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余録:終戦後、ある父親が娘をこう詠んだ。「二十一年汝…
毎日新聞 2013年08月15日 00時15分
終戦後、ある父親が娘をこう詠んだ。「二十一年汝(な)れいとしさに叱(しか)りぬき つよく育てし今日ぞかなしき」。娘は日赤の看護婦でフィリピンに従軍していた山野清子。21は数え年で、まだ18歳の頃、バギオ北東の山中をさまよううちに死亡した
▲米軍の侵攻前に両親へ宛てた手紙がある。「清はただ懸命にがんばります。強い人に身も心もして、帰れたら帰ります。こんな世になるのならもっともっと良い子でありたかったとつくづくと感じます。お許しくださいませ」。繰り返し「覚悟」を記した別便もある
▲戦後、外地の看護婦の待遇が悲惨だったことを知った父親は、娘をこうも強くしっかり育てたことを悔やんだ(梯<かけはし>久美子著「昭和の遺書」文春新書)。親がそのように子を悼んだ68年前だった。失われたのはそれぞれにいとおしまれ、願いが込められた人の命である
▲310万人。先の戦争の日本の戦没者をこう数で言い切ってしまえば、何か大切なものを見落としてしまおう。思えば日本の指導者らが日中戦争の数十万の犠牲がむだになると撤兵を拒んで始めた太平洋戦争である。物言わぬ死者の数は戦争拡大の口実にさえされる
▲詩人の茨木(いばらぎ)のり子はフィリピンで兵士の頭蓋骨(ずがいこつ)を見つけ、記した。「生前/この頭を/かけがえなく いとおしいものとして/掻抱(かきいだ)いた女が きっと居たに違いない/小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを/じっと視(み)ていたのはどんな母/(略)もし それが わたしだったら」
▲「もし、それがわたしだったら」。アジア諸国はじめ国外の戦没者にも思いをはせ、何度でも心の内に繰り返さねばならぬ鎮魂の日の問いである。
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つぶやき
なにも 言うことなし。 ただ きょうも 暑い日になりそうである。
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