きょうの午後は我輩も参加している、あるサークルの方が先日急逝された。
その方の告別式に出席する予定である。
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朝 窓を開けた空は明るく綺麗な空であった。
亡くなられた方は2年前にご主人をなくされたご婦人で我輩と同年か?少しお若い方ではなかったか?
詳しいことは分からないが、なくなられて数日後に
「ちかごろ○○さんを見かけないが・・・」と言うことでお家に行かれた方が倒れられている○○さんを見られたようだ。
既に命絶えて数日経っていたとか?
近頃このような新聞記事を見るのは目新しいことではないが自分の身の近くでは身に包まされる。
我輩のそばにはまだ五月蝿い?ながらもカミさんがいる。
我輩の身に何かあればカミさんに任しておけばいいと思っているが・・・。
なんとなく自分も誰にも知られずに一人で旅立ちたいな~と思うようになった。
ある未亡人の方が馳せ参じたお子さんやお孫さんに看取られながら臨終の直前に既に亡くなられたご主人の名前を呟かれなから何時しか息を引き取られたという話を聞いたことがある。
意識があったのか?それとも潜在する無意識のなせることか分からぬが・・・・・。
我輩が息を引き取る時は何を呟くか?
或いはとんでもないことを叫ぶかは?分からない。
何しろ、ろくなことはしていないからな~ 嘆き・・・
苦しくなり思わず「誰か・・・助けて・・・」と叫ぶかも?
もしも助けを呼んだ人の名がカミさん以外の人の名だったらと考えるとゾッゾ~とする。
いずれにせよ今生(コンジョウ)の今際(イマワ)の際(キワ)の見苦しい姿は誰にも見せたくはない。
これが我輩が一人旅立つのを望む由縁(ユエン)でもある。
”死”から、この世に帰った方が居ないので死後の様子は分からないが・・・。
最近?富に流行っている”カルト”の世界ではそのような話も多いが、いずれもその内容は信じてよいか?どうかは判別できない。
今 午前7時半 庭に陽が射してきた。庭に降りると少し寒さを感じる。
ふと傍の梅ノ木をみると白いものが見えた。
我が家の梅も芽を覚ましてきたらしい?3~5厘 白い花が咲いてきた。
早速 梅の花をデジカメに撮ろうとデジカメに電源を入れるとレンズが出たままでウンとも・スンとも動かなくなった。
どうやら電池切れらしい。
別なデジカメを持ち出して撮影?した。
気温は10度を示していた。
家を出るのは12時前である。
それまでユックリとしよう。
カミさんはきょうから町内の文化祭が始まるその会場にカミさんの絵も展示される。
帰宅後か?明日にでも見に行かねば・・・。
今後のためにも・・・。
PS:デジカメの電池の充電をしたが直ぐに完了した?何故か分からぬが?このようなことは初めての出来事である。デジカメにセットするとレンズは引っ込み撮影可能となった。電池の状態は満タンであった。
大体がまだ電池が切れるには早すぎる感じだったのだ。変な出来事だった。
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論説委員・福島敏雄 「無縁死」は恐怖なのか
2011.2.19 03:08
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110219/trd11021903090000-n1.htm
◆「孤族」という造語
ヨソの新聞社の企画記事をあげつらうのは気がひけるが、昨年末から朝日新聞紙上で始まった「孤族の国」という大型企画には、思わず失笑してしまった。2、3回ほど読んだ限りでは、高齢化や貧困、引きこもりなどで孤立し、果ては孤独死していく男たちなどをテーマにした企画らしく、よく取材しており、内容も読ませる。
失笑したのは、ふたつの理由からだ。これは菊池寛賞を受賞したNHKの大型企画「無縁社会」の二番煎じではないか、というのが一点。だが二番煎じは、ジャーナリズムの世界では、いわば「常識」に属しており、目くじらを立てるほどではない。
もう一つの理由は、「孤族」という造語である。これには目くじらを立ててみたい。企画の担当者は気にいったかもしれないが、ほとんど意味不明で、センスの悪い造語である。「こぞく」という語感も良くなく、とても流行語にはならないであろう。
「孤」と「族」は反対の概念である。貴族や暴走族、さらには家族のように、「族」には群れやグループという意味がある。孤独や孤立を指す「孤」が群れをなしたら、そもそも「孤」ではなくなってしまう。
