夏がくれば思い出す!?
尾瀬の詩ではないよ!!!
最近は物が中々壊れない。壊れたのは?
我が家の冷蔵庫も電子レンジも中々壊れず買い換えるのが躊躇(タメラ)われたほどである。
自動車も昔は路肩に停車してボンネットを上げていた故障車が沢山見られたが、ここ数十年見たことがない。
路肩に停車しているのは違法駐車くらいである。
我輩が最初に買った自家用車は「パブリカ」であった。
千ドルカーと言って公称?36万円だったか?実際は40万近くかかったのでは?よく覚えていない。
パブリカ ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB
パブリカは水平対抗2気筒空冷700CCエンジンで(4人乗り?)結構よく走った。(音がやけに煩い)
それにセルを掛けエンジンの始動の時の車の横ゆれが、これ、また凄まじかった!今の車では想像できないと思う?
その車で夏休みに岩国(東京から約1000Km)まで帰ったこともある。
パブリカは購入当時は車内の装備は全くなくラジヲすら装備していなかったのだ。
そこでラジヲのみカミさんの知り合いの修理工場で取り付けた。
当時は車のクーラーなんて洒落たものは聞くこともない時代ではなかったのでは?クーラーといえばヒーターもなかったな~。
流石にヒーターも後で装着して貰った。
まァ 今で 言うならば“ない、ない、ない尽くしの車”だったな~。
それ故か?メンテナンスに異常に費用が掛かった。
なにしろ1500Km走るごとにグリース・アップの必要があったのだから・・・・。
(購入後、暫くしてグリース・アップの必要のないベアーリングが開発されて話題になった)
ずぼらな私も当時は几帳面に1500Kmごとに車の手入れ(グリース・アップ)は頼んだものだ。
然し、故障は殆どなかったように覚えている。
今から考えると“夢物語り?”のような車であったが、この出来損ないの我輩が自家用車を持ったということは夢の一つでもあった。
そのパブリカに乗り一家(4人)で岩国まで帰省したのは夏の暑い盛りであり。東京から名古屋まで東名高速に乗り走り、その後は山陽道を走ったものだ。
途中 須磨にあった会社の保養所に一泊して翌日 夕方 実家についたと思うが?細かい記憶はさだかでない。
当時は走っているときは窓を開けていれば風が入り涼しくクーラーの必要性は全く感じなかった。
運転席のサイドに三角窓があり、それを起こす(回して向きを変える)と風はもろに顔にあたり、且つ車内に吹き込む。
帰省の高速道路でも同乗の子供が後ろの狭い座席で退屈すると、オシッコだ!オシッコだ!だと騒ぎ、車を適当に路肩に停めると車から降りるや、いなや直ぐに高速道路に飛び出し高速道路をキャッ・キャッ言いながら走りまわり逃げ回る二人の“くそ餓鬼娘?”を夫婦で、捕まえるのに大変だった。
それでも、無事に故郷に着いたのだから高速道路も長閑(ノドカ)なものだった。
当時(1970年前後?)東名、名神高速も走っている車は少なく、とても現在のような30km~50Kmの渋滞などの事態は想像外だった。
パブリカはエンジンの音はゼロ戦?なみであったが走ることはよく走った。
速度も時速100kmは軽く出た。喧(ヤカマ)しかったが・・・・。
今 思えばよくぞ、あの車で岩国まで往復したものだと我ながら感心する。
夏がくれば思い出す一齣である。
パブリカはエアコンどころか?ナビまで付いた今の車からは想像できない懐かしい貨物乗用車のような代物であった。
なんと言っても何時までも記憶に残るのは1500Km 走るごとにするグリース・アップである。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2886940.html
グリース・アップは車軸周りで、車は塹壕を跨ぐようにして下から大きな注射器(グリース・ガン?)でグリースをノズル(グリース・ニップル?)から30箇所近く注入されていたように思う。我輩は余り車に詳しくない。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~downton/mainte/mainte.htm
まだ現在でもグリース・アップする必要性のある車があるのですね?↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111476091
当時(パブリカに乗っていた時代)の車?
