78歳になり子供の頃を振り返る
きょう3月30日で我輩もついに満年齢78歳になった。
よくぞ、きょうまで生きてこられたものだと思う。
小さい頃から何かと病気をしていたのだが、小学校(正確には国民学校)4年になったときに家庭の事情で岩国の祖父母の家に預けられて田舎の生活を始めた頃から身体に抵抗力ができたように思う。
祖父母の家に引き取られて最初の夏に祖母と一緒に瀬戸内の海岸にハマグリやアサリを取りに行ったことがあるが、その最中に我輩は砂浜で意識を失いぶっ倒れたのだ(多分 日射病?)。
祖母は砂浜から約1kmほど重い我輩を背負いある農家まで運んだそうだ。
暫くして農家の廊下で目覚めた我輩は見慣れぬ景色に「ここは何処?」と顔を覗きこむ祖母に聞いたとか?コレをけっきに我輩の遊びも変わり体質も変わってきたと想像する。
泳げなかった我輩も同じ子供同士で今津川(錦川の下流)に土手から満潮の川に飛び込み、いつの間にか泳げるようにうなったのだ。
今津川 ↓ (川下と文字のある場所が祖父母の家:今は空き地)
この川を対岸まで泳がないと子供同士でも一人前に扱われなかったのだ。
最初は“犬掻き“ だったのが同じ仲間の泳ぎを見ているうちに岸から3m・・5m・・10m・・・と離れることができ、翌年の夏の日、みんなと同じく土手から川に飛び込み対岸まで(約150m)を泳ぎきった。
対岸の土手を少し上流まで歩き再び土手から川に飛び込み元の岸に泳ぎかえった。
これが小学校5年生のときだった。
そしてみんなからも一人前の川遊び仲間に加えられたものだった。
夏は子供の世界だった。
夜は近所の墓場に“肝試し“ があり夜 暗くなって一人づつ歩いて7~8分ばかり離れた場所にある墓場に行き指示された墓からお供えの”花“を持ち帰るのだ。
持ってゆくのは提灯(チョウチン)である。脅かす役のものから脅かされて提灯を落としたり、急に提灯を振ると火が消える。
この“肝ためし”を拒否すると、その後は馬鹿にされて子供同士でも何事も格下に見られ蔑(サゲス)まされる。
この“肝ためし”では行くことは行ったが途中で怖くなり泣きながら引き返す者も居たが、それはそれで仲間の一員とされた。ここいらは、いいとこだったように思う。
小心な我輩は、こればかりはゴメン蒙った。
周りのみんなから「それ次は○○○ちゃんの番だよ!」と背中を押されたが我輩は頑として動かなかったのだ。
ついには番長?の
「町の者は度胸がない!コラエテやれ!」と言うことでツギの者にお鉢が回ったものだ。
されど我輩は祖父の威光で誰からも非難されることは無かった。
まァ 言うならば卑怯なことおびただしかったな~。
今は取り返しの付かない失敗と後悔しきりでも追いつかないが・・・・。
今もって 考えると、矢張り途中で脅かされて、例え腰を抜かして、泣きながらも行くべきだったかな?と半世紀いや一世紀近く経っても、未だ後悔している。
子供の遊びとは言え人生の大事な一歩でもあったように思う。
現在ではこのような遊びはないようだ。
それに変わるのが“なんとか?ポイント”とか言う“お化け屋敷?”や“トンネル?”
かも?ただ大きく違うのは機動力と群れのようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日までは数え歳で79歳だったがきょうから実質の78歳です。(数え歳は79歳)
いつT・K(トン・コロリ)と逝っても、もう、この歳では悔いはない心算だ。
とは言うものの整形外科やホネツギ・眼科・耳鼻科に行っているのは・・・・・。
ビッコをヒキヒキの78歳であるが、まァ 生きられるだけは生きなければ・・・。
娘から生ジュースがどっさりと誕生祝いに送ってきた。
カミさんが「我輩が野菜を食べないので困る」と娘に言ったらしい?
末期の水にならぬように全部飲んでから逝きたいものだ???
それには来年までかかりそうである・・・・。
来年も、また一年分送ってくるのかな?
それでは、なんとか川は永遠に渡れそうにないな?
余り座ってばかりいるのでケツが痛くなり、きょうは立って本を読み始めた。
小一時間立って読んだが、ただ立っているだけだが、なぜか?汗が出た。
暖房機の温度は23度に下げていたのだが????