NHKや朝日が取りあげる無縁死や孤独死は、もともと意味が極めて曖昧である。NHKは遺体の引き取り手がなく、税金で火葬、埋葬されたケースを無縁死と定義している。独自調査の結果、年間3万2000人にのぼり、これを「衝撃の数字」だとしている。だが人口1億2700万人という母数を考えれば、3万2000人が「衝撃」だとはとても思えない。
孤独死にいたっては、データも存在しない。仮にだれにも看(み)取られない「死」としても、増えているのか、減っているのかも分からない。再び1億2700万人という母数を考えれば、相対的に増えていると推定できるだけだ。
◆サンデル先生の問題点
無縁死や孤独死が、現在の社会の表層に急浮上してきた理由は簡単だ。血縁や地縁、あるいは社縁が薄らぎ、崩壊しつつあるからだ。だが「個」が前面にせり出し、それが「孤」につながっていくのは、高度に発展した資本主義社会の宿命である。
これに対し、「白熱教室」で脚光を浴びたハーバード大学教授、マイケル・サンデル氏は、コミュニタリアニズム(共同体主義)の大切さを説いた。アリストテレス以来の「共通善」という概念を引っ張り出し、その「善」を求めるのが「正義」だと結論づける。
サンデル氏の考え方に瑕疵(かし)があるとすれば、高度資本主義社会という大前提をあまり重視していないことだ。逆に言えば、高度資本主義社会はさまざまなコミュニティーを破壊し続けることによって、発展してきた。
たとえば社縁が薄らいだのは非正規労働者が増え、能力主義による賃金格差が進み、転職者が急増したからである。地縁についても、単身者世帯の増加や、プライバシーが重視されることによって、徐々に薄らぎつつある。血縁だけは残るが、都会に出ることによって、縁者との付きあいも徐々に薄らいでいかざるをえない。
無縁死や孤独死を防ぐための最低限の手立ては、サンデル氏も指摘するように共通善に基づく「正義」を体現した国家によるセーフティーネットを充実させることである。
だが日本という国は、いまだに家族や親族という「族」が老いや病や貧困に苦しむ者たちを助けるべきだとする古典的な発想にとらわれたままである。
◆「死」はつねに孤独
無縁死や孤独死は、たしかに痛ましい。身よりのない単身高齢者は「無縁死」におびえ、非正規を中心とした若い世代でも、「このままでは孤独死する」と恐れている者が多くいるという。
原理的に言えば、人間の死は常に無縁死であり、孤独死である。親族や知人が多くいたとしても、この世との縁が切れた、つまり無縁になったのだから死ぬ。それは同時に人生における最後の「孤独なお仕事」でもある。
さらに言えば、「死」と「生」は対(ペア)なる概念ではない。生きるということは自らの中に「死」を植え込み、それを自覚し続けることである。ドイツの哲学者、ハイデッガーはそうした生を「本来的な生」と呼んだ。だがほとんどの人間は、自らの死などを自覚せず、安穏とした「非本来的な生」を送っている。
「ミスター検察」と呼ばれ、検事総長までのぼりつめた伊藤栄樹(しげき)氏は『人は死ねばゴミになる』という遺著を残した。「本来的な生」を生き抜いた男だからこそ、言えたコトバである。(ふくしま としお)
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亡くなられた方は2年前にご主人をなくされたご婦人で我輩と同年か?少しお若い方ではなかったか?
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「ちかごろ○○さんを見かけないが・・・」と言うことでお家に行かれた方が倒れられている○○さんを見られたようだ。
既に命絶えて数日経っていたとか?
近頃このような新聞記事を見るのは目新しいことではないが自分の身の近くでは身に包まされる。
我輩のそばにはまだ五月蝿い?ながらもカミさんがいる。
我輩の身に何かあればカミさんに任しておけばいいと思っているが・・・。
なんとなく自分も誰にも知られずに一人で旅立ちたいな~と思うようになった。
ある未亡人の方が馳せ参じたお子さんやお孫さんに看取られながら臨終の直前に既に亡くなられたご主人の名前を呟かれなから何時しか息を引き取られたという話を聞いたことがある。
意識があったのか?それとも潜在する無意識のなせることか分からぬが・・・・・。
我輩が息を引き取る時は何を呟くか?
