こんなテーマがブログの話題の記事?になる年金生活者です。
昨日 カミさんの妹が来て夕食は横須賀では このお店の「うな重」は結構 有名なお店である「うな萩」に行きました。
半年ぶりかな? 鰻も高くなりましたね~ェ。
私が「茶碗蒸し」が好きなのでカミさんはお客さん(カミさんの妹:現代美術家、画家 中村岳の母)にお構いなく注文していました。3人で鰻の前に出された「茶碗蒸し」を戴きましたが結構な味でよかったですね。
茶碗蒸しにも鰻が入っていて・・・。
その後 待望の「うな重」が出されて頂きましたが鰻は柔らかく美味いですね~ェ~
一緒に出された肝串も美味しかったです。(カミさんが気をきかしたらしい?)
お酒かビールでも飲めれば最高でしたが私が運転手だったのでお茶で済ましました。
いい夕食になりました。
台風が近づいてきたのでお客さんは本日(30日)急遽 早めに帰路に着きました。
衣笠駅に送りホームから電車の中の義妹に手を振り・・お別れをしました。
家に帰るや窓を開け放して自然の風を部屋に入れて今はとてもいい気分です。
自然の風で昼寝したのは半世紀ぶり・・・
目が覚めたら空は今にも暴れそうな雲行きになっていました。
名月は無理かな?
嵐は今夜 夜半らしい・・・ガタ・ガタと雨戸が五月蝿く また 泥棒と間違える?
今夜は早く寝ておくか?
//////////////////////////////////////////
余録:「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅は…
毎日新聞 2012年09月29日 00時20分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120929k0000m070110000c.html以下全文
余録:「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅は…
毎日新聞 2012年09月29日 00時20分
「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅はあたかも光線を放散する太陽のようなものだ。ここから四方八方に光を放ってほしい」。1914年の東京駅開業式で大隈重信首相は述べた
▲近代化の坂道を駆け上る帝国日本の威勢を示す壮麗な赤レンガ駅舎は、やがてそのつまずきによる戦災で焼かれる。3階建てを2階にし、応急工事の屋根をかぶせた駅舎は、今度は戦後の復興と経済成長の道をひた走る人々が行き交い、出会い、別れゆく場所となった
▲その経済成長がバブルに転じた80年代だ。JR東日本や東京駅を赤いバラをもった10人余の女性が訪れた。当時浮上した駅高層化構想に対し、赤レンガ駅の保存を訴えた編集者、森まゆみさんたちである。バラは「おしゃれな運動を」という合言葉のシンボルだった
▲後に多くの市民や建築家、文化人に広がった東京駅保存の動きは、とうとう99年のJR東日本による駅復元の決定につながる。昔は「日本の中心」の威信を担った駅舎が、この100年近い歳月のさまざまな記憶を蓄えた歴史遺産として創建時の姿をよみがえらせた
▲3階部分が復活し、南北に堂々たるドームを配した東京駅があさって開業する。外観は昔に戻ってもそこは現代、基礎に免震装置が組み込まれ、ハイテク耐震駅舎に生まれ変わった。床面積の半分はホテルとなって、ギャラリーには創建時や戦災の遺構も保存された
▲保存復元運動に尽力した建築家の藤森照信さんが皇居側正面から見た姿を横綱の土俵入りに見立てる復元・東京駅だ。次の1世紀、駅の横綱はどんな日本を、どんな人々の出会いと別れを見るのだろう。
.・・・・・・・・・・・・・・・・・
つぶやき
昨夜 TVで東京駅の設計者 建築家 辰野金吾の話をしていました。
印象に残った二つの言葉
辰野金吾氏はコンクリートの現場を見たことが無いので神戸まで行ったそうです。而して
「あんなドロドロした物が固まるとは思えんコンンクリートの使用は止める。全て煉瓦とする。煉瓦については私は熟知している」
↑(このセリフには思わず拍手しました)
「建物は人の命の安全を守らねばならない」
そこで関係技術者の一人が辞表を出した。
それでも辰野金吾は引かなかった。構造は鉄骨で持たして壁には(煉瓦)力を負担はさせない。
いやはや 凄まじい迫力でした。
そのほか東京駅にまつわる数々の逸話、出来事も紹介されて 私も改めて東京駅に行ってそれらを確かめたくなりましたね。
まずは「ゼロキロ・ポイント」からか・・・・?
昨日 カミさんの妹が来て夕食は横須賀では このお店の「うな重」は結構 有名なお店である「うな萩」に行きました。
半年ぶりかな? 鰻も高くなりましたね~ェ。
私が「茶碗蒸し」が好きなのでカミさんはお客さん(カミさんの妹:現代美術家、画家 中村岳の母)にお構いなく注文していました。3人で鰻の前に出された「茶碗蒸し」を戴きましたが結構な味でよかったですね。
茶碗蒸しにも鰻が入っていて・・・。
その後 待望の「うな重」が出されて頂きましたが鰻は柔らかく美味いですね~ェ~
一緒に出された肝串も美味しかったです。(カミさんが気をきかしたらしい?)