足元は少々冷たい感じであるが立つとむッとする。
扇風機を置いたほうが好いようだ。
カミさんに扇風機を出そうというと「余計なものは出さないで!」と叱られた。
鉛筆一本でも片付けるのはカミさんだからな~~
きょう3月30日で我輩もついに満年齢78歳になった。
よくぞ、きょうまで生きてこられたものだと思う。
小さい頃から何かと病気をしていたのだが、小学校(正確には国民学校)4年になったときに家庭の事情で岩国の祖父母の家に預けられて田舎の生活を始めた頃から身体に抵抗力ができたように思う。
祖父母の家に引き取られて最初の夏に祖母と一緒に瀬戸内の海岸にハマグリやアサリを取りに行ったことがあるが、その最中に我輩は砂浜で意識を失いぶっ倒れたのだ(多分 日射病?)。
祖母は砂浜から約1kmほど重い我輩を背負いある農家まで運んだそうだ。
暫くして農家の廊下で目覚めた我輩は見慣れぬ景色に「ここは何処?」と顔を覗きこむ祖母に聞いたとか?コレをけっきに我輩の遊びも変わり体質も変わってきたと想像する。
泳げなかった我輩も同じ子供同士で今津川(錦川の下流)に土手から満潮の川に飛び込み、いつの間にか泳げるようにうなったのだ。
今津川 ↓ (川下と文字のある場所が祖父母の家:今は空き地)
この川を対岸まで泳がないと子供同士でも一人前に扱われなかったのだ。
最初は“犬掻き“ だったのが同じ仲間の泳ぎを見ているうちに岸から3m・・5m・・10m・・・と離れることができ、翌年の夏の日、みんなと同じく土手から川に飛び込み対岸まで(約150m)を泳ぎきった。
対岸の土手を少し上流まで歩き再び土手から川に飛び込み元の岸に泳ぎかえった。
これが小学校5年生のときだった。
そしてみんなからも一人前の川遊び仲間に加えられたものだった。
夏は子供の世界だった。
夜は近所の墓場に“肝試し“ があり夜 暗くなって一人づつ歩いて7~8分ばかり離れた場所にある墓場に行き指示された墓からお供えの”花“を持ち帰るのだ。
持ってゆくのは提灯(チョウチン)である。脅かす役のものから脅かされて提灯を落としたり、急に提灯を振ると火が消える。
この“肝ためし”を拒否すると、その後は馬鹿にされて子供同士でも何事も格下に見られ蔑(サゲス)まされる。
この“肝ためし”では行くことは行ったが途中で怖くなり泣きながら引き返す者も居たが、それはそれで仲間の一員とされた。ここいらは、いいとこだったように思う。
小心な我輩は、こればかりはゴメン蒙った。
周りのみんなから「それ次は○○○ちゃんの番だよ!」と背中を押されたが我輩は頑として動かなかったのだ。
ついには番長?の
「町の者は度胸がない!コラエテやれ!」と言うことでツギの者にお鉢が回ったものだ。
されど我輩は祖父の威光で誰からも非難されることは無かった。
まァ 言うならば卑怯なことおびただしかったな~。
今は取り返しの付かない失敗と後悔しきりでも追いつかないが・・・・。
今もって 考えると、矢張り途中で脅かされて、例え腰を抜かして、泣きながらも行くべきだったかな?と半世紀いや一世紀近く経っても、未だ後悔している。
子供の遊びとは言え人生の大事な一歩でもあったように思う。
現在ではこのような遊びはないようだ。
それに変わるのが“なんとか?ポイント”とか言う“お化け屋敷?”や“トンネル?”
かも?ただ大きく違うのは機動力と群れのようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日までは数え歳で79歳だったがきょうから実質の78歳です。(数え歳は79歳)
いつT・K(トン・コロリ)と逝っても、もう、この歳では悔いはない心算だ。
とは言うものの整形外科やホネツギ・眼科・耳鼻科に行っているのは・・・・・。
ビッコをヒキヒキの78歳であるが、まァ 生きられるだけは生きなければ・・・。
娘から生ジュースがどっさりと誕生祝いに送ってきた。
カミさんが「我輩が野菜を食べないので困る」と娘に言ったらしい?
末期の水にならぬように全部飲んでから逝きたいものだ???
それには来年までかかりそうである・・・・。
来年も、また一年分送ってくるのかな?
それでは、なんとか川は永遠に渡れそうにないな?
余り座ってばかりいるのでケツが痛くなり、きょうは立って本を読み始めた。
小一時間立って読んだが、ただ立っているだけだが、なぜか?汗が出た。
暖房機の温度は23度に下げていたのだが????
足元は少々冷たい感じであるが立つとむッとする。
扇風機を置いたほうが好いようだ。
カミさんに扇風機を出そうというと「余計なものは出さないで!」と叱られた。
鉛筆一本でも片付けるのはカミさんだからな~~
然し我々の年齢で戦争に行かずに済んだだけでも幸せだったと思わなければ・・・。 現在を楽しく過ごしましょう。
子供時代はその人、その人が持つ大事なものでしょう。不思議と悪い思いは消えています。
これからどのくらい生きられますか?分かりませんが?やるしきゃない!と言うところでしょうか・・・。