http://www.area47.co.jp/meishakan/japan/1960.html
大体三角窓が付いていた。 ↑
当時(昭和32~34年くらい?)現場で単車に乗っていたが、単車といえば「ホンダ・ドリーム」で燃料タンクが角ばっていて250CCでよく走った。
格好もよかった。
北海道の道南を走っていた。そんな時代もあった。
スクーターはラビット? ↓ これはオヤジ(私の亡き父)も仕事で乗っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
http://www.ne.jp/asahi/rabbit-house/yamada/index.htm
今は古き懐かしいよき昭和の時代であった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8c/da6fdd4bf82138bc14477b95ea8ca21b.gif)
そういえば親戚のおばさん(故人)が夏に上京された時に、このパブリカで江ノ島や鎌倉を案内したがワンマン道路で、ほかの車に追い抜かれると、直ぐに後ろの座席から
「osamu なんで抜かれるんだ!追い抜け!」と叱られて、追い越す外車と競争したことがある。
おばさんは負けず嫌いで、岩国女子中学(岩女)在学中 第15回?「明治神宮国民体育大会」?(ベルリンオリンピックの前年)の女子三段とびで優勝している。コーチは田島選手(岩国出身)
窓を閉めたすごい外車と凄まじい音を出しながら競争して走ったものだ。
これも懐かしい思い出である。
どちらが勝ったか?勿論 私です。
外車は直ぐ横をバリバリ轟音を出して蛇行しながら走るパブリカにぶっつけられてはかなわんと速度を落とした。
横を見ると窓を閉めた外車の運転者さんがニッコリと笑って手を振っていた。
同乗のおばさんが、それを見て追い抜くパブリカの窓から手をだして会心の笑顔で手を振っていた。
時速100Km 以上 は出していたと思う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c7/b05aea2532f86d0646aeffbdfeae1ace.gif)
尾瀬の詩ではないよ!!!
最近は物が中々壊れない。壊れたのは?
我が家の冷蔵庫も電子レンジも中々壊れず買い換えるのが躊躇(タメラ)われたほどである。
自動車も昔は路肩に停車してボンネットを上げていた故障車が沢山見られたが、ここ数十年見たことがない。
路肩に停車しているのは違法駐車くらいである。
我輩が最初に買った自家用車は「パブリカ」であった。
千ドルカーと言って公称?36万円だったか?実際は40万近くかかったのでは?よく覚えていない。
パブリカ ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB
パブリカは水平対抗2気筒空冷700CCエンジンで(4人乗り?)結構よく走った。(音がやけに煩い)
それにセルを掛けエンジンの始動の時の車の横ゆれが、これ、また凄まじかった!今の車では想像できないと思う?
その車で夏休みに岩国(東京から約1000Km)まで帰ったこともある。
パブリカは購入当時は車内の装備は全くなくラジヲすら装備していなかったのだ。
そこでラジヲのみカミさんの知り合いの修理工場で取り付けた。
当時は車のクーラーなんて洒落たものは聞くこともない時代ではなかったのでは?クーラーといえばヒーターもなかったな~。
流石にヒーターも後で装着して貰った。
まァ 今で 言うならば“ない、ない、ない尽くしの車”だったな~。
それ故か?メンテナンスに異常に費用が掛かった。
なにしろ1500Km走るごとにグリース・アップの必要があったのだから・・・・。
(購入後、暫くしてグリース・アップの必要のないベアーリングが開発されて話題になった)
ずぼらな私も当時は几帳面に1500Kmごとに車の手入れ(グリース・アップ)は頼んだものだ。
然し、故障は殆どなかったように覚えている。
今から考えると“夢物語り?”のような車であったが、この出来損ないの我輩が自家用車を持ったということは夢の一つでもあった。
そのパブリカに乗り一家(4人)で岩国まで帰省したのは夏の暑い盛りであり。東京から名古屋まで東名高速に乗り走り、その後は山陽道を走ったものだ。
途中 須磨にあった会社の保養所に一泊して翌日 夕方 実家についたと思うが?細かい記憶はさだかでない。
当時は走っているときは窓を開けていれば風が入り涼しくクーラーの必要性は全く感じなかった。
運転席のサイドに三角窓があり、それを起こす(回して向きを変える)と風はもろに顔にあたり、且つ車内に吹き込む。
帰省の高速道路でも同乗の子供が後ろの狭い座席で退屈すると、オシッコだ!オシッコだ!だと騒ぎ、車を適当に路肩に停めると車から降りるや、いなや直ぐに高速道路に飛び出し高速道路をキャッ・キャッ言いながら走りまわり逃げ回る二人の“くそ餓鬼娘?”を夫婦で、捕まえるのに大変だった。
それでも、無事に故郷に着いたのだから高速道路も長閑(ノドカ)なものだった。
当時(1970年前後?)東名、名神高速も走っている車は少なく、とても現在のような30km~50Kmの渋滞などの事態は想像外だった。
パブリカはエンジンの音はゼロ戦?なみであったが走ることはよく走った。
速度も時速100kmは軽く出た。喧(ヤカマ)しかったが・・・・。
今 思えばよくぞ、あの車で岩国まで往復したものだと我ながら感心する。
夏がくれば思い出す一齣である。
パブリカはエアコンどころか?ナビまで付いた今の車からは想像できない懐かしい貨物乗用車のような代物であった。
なんと言っても何時までも記憶に残るのは1500Km 走るごとにするグリース・アップである。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2886940.html
グリース・アップは車軸周りで、車は塹壕を跨ぐようにして下から大きな注射器(グリース・ガン?)でグリースをノズル(グリース・ニップル?)から30箇所近く注入されていたように思う。我輩は余り車に詳しくない。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~downton/mainte/mainte.htm
まだ現在でもグリース・アップする必要性のある車があるのですね?↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111476091
当時(パブリカに乗っていた時代)の車?