お酒かビールでも飲めれば最高でしたが私が運転手だったのでお茶で済ましました。
いい夕食になりました。
台風が近づいてきたのでお客さんは本日(30日)急遽 早めに帰路に着きました。
衣笠駅に送りホームから電車の中の義妹に手を振り・・お別れをしました。
家に帰るや窓を開け放して自然の風を部屋に入れて今はとてもいい気分です。
自然の風で昼寝したのは半世紀ぶり・・・
目が覚めたら空は今にも暴れそうな雲行きになっていました。
名月は無理かな?
嵐は今夜 夜半らしい・・・ガタ・ガタと雨戸が五月蝿く また 泥棒と間違える?
今夜は早く寝ておくか?
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余録:「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅は…
毎日新聞 2012年09月29日 00時20分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120929k0000m070110000c.html以下全文
余録:「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅は…
毎日新聞 2012年09月29日 00時20分
「物はすべて中心を欠いてはいけない。東京駅はあたかも光線を放散する太陽のようなものだ。ここから四方八方に光を放ってほしい」。1914年の東京駅開業式で大隈重信首相は述べた
▲近代化の坂道を駆け上る帝国日本の威勢を示す壮麗な赤レンガ駅舎は、やがてそのつまずきによる戦災で焼かれる。3階建てを2階にし、応急工事の屋根をかぶせた駅舎は、今度は戦後の復興と経済成長の道をひた走る人々が行き交い、出会い、別れゆく場所となった
▲その経済成長がバブルに転じた80年代だ。JR東日本や東京駅を赤いバラをもった10人余の女性が訪れた。当時浮上した駅高層化構想に対し、赤レンガ駅の保存を訴えた編集者、森まゆみさんたちである。バラは「おしゃれな運動を」という合言葉のシンボルだった
▲後に多くの市民や建築家、文化人に広がった東京駅保存の動きは、とうとう99年のJR東日本による駅復元の決定につながる。昔は「日本の中心」の威信を担った駅舎が、この100年近い歳月のさまざまな記憶を蓄えた歴史遺産として創建時の姿をよみがえらせた
▲3階部分が復活し、南北に堂々たるドームを配した東京駅があさって開業する。外観は昔に戻ってもそこは現代、基礎に免震装置が組み込まれ、ハイテク耐震駅舎に生まれ変わった。床面積の半分はホテルとなって、ギャラリーには創建時や戦災の遺構も保存された
▲保存復元運動に尽力した建築家の藤森照信さんが皇居側正面から見た姿を横綱の土俵入りに見立てる復元・東京駅だ。次の1世紀、駅の横綱はどんな日本を、どんな人々の出会いと別れを見るのだろう。
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つぶやき
昨夜 TVで東京駅の設計者 建築家 辰野金吾の話をしていました。
印象に残った二つの言葉
辰野金吾氏はコンクリートの現場を見たことが無いので神戸まで行ったそうです。而して
「あんなドロドロした物が固まるとは思えんコンンクリートの使用は止める。全て煉瓦とする。煉瓦については私は熟知している」
↑(このセリフには思わず拍手しました)
「建物は人の命の安全を守らねばならない」
そこで関係技術者の一人が辞表を出した。
それでも辰野金吾は引かなかった。構造は鉄骨で持たして壁には(煉瓦)力を負担はさせない。
いやはや 凄まじい迫力でした。
そのほか東京駅にまつわる数々の逸話、出来事も紹介されて 私も改めて東京駅に行ってそれらを確かめたくなりましたね。
まずは「ゼロキロ・ポイント」からか・・・・?
山口の旅の思い出③にお越し頂きお付き合い有り難うございました。
体力増進には効くと言うウナギも最近は高く高級魚?びなりましたね。
此方も昨夜は中秋の名月が雲が多く見られませんでした。
読書と味覚の秋を楽しみましょ~!
('_')今朝は山口の旅の続きをアップしましたので御覧頂ければ幸せます。
('_')それではまた水曜日にお伺いさせて頂きま~す!
!(^^)!GOO!ブログの方に来訪・コメントをお待ちしていま~す!バイ・バ~ィ!!
鰻も高価になりました。中々食べられません。子供の頃 祖父と共に河口に出てバケツ一杯 鰻を取って帰り鰻の骨を焼いてもらい醤油をつけてオヤツ代わりにパリ・パリ食べた思いが強いです。
こちらも朝晩は肌寒くなりました。朝の散歩も暫くしていません。