或いはとんでもないことを叫ぶかは?分からない。
何しろ、ろくなことはしていないからな~ 嘆き・・・
苦しくなり思わず「誰か・・・助けて・・・」と叫ぶかも?
もしも助けを呼んだ人の名がカミさん以外の人の名だったらと考えるとゾッゾ~とする。
いずれにせよ今生(コンジョウ)の今際(イマワ)の際(キワ)の見苦しい姿は誰にも見せたくはない。
これが我輩が一人旅立つのを望む由縁(ユエン)でもある。
”死”から、この世に帰った方が居ないので死後の様子は分からないが・・・。
最近?富に流行っている”カルト”の世界ではそのような話も多いが、いずれもその内容は信じてよいか?どうかは判別できない。
今 午前7時半 庭に陽が射してきた。庭に降りると少し寒さを感じる。
ふと傍の梅ノ木をみると白いものが見えた。
我が家の梅も芽を覚ましてきたらしい?3~5厘 白い花が咲いてきた。
早速 梅の花をデジカメに撮ろうとデジカメに電源を入れるとレンズが出たままでウンとも・スンとも動かなくなった。
どうやら電池切れらしい。
別なデジカメを持ち出して撮影?した。
気温は10度を示していた。
家を出るのは12時前である。
それまでユックリとしよう。
カミさんはきょうから町内の文化祭が始まるその会場にカミさんの絵も展示される。
帰宅後か?明日にでも見に行かねば・・・。
今後のためにも・・・。
PS:デジカメの電池の充電をしたが直ぐに完了した?何故か分からぬが?このようなことは初めての出来事である。デジカメにセットするとレンズは引っ込み撮影可能となった。電池の状態は満タンであった。
大体がまだ電池が切れるには早すぎる感じだったのだ。変な出来事だった。
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論説委員・福島敏雄 「無縁死」は恐怖なのか
2011.2.19 03:08
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110219/trd11021903090000-n1.htm
◆「孤族」という造語
ヨソの新聞社の企画記事をあげつらうのは気がひけるが、昨年末から朝日新聞紙上で始まった「孤族の国」という大型企画には、思わず失笑してしまった。2、3回ほど読んだ限りでは、高齢化や貧困、引きこもりなどで孤立し、果ては孤独死していく男たちなどをテーマにした企画らしく、よく取材しており、内容も読ませる。
失笑したのは、ふたつの理由からだ。これは菊池寛賞を受賞したNHKの大型企画「無縁社会」の二番煎じではないか、というのが一点。だが二番煎じは、ジャーナリズムの世界では、いわば「常識」に属しており、目くじらを立てるほどではない。
もう一つの理由は、「孤族」という造語である。これには目くじらを立ててみたい。企画の担当者は気にいったかもしれないが、ほとんど意味不明で、センスの悪い造語である。「こぞく」という語感も良くなく、とても流行語にはならないであろう。
「孤」と「族」は反対の概念である。貴族や暴走族、さらには家族のように、「族」には群れやグループという意味がある。孤独や孤立を指す「孤」が群れをなしたら、そもそも「孤」ではなくなってしまう。
NHKや朝日が取りあげる無縁死や孤独死は、もともと意味が極めて曖昧である。NHKは遺体の引き取り手がなく、税金で火葬、埋葬されたケースを無縁死と定義している。独自調査の結果、年間3万2000人にのぼり、これを「衝撃の数字」だとしている。だが人口1億2700万人という母数を考えれば、3万2000人が「衝撃」だとはとても思えない。
孤独死にいたっては、データも存在しない。仮にだれにも看(み)取られない「死」としても、増えているのか、減っているのかも分からない。再び1億2700万人という母数を考えれば、相対的に増えていると推定できるだけだ。
◆サンデル先生の問題点
無縁死や孤独死が、現在の社会の表層に急浮上してきた理由は簡単だ。血縁や地縁、あるいは社縁が薄らぎ、崩壊しつつあるからだ。だが「個」が前面にせり出し、それが「孤」につながっていくのは、高度に発展した資本主義社会の宿命である。