http://www.area47.co.jp/meishakan/japan/1960.html
大体三角窓が付いていた。 ↑
当時(昭和32~34年くらい?)現場で単車に乗っていたが、単車といえば「ホンダ・ドリーム」で燃料タンクが角ばっていて250CCでよく走った。
格好もよかった。
北海道の道南を走っていた。そんな時代もあった。
スクーターはラビット? ↓ これはオヤジ(私の亡き父)も仕事で乗っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
http://www.ne.jp/asahi/rabbit-house/yamada/index.htm
今は古き懐かしいよき昭和の時代であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8c/da6fdd4bf82138bc14477b95ea8ca21b.gif)
そういえば親戚のおばさん(故人)が夏に上京された時に、このパブリカで江ノ島や鎌倉を案内したがワンマン道路で、ほかの車に追い抜かれると、直ぐに後ろの座席から
「osamu なんで抜かれるんだ!追い抜け!」と叱られて、追い越す外車と競争したことがある。
おばさんは負けず嫌いで、岩国女子中学(岩女)在学中 第15回?「明治神宮国民体育大会」?(ベルリンオリンピックの前年)の女子三段とびで優勝している。コーチは田島選手(岩国出身)
窓を閉めたすごい外車と凄まじい音を出しながら競争して走ったものだ。
これも懐かしい思い出である。
どちらが勝ったか?勿論 私です。
外車は直ぐ横をバリバリ轟音を出して蛇行しながら走るパブリカにぶっつけられてはかなわんと速度を落とした。
横を見ると窓を閉めた外車の運転者さんがニッコリと笑って手を振っていた。
同乗のおばさんが、それを見て追い抜くパブリカの窓から手をだして会心の笑顔で手を振っていた。
時速100Km 以上 は出していたと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c7/b05aea2532f86d0646aeffbdfeae1ace.gif)
「漢字であそぼ!」をブックマークに入れていただいたんですね。
奥様が見てくださっていたなんて…。
ありがとうございます。
ちょっとした思い付きから始めたもので、奥様のような大の漢字パズルファンには物足りないと思いますが、よろしくお伝えください。
こちらにもリンクを貼らせていただきますので、ご了承ください(勝手ですね)。
★「無断リンクです。ごめんね! 」を削除していただけませんでしょうか?
