)を拭き取り綺麗に磨くのが子供の仕事だったと言っていた。
火屋(ホヤ)は子供の手でないと入らぬからだという。
水は毎朝 近くの川から運んでいて、これも自分の仕事であったとか?
雨で川水が濁った時はどうしたのだろうと思う。
その他、私には想像も尽かないことを平気で言う。
北海道は凄い未開の土地と聞く度に思って驚いたものだ。
病院には子供の時代から掛かったことが無いとも言う。
そんな古い過去の生活を聞く度に一体全体どんな生活だったのだろうとも不思議な気持ちだった。
それでも、カミさんの姉は女学校で成績は常に一番だったとか?
然し残念なことに3年生の時に肺結核で亡くなられたと聞く。
妹も女学校では姉と同じく成績は常に1番だったとか?
その妹も結婚後 若くして亡くなった。
その妹の遺児が今 文部省にいる。
同じく別の妹の子は今NTTの研究員として諸外国の国際研究会議に出て活躍している。
少々自慢話になった。
ここらで止めることにする。
水泳から半世紀の話に変わり半世紀の変化で飛行機から、なんとカミさんの自慢話になった。
ライト兄弟の項のリンクは無断である。乞う、ご許可を。
不都合の場合は即リンクを外します。
私が側に行き
「お早うございます。Kさんですね?」と挨拶をすると
「あらッ 先週も名前を聞かれたわ」とおっしゃる。
あれッ 先週に名前を尋ねたかな~ァ? と瞬間思った。
「すみませんね~ェ もう 忘れてしましました」
「耄碌寸前ですよ」と苦笑いをすると
「大丈夫ですよ」
「今、私の名前をちゃんとおっしゃったでしょう」と、慰められた。
「もう水泳教室は終わりですね?」
「水泳の記録会は今日ですか?」と聞くと
「先週済みました。今日は総合復習と自由な泳ぎです」と言うことだった。
プールに入るとAクラスの方々の指導をされていた。
最初は講習生にクロールで25mを自由に泳がせていたが、ふと、見ると講習生の中で一人素晴らしい泳ぎを見せている方がいらっしゃった。
前にはお目に掛かれなかった。
実に綺麗なフォームで流れるように泳いでいらっしゃる。
泳法は「ハイ・エル泳法」だ。
ハイ・エル泳法は、そう簡単に出来る泳法ではない。
先ずストリームラインが崩れてはいけないし、確かな身体のローリングが必要だ。
たった10回(一回2時間)の講習会でよくも、アレだけ上手く、なられるものだと感心した。
軽やかな、その方の泳ぎに、つい見とれてしまった。
私は水中歩きに精を出す。
時々講習生の泳ぎを見ながら・・・。
その内に、なんと「蹴伸び」の練習を始められた。
ほう~ォ 蹴伸び(ケノビ)とは?ね~ェ?