これに対し、「白熱教室」で脚光を浴びたハーバード大学教授、マイケル・サンデル氏は、コミュニタリアニズム(共同体主義)の大切さを説いた。アリストテレス以来の「共通善」という概念を引っ張り出し、その「善」を求めるのが「正義」だと結論づける。
サンデル氏の考え方に瑕疵(かし)があるとすれば、高度資本主義社会という大前提をあまり重視していないことだ。逆に言えば、高度資本主義社会はさまざまなコミュニティーを破壊し続けることによって、発展してきた。
たとえば社縁が薄らいだのは非正規労働者が増え、能力主義による賃金格差が進み、転職者が急増したからである。地縁についても、単身者世帯の増加や、プライバシーが重視されることによって、徐々に薄らぎつつある。血縁だけは残るが、都会に出ることによって、縁者との付きあいも徐々に薄らいでいかざるをえない。
無縁死や孤独死を防ぐための最低限の手立ては、サンデル氏も指摘するように共通善に基づく「正義」を体現した国家によるセーフティーネットを充実させることである。
だが日本という国は、いまだに家族や親族という「族」が老いや病や貧困に苦しむ者たちを助けるべきだとする古典的な発想にとらわれたままである。
◆「死」はつねに孤独
無縁死や孤独死は、たしかに痛ましい。身よりのない単身高齢者は「無縁死」におびえ、非正規を中心とした若い世代でも、「このままでは孤独死する」と恐れている者が多くいるという。
原理的に言えば、人間の死は常に無縁死であり、孤独死である。親族や知人が多くいたとしても、この世との縁が切れた、つまり無縁になったのだから死ぬ。それは同時に人生における最後の「孤独なお仕事」でもある。
さらに言えば、「死」と「生」は対(ペア)なる概念ではない。生きるということは自らの中に「死」を植え込み、それを自覚し続けることである。ドイツの哲学者、ハイデッガーはそうした生を「本来的な生」と呼んだ。だがほとんどの人間は、自らの死などを自覚せず、安穏とした「非本来的な生」を送っている。
「ミスター検察」と呼ばれ、検事総長までのぼりつめた伊藤栄樹(しげき)氏は『人は死ねばゴミになる』という遺著を残した。「本来的な生」を生き抜いた男だからこそ、言えたコトバである。(ふくしま としお)
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本日の福島氏の解説を読み思わず目が覚めました。かっての上司が発見されたのが、数ヶ月たってからと連絡があったのは今年になってからでした。あれだけエラ-イ人でもナ~ト。偉かったので付き合いは無かったのですが。
狐族の解説は正にその通り、説得力の無い造語でアジェンダと同じです。
ヤツガレの狐狸庵では、マイケルサンデル氏{政治哲学者)の初公開の講義(再放送)は今正月にあり、毎夜朝の4時まで付き合いました。氏の巧みに学生達を引き込む手法に感心すると同時に、明らかに多民族の学生達の発言が実にしっかりしており、この様な学生が政治の世界に巣立っていけばまだ世界も捨てたものではない?
東大でも講義があったそうです。日本の学生のレベルは?ヤツガレは体育会系だったので、哲学の講義は睡眠時間で、内容の理解度は無論さっぱりでしたが。福島氏の解説でもやもやが晴れました。先輩 紹介いただき有難うございました。
宮沢賢治の詩{永訣の朝にoraoradesitoriegumo と言う、そこだけローマ字があり、妹を看取るる時の自分の覚悟を歌った花巻弁だそうですが。オラハ死ぬときは一人だ)正にそうですね。爺は運動中にぱったり逝きますので心配していませんが{笑)
草々
気楽なメタボ拝
マイケルサンデル氏の講義は評判がいいですね。一方通行でなく相手の主張も立てて直流講義でなく交流講義のようで説得力がるようです。私はラジヲでも聞いたことはなく偶々ネットの記事で読み感心しただけです。私も体育系で哲学、経済、等は???で寝ていました。
卒業したのが不思議です。
死は矢張り一人がいいようです。ただ私が一人がいいというのは少々不純なものがあるようです。されど、そろそろそれを考えなくていけない年齢になりました。
メタボさんのIQに敬服します。またよろしく