思い出一杯のようですね。
私の最初の車は”日産サニー”(1000CC)でした。(昭和39年)免許取り立てで、道南・道東を3泊4日で回りました。その間3回もパンクをし、困った思い出があります。
その頃陸の孤島と言われた”占冠村”(今は鉄道も走り観光地)に勤務していたので車は必需品でした。この頃は砂利道を走るのが得意(?)でした。(笑)
早速リンクの許可を頂き有難うございます。実は私も時々やっています。気分転換と頭の体操にいいです。付記は消しました。有難うございました。
列車での旅行の記憶はないですね。でも幸いにパンクの思い出は全くないです。運転は何時もカミさんと交互です。カミさんは今は私の車は全く運転しません。お互いに自由に行動しています。
シムカップ村 早速検索しました。人口1500人風景がいいですね。
http://www.vill.shimukappu.lg.jp/shimukap/jgaiyou_home.html
冬はー30度! 旭川が寒いのは知っていましたが、ここもさむそうです。昭和40年で人口4700人。現在1500人 観光の町のようです。沢山の思い出を作られたことでしょう。
これでは当時の舗装道路は無理なようです。
サニー1000CCの新車も冬には何度かバッテリーが上がり、1日3往復のバスに乗り充電に行きました。
冬はスノータイヤのため峠(バカ曲がりと呼んでいた)越えが一苦労、スリップして登れない時は平ら所までバックし、加速して登りました。
観光地になった今は、峠はトンネルとなり、鉄道も走り、道路も整備され隔世の感があります。
まるで浦島太郎のようです。
HPを懐かしくみました。
有難うございます。
寒さはー30度以下になれば臨時休校、3~4日はあったように思います。-25度以下は1時間遅れの始業でした。
当時はこの寒さも、前任地(士別市)と同じ気温で、あまり寒さを意識してないようでした。
現在ではトヨタやニッサンと言えばアメリカでは高級車扱いで性能の良さでは最高ですね。ニッサンが未だダットサンと呼ばれていた頃の自動車は余りにも小さくて形も余り目立つ事無く、当時のアメリカ人は勿論私も含めて日本車も良いけれど部分品が充分出回っていなかった事が一番気になる事で安心して購入する気持ちにはなれませんでした。徐々に性能が認められるようになり、私も初めてトヨタのコロナが発売された時に日本車を家内に買って遣ったのが始めての新車でそれ以来日本車が好きになりました。随分彼方此方と遠方はカナダまでドライブして楽しみました。私は殆どアメ車で、Chevy,Ford,Pontiac,Oldsmobile、Dodge、Plymouth、Jeepなどでした。何しろ自動車無しの生活は出来ませんので17歳から乗っていました。引退した頃からは総てトヨタCamry,MiniVan,現在は初めてホンダのMiniVan
Odysseyを愛用しています。
寒いとバッテリーがよく上がります。私も30年くらい前に三国峠の下の法師温泉に行った時に早朝 出かけようとしたら”セル”が回らなく慌てたことがあります。宿の方が「少し時間を置いて再度やってみなさい」と言うことで20~30分経って掛けると上手くエンジンが掛かり”ほッ”として出発した経験があります。
旅先での車のトラブルはホントに困ります。
特に寒い地方に出る時はチェーンやロープは欠かせません。
然しシムカップはこちらでは想像外の場所のようです。北海道は今回の遭難事故にしても内地では予想できない気象条件が発生したようです。晴れた見晴らしのよい山は格別ですが、雨、風に見舞われると低山でも危険です。
三峰山(1300mくらい?)に登った時は山頂近くで雨の中で傘を差して立ったままで”おにぎり”を食べたことがあります。夏とはいえポンチョが風に煽られて着物が濡れて寒かったですが、ここらが北海道とは違います。
内地でも夏の登山経験は場所が違えば、対応が異なるようです。尾瀬のヒウチダケでも酷い目にあいました。幸運でしたね。槍ヶ岳には2度挑戦して現地で天候が悪く2度引き返しました。勤めていたのと引率者が急遽登山を中止しました。「また天候のよい日に登りましょう」と言って温泉に浸かって帰った事があります。
槍ヶ岳はついに登る機会がなかったです。
今は足が言うことを聞いた時代の遠い思い出です。
私の登山は会社の同僚と二人か?クラブの方々の5~6人でした。金曜日の夜 出発して日曜日の夜 ”寮”に帰るのがパターンでした。夏季は月に2~3度出かけていました。冬は低山で月に1~2度でした。冬は低山でも北面の斜面は凍り釣りのときに岩場で滑り止めに使う”おろしかね”のような物を靴底につけていましたね。怪我は大体下山の時が多いです。
なんだか、寒さから登山に話が変わりました。
何時もコメント有難うございます。
凄いですね、いずれも一度も乗ったことがありません。私は日産、トヨタ、三菱、スズキ、と日替わり弁当のように買い換えていましたが、いずれも故障して立ち往生した経験はありません。こちらでは毎年定期検査がありますが、近頃は車検のみで済ましています。走行距離は年間3千KM くらいですのでたとえ10年乗っても3万キロです。車の交換は何時も3万キロに達していませんでした。セフィーロの時に3万を少し越して居たくらいです。
カミさんが車を変える時は大体 事故で車がヘシャゲタ時です(苦笑)本人は不思議に怪我をしていません。サイノスの時の事故は出会いかしらの事故で凄まじかったようです。エンジン・ルームがペシャンコになったそうです。(私は見なかった)修理に50万くらいかかるというので、少しランクを落としてマーチにしました。
今はその二代目です。
カミさんは事故は話ますが、詳しいことは話さないので判りません。本人が無事なので、別に問いただすことはしません。
私なら全部喋ると思いますが?