これも、簡単なことだが、やれば結構 難しい。
最低でも水中で壁を蹴って、そのままの姿勢で5mは行くものだ。
水泳の選手なら高校生で10m以上は伸びる。
そのタイムも10秒前後である。
私? 私は3mくらいです。(笑)
指導の先生は生徒さんが蹴伸びをする度に水中の姿勢を確認しておられる。
私も気になるので水中から生徒さんの蹴伸びを拝見する。
「蹴伸び」は壁に沿って、そのまま身体を沈め水中で壁に腰を掛けるような姿勢(身体は底面の床と水平)になり両手を真っ直ぐ前に伸ばして掌(テノヒラ)を重ね上の手の親指で下の手をつかむ、壁を蹴った後は伸ばした両手は頭の両方の耳を挟むようにして身体は真っ直ぐにする。
両足もきちんとつま先まで揃える。
「蹴伸び」は壁を蹴った力と身体の姿勢で伸びの距離が違う。
生徒さんの水中の姿勢を見ると両手を開いている方、折角、両手を重ねて伸ばしておられるのに両手の位置が顔の下になっていたりして思わず惜しい!と叫ぶ感じになる。
蹴る足も身体を沈める形が悪く壁を蹴る足が壁に滑って身体が斜めになっていたりしている。
惜しい。
余り水中で生徒を見ると、また不審に思われるので途中で止める。
私は軽く25mを片道泳ぎ(約25秒)暫くインターバルを取り、また25m を軽く泳ぐ。
累計で100m~200m くらい泳いで1時間が過ぎる。
時間の経つのは早い。
何時間いても料金は同じだが何時までも居られるものでない。
この教室も今日で終了する。
来週からは、また、お年寄り天国になる。
昔は考えられない真冬でも泳げる温水プールの恩恵に与っている私である。
半世紀と言う時間の経過がどのような物かを考えると恐ろしい限りだ。
世界で始めて飛行機を飛ばしたライト兄弟の弟も原爆が落とされたことを知り衝撃を受けたと聞いている。
自分達兄弟が人類のためと思った飛行機が、こともあろうに人類の破滅を招くものに成長した恐ろしさは想像を越したものであったのだと思う。
私は
ライト兄弟
は歴史上の人物で随分と過去の方と思っていたが実際は戦後に亡くなられていたのだ。これには私も驚いた。
『ライト兄弟――兄のウィルバー(1867~1912年)と弟のオービル(1871~1948年)』
つまりライト兄弟の弟さんは昭和23年に亡くなられているのだ。
初めて飛行機なるものを飛ばしたのは1903年12月17日と言われるから実に僅か50年も経っていない。
私のような貧しい貧乏人が、さも当たり前のように今は自家用車に乗っているのである。
私が子供の時代に自分が大人になった時に自家用車を運転しているなど想像外だった。
カミさんは子供の頃ランプの火屋(ホヤ)の煤(スス)を拭き取り綺麗に磨くのが子供の仕事だったと言っていた。
火屋(ホヤ)は子供の手でないと入らぬからだという。
水は毎朝 近くの川から運んでいて、これも自分の仕事であったとか?
雨で川水が濁った時はどうしたのだろうと思う。
その他、私には想像も尽かないことを平気で言う。
北海道は凄い未開の土地と聞く度に思って驚いたものだ。
病院には子供の時代から掛かったことが無いとも言う。
そんな古い過去の生活を聞く度に一体全体どんな生活だったのだろうとも不思議な気持ちだった。
それでも、カミさんの姉は女学校で成績は常に一番だったとか?
然し残念なことに3年生の時に肺結核で亡くなられたと聞く。
妹も女学校では姉と同じく成績は常に1番だったとか?
その妹も結婚後 若くして亡くなった。
その妹の遺児が今 文部省にいる。
同じく別の妹の子は今NTTの研究員として諸外国の国際研究会議に出て活躍している。
少々自慢話になった。
ここらで止めることにする。
水泳から半世紀の話に変わり半世紀の変化で飛行機から、なんとカミさんの自慢話になった。
我輩の低脳ぶりの発揮で終わりとする。
くそ爺はくそ爺を遺憾なく発揮したものだ。
不都合の場合は即リンクを外します。
最後にきっちりと纏められていて感心します。
旭川にも春が近づいてきましたよ。きょうはプラス3度、道路は雪が解けシャーベット状態です。
osamuさんのブログを拝見していると、生育時の環境の違いを痛感しています。
道産子で山村育ちの私は、文化も教育も生活もみな貧困でした。
何時もコメントありがとうございます。
育った環境が違っても、私は何時もカミさんに手玉に取られています。(苦笑)頭の出来の違いのようです。
PS:記事で書き忘れましたがオービル・ライトさんは私が旧制中学の寄宿舎生の時は未だ健在だったようです。
後で(終戦後の新聞のニュース)この事実を知った時はホントに驚きました。寄宿舎は原爆で吹っ飛びました。
何時もコメントありがとうございます。
東大寺の写真 実によく構図を考えられて撮られていると思います。生意気なことを申しまして申し訳ありません。私には非常に参考になります。
まるで自分が東大寺に行ったようです。
ありがとうございました。