ある禅僧の話
昨日のブログの「ひろさちやの般若心経88講」の中の第59講 「逃れられない運命」の続きです。
以下その本文の残りの写しです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある禅僧の話
まだ小僧さんの時代の話です。
師匠の代わりに檀家にお経をあげに行きました。
家の人は誰もいないので、仏壇に向かって経を読んでいますと、隣の部屋にご飯のおひつが置いてあり、赤ん坊が這ってきて、おひつからしゃもじを取り出して遊んでいます。
そのうちに、赤ん坊はしゃもじを畳みの上に投げ出し、しゃもじの上におしっこをしました。
しばらくして眼の悪いお婆さんが帰ってきて、畳の上に落ちているしゃもじをおひつに戻しました。
眼が悪いので、おしっこが見えなかったらしいのです。
お経が終わったあと、お婆さんは小僧さんにご飯を食べて行け・・・とすすめます。
でも小僧さんは食べられません。
きょうはおなかをこわしているので・・・と、断って帰りました。
それから数日後、今度はお婆さんは、きょうは甘酒を用意してあるから、飲んで行ってくれと言いました。
甘酒は小僧さんの大好物ですし、おいしい甘酒なので三杯もおかわりをしました。
すると、おばあさんはニコニコしながら言いました。
「この間は、あんたが食事をしてくれないので、ご飯が余って困りましたよ。そのご飯で甘酒をつくったんです。おかわりまでしてくださって、ほんとにありがとうございました」
いただけない物は、いくら逃げ回っても、ちゃんといただくように出来ているのですな・・・。
そう禅僧はコメントしました。
私たちは災難に出合った時に、それから逃げようとしてジタバタします。
しかし、どうせ逃れられない運命であれば、ジタバタするだけ精神衛生にわるいのではないでしょうか・・・。
逃れよう逃れようとする心が、逆にますます恐怖をつのらせることになります。
歯が痛くなったときなど、歯医者に行く前のほうが恐怖心が強いのではありませんか。
終わってみると「なんだ、これくらい」と言うことになりそうです。
江戸時代の禅僧の良寛さんが、こんなふうに手紙に書いておられます。
「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのかる、妙法にて候」
災難に遭うときは、しっかりと災難に遭えばいいのです。死ぬときは、しっかりと死ねばいいのです。そうすると、恐怖心はなくなります。
「般若心経」は、
・・・「無有恐怖(むうくふ)。」・・・と言っています。恐怖のあること無し。
それは以上のような意味なのですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上が前日のブログを含めた、この59講の「逃れられない運命」のお話でした。
「テヘランの寓話」を読み、それから急にポアンカレの証明を書いたために肝心の59講の話が飛びました。
きょうのこの文章で「ひろさちやの般若心経88講」の中の59講は完結です。
受け入れなければならない運命はあるようです。
私の膝が痛いのも運命?怒られるかな?ちと違った?
このような本を書き写すのも大変でした。
*本に眼を通しながらキーボードをブラインド・タッチできればいいのですが、不器用で一本足なもので・・・・。
PS:今 6時半で未だ朝日は昇る寸前ですが、もう辺りはスッカリ明るくなっています。午前4時前から書き始めてやっと終わったようです。
誤字があるかも?その節はご寛容のほどをお願いいたします。
本の写し間違えは失礼と思い何度も読み返しましたが、よく分かりません。
今 朝日が庭に射しこみました。6時36分です。
きょうも皆様のご健勝を朝日に祈りまして・・・。
昨日のブログの「ひろさちやの般若心経88講」の中の第59講 「逃れられない運命」の続きです。
以下その本文の残りの写しです。
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ある禅僧の話
まだ小僧さんの時代の話です。
師匠の代わりに檀家にお経をあげに行きました。
家の人は誰もいないので、仏壇に向かって経を読んでいますと、隣の部屋にご飯のおひつが置いてあり、赤ん坊が這ってきて、おひつからしゃもじを取り出して遊んでいます。
そのうちに、赤ん坊はしゃもじを畳みの上に投げ出し、しゃもじの上におしっこをしました。
しばらくして眼の悪いお婆さんが帰ってきて、畳の上に落ちているしゃもじをおひつに戻しました。
眼が悪いので、おしっこが見えなかったらしいのです。
お経が終わったあと、お婆さんは小僧さんにご飯を食べて行け・・・とすすめます。
でも小僧さんは食べられません。
きょうはおなかをこわしているので・・・と、断って帰りました。
それから数日後、今度はお婆さんは、きょうは甘酒を用意してあるから、飲んで行ってくれと言いました。
甘酒は小僧さんの大好物ですし、おいしい甘酒なので三杯もおかわりをしました。
すると、おばあさんはニコニコしながら言いました。
「この間は、あんたが食事をしてくれないので、ご飯が余って困りましたよ。そのご飯で甘酒をつくったんです。おかわりまでしてくださって、ほんとにありがとうございました」
いただけない物は、いくら逃げ回っても、ちゃんといただくように出来ているのですな・・・。
そう禅僧はコメントしました。
私たちは災難に出合った時に、それから逃げようとしてジタバタします。
しかし、どうせ逃れられない運命であれば、ジタバタするだけ精神衛生にわるいのではないでしょうか・・・。
逃れよう逃れようとする心が、逆にますます恐怖をつのらせることになります。
歯が痛くなったときなど、歯医者に行く前のほうが恐怖心が強いのではありませんか。
終わってみると「なんだ、これくらい」と言うことになりそうです。
江戸時代の禅僧の良寛さんが、こんなふうに手紙に書いておられます。
「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのかる、妙法にて候」
災難に遭うときは、しっかりと災難に遭えばいいのです。死ぬときは、しっかりと死ねばいいのです。そうすると、恐怖心はなくなります。
「般若心経」は、
・・・「無有恐怖(むうくふ)。」・・・と言っています。恐怖のあること無し。
それは以上のような意味なのですね。
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以上が前日のブログを含めた、この59講の「逃れられない運命」のお話でした。
「テヘランの寓話」を読み、それから急にポアンカレの証明を書いたために肝心の59講の話が飛びました。
きょうのこの文章で「ひろさちやの般若心経88講」の中の59講は完結です。
受け入れなければならない運命はあるようです。
私の膝が痛いのも運命?怒られるかな?ちと違った?
このような本を書き写すのも大変でした。
*本に眼を通しながらキーボードをブラインド・タッチできればいいのですが、不器用で一本足なもので・・・・。
PS:今 6時半で未だ朝日は昇る寸前ですが、もう辺りはスッカリ明るくなっています。午前4時前から書き始めてやっと終わったようです。
誤字があるかも?その節はご寛容のほどをお願いいたします。
本の写し間違えは失礼と思い何度も読み返しましたが、よく分かりません。
今 朝日が庭に射しこみました。6時36分です。
きょうも皆様のご健勝を朝日に祈りまして・・・。
「災難に逢うときは、しっかりと災難に遭えばいいのです。死ぬときは、しっかり死ねばいいのです。そうすると恐怖心はなくなります」が
心に響く文言でした。
上記の図書買い求めます。
それでも片っ端から忘れます。そして、また読みます。記憶がモールス信号のようになっています。
ご訪問 ありがとうございました
新しいブログも 覗いて頂ければ幸いです
これからも よろしくお願い致します
いつもソースを拝借してnon_non様の大変な努力の結晶の恩恵に与っています。
お陰さまで拙い私のブログも変化が楽しまれます。ありがたいことと感謝しています。
こちらこそ宜しくお願い申し上げます。
早速新しいWEBに訪問させてもらいます。
本日は有難うございました。