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http://mainichi.jp/opinion/news/20130807k0000m070123000c.html 以下全文
発信箱:23日を国家的追悼日に=栗原俊雄(学芸部)
毎日新聞 2013年08月07日 00時00分
安倍晋三首相の名前で、私に封書が届いた。15日、東京・日本武道館で開かれる全国戦没者追悼式への招待状だ。国を挙げての式には例年のように、多くの人が集まるだろう。
アメリカが広島に原爆を落とした1945年8月6日、長崎の9日、そして大日本帝国が事実上降伏した15日。今月は日本にとって、記憶されるべき日が多い。
いずれも歴史の教科書に書かれている。毎年、それぞれの日に国や自治体の式典が開かれ、国内外の要人が集まって死者を追悼する。国民に広く知られている。
一方で、23日が日本にとってどういう日か知っている人は少ないだろう。同年、ソ連の独裁者スターリンが、旧満州国(現中国東北部)などにいた日本人を抑留するよう指令した日だ。
およそ60万人がソ連領などに抑留され、6万人が亡くなったとされる。戦争が終わった後にだ。
広島や長崎、あるいは凄惨(せいさん)な地上戦があった沖縄とは違い、シベリア抑留には公的な追悼式も研究機関もない。アカデミズムの研究は立ち遅れ、メディアの報道蓄積も薄い。
抑留経験者や遺族が自らの財産と時間を削って、実態解明や犠牲者の追悼にかかわってきた。経験者が作る全国抑留者補償協議会(2011年に解散)は8月23日を「シベリアデー」とし、03年、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で追悼式を開催。
昨年には10回の節目を迎えた。今年も午後1時から行われる。しかし関係者の高齢化が進んでおり、継続は簡単ではない。
抑留は、原爆と同じく世界史に刻印されるべき悲劇である。15日と同じように、23日を国家による追悼の日にできないだろうか。
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つぶやき
終戦間際に満州に攻め込み あっと言う間に満州を制覇。一方 樺太では15日(日本軍が闘いを止めた日)を過ぎたというのにソ連は戦車を先頭に国境を越え日本側になだれこみ攻め込んだ。
当時の樺太軍方面の日本の司令官が8月15日の終戦と共に直ぐに在留邦人を日本に送ることはできなかったのかと今でも不思議に思う。
当時の国際社会では戦争が終われば 即 捕虜は本国に送還が決まりだったが国(ソ連)の開発 復興に多くの労働力を必要としたスターリンは千島・樺太の日本軍や一部民間人まで捕虜としてシベリア各地の森林開発や鉄道建設に従事させた。
まるで中世の十字軍ではあるまいし・・・。それも日本に送還すると列車に載せて遥か北方に移動・強制労働をさせたのだ。
その当たりは かの 瀬島龍三 の「幾山河」 を読めば詳しく著述されている。絶版かな?
上述のごとく このために6万人と言う日本人が雪の中 飢えと寒さに死んでいった。
何故か?この件は国際問題にはなっていない。 私の現役時代の上司もシベリア抑留者だった。余り多くは語らなかったが 何かの折に語るその断片的な内容は凄まじいものだった。
反対にシベリアの自然の四季の変化の美しい風景はよく聞いた。季節の変化の美しさが沈む心を慰めたのかも? 時々当時の戦友とシベリアの抑留地に行き亡き戦友に手を合わせておられたようだ。
四国88ヶ所巡拝の旅Ⅱに御付き合い頂有り難うございました!
アッと言う間にお盆も終り故里からの帰省が始まり交通機関も混んでいる様ですね。
小生は終戦の時は4歳ですが西岩国の防空壕に入っていたのは覚えています。
*暑さに負けず残暑を乗り切りましょ~!
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('_')今朝は今回の旅の最後の札所・安楽寺参拝と1~6番までを纏めて見ましたので気長にご覧頂ければ幸せます。
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シベリアのお話。
なくなった母から、よく聞いていました。
母はまだ幼かったようなのですが、やさしかったお兄さんが終戦当時は生きていたのに、シベリアで労働して、なくなったと。
一緒に働いていた方が、引き上げてきたときにそう教えてくれたそうです。
北方四島の話になると、「当時のソ連が、終戦間際に・・・」といつも悔しそうに話していたのが印象的です。
思いがこもっているだけに、強く聞き手のわたしにも響きました。
戦争は、どう考えても双方に不幸をもたらすだけ。
平和を祈るばかりです。
いつも応援&コメント有難うございます。
戦争はしないことがよいです。1945年以来一番戦争をしているのが米国です。世界は常にどこかで内乱が始まっています。幸いに日本は米国の傘のしたで戦争が避けられていますが今後は分かりません。
日本を戦場にするか?しないか?は全ては米国の都合です。
数年前からソ連の収容所で亡くなられた方の関係者の墓参りの様子がTVで放映されています。私も気をつけてみるようにしていまうが整備されたところや寂しいところもありますね。
戦争を終わらせようとする調停をスターリンに頼んでいましたがスターリンは口実を設けてズル・ズルと伸ばしていました。そしてゾルゲ情報で全てを知っているので安心して満州に攻め込んだのですね。戦後 スターリンは北海道を望みましたが蒋介石がそれを排除したと書いてありましたが・・真実は分かりません。しかし蒋介石は日本軍を港に送ることを優先したための毛沢東軍の対処が遅れて戦いに負けたといわれています。恨みを報いるに徳を持ってせよ?と蒋介石は言っていたとか?
どうも口説くなりました。すみません。
お熱は平熱に戻られましたでしょうか?
60万人の内の6万人がシベリアで重労働の末
還らぬ人に・・・
何故ソ連の自由にされなければならなかったのでしょうと。。
私の友人のお兄様(歳の離れた)もその列車に乗らされ
国境の手前で飛び降りて逃げたのだそうです
列車を止めて1時間位は探されて、銃を撃ってきたのですが
奇跡的に弾は当らず逃げ延びて、2年後くらいに帰国できたそうです。ポチ☆
友人の方のお兄さん幸運でしたね。列車に乗せられ走り始めて方向が違うと忽ちに車内に広まったそうです。生か?死か?二つの選択肢で列車からの逃亡を図られたのでしょうね。シベリアは一夜にして短い秋になるそうです。その後の冬の厳しさは言語に尽きると言われていました。
帰国できてよかったですね。でも帰国までは人に語れぬ多くの難儀を越えられたのでしょうね。
応援&コメント有難うございます。
より少し高い状態が続いていますが昨日はプールに行ってきました。帰宅後の体温は36度で平熱が35度5分なので少し高いくらいで別に身体に異常はなかったです。むしろ身体を動かしたて身体の調子はよいように感じました。
若しも動ければ動いたほうが良いのかもです。今朝は36度2分です。きょうもプールで歩いてこようと思っています。
家の中でゴロリ・ゴロリしているほうが体調がくづれる感じです。不思議ですね。人の身体は? 風邪J薬はトックになくなっていますが・・・。このまま普段に戻れば病院にも行かなくていいのでは思っています。有難うございました。どうも肝心なことを亡失します。