10月25日に実施された 本年度の中小企業家経営塾 平成25年度 第1講
「グローバル化の前線で戦う覚悟を胸に……
後継者に甘えなし、自らの手で実績を積み上げる」 の
講師、極東ダイカススト 株式会社 専務取締役 山森勝利 氏 より
事前に、長文となる講義の原稿をいただいております。
とても、1時間の講義に収まる内容ではなく、少し心配心配していましたが
当日は、このエッセンスを、うまくまとめて、お話しされました。
中国ビジネスや研究開発の前線に立って、
次の時代を事業を切り開いている 極東ダイカススト 専務 の 山森勝利 氏
何を糧に、この道を歩んできたか?
そして、そこから何を学び、何を身につけてきたのか? が、克明に書かれています。
この講義の原稿を、3回に分けて、掲載させていただきますので、
お時間のある方は、是非、目をお通しください。
製造業のグローバル化対応と事業継承の難題をのりこえ、
どのように歴史を積み上げていくか?
~ 学生から社会人へ ……
心構え/必要なスキル/自分以外の人間に必要とされる存在になるには? ~
旭東ダイカスト 株式会社 取締役専務 山森勝利 氏
目 次
1.はじめに(会社概要&沿革)
2.学生から社会人への歩み
3.ドラマ制作の仕事・現場で学んだ社会人としての基本
4.はじめは契約社員として弊社に入社、新事業に向けての研究開発責任者に任命される。
5.中国現地人材育成から、グローバル化の前線へ
6.新しい課題に取組む中国ビジネス
これから、私の学生時代から社会人になるまでの実体験と、
現在中小製造企業を継承している上で、製造業としての弊社創業80周年を迎え、
以後20年すなわち100周年を迎えるための事業計画、歴史を刻み続けるための企業努力、
会社という船をどのように操舵していかなければならないのかという観点から、
話をしていきたいと思います。
1.はじめに(会社概要&沿革)
弊社は、1932年8月1日私の母方の祖父である、福永清 が創業しました。
資本金は4,250万円で、
2002年までは、東京都大田区下丸子に本社工場、
埼玉県に嵐山工場・神奈川県に山北工場・北海道苫小牧に北海道工場と、
日本には計4箇所もの工場がありました。
バブル崩壊以降の中小製造企業は、大手メインバンクなどから運転資金の貸しはがしを受け、
手形の不渡りや返済・支払金未払いなどが増え、倒産する企業が相次ぎました。
弊社は、いち早く工場の合理化集約を果たし、現在の神奈川県足柄上郡山北町に本社登記変更も済ませ、
金型・設備など良いものだけに選別し移設しました。
この時、合理化集約できなかったことから倒産する中小製造企業は少なくありませんでした。
この事は小泉内閣の痛みを伴う政策の典型的な事例でしょう。
この頃から日本経済の発展に貢献してきた中小製造企業が姿を消し始めていきました。
弊社はこの合理化集約にて、
“捨てる・削る・止める、から創る”を合言葉に、大胆な構造改革をやり続けてきました。
1995年いち早く中国の上海・寧波に合弁でダイカスト工場を設立しグローバル化を図りました。
1999年には、難燃性マグネシウムダイカスト製造法・給湯機・溶解保持炉設備の研究開発を、
東京都の助成金を受け着手し、大田区産業プラザPiOにて成果報告発表を行いました。
2007年には中国寧波市寧海県にKSTという表面処理工場を立ち上げ、
2008年には寧波市にKMTという貿易商社を設立いたしました。
これは、ダイカストだけではない関連する異業種の分野に着手した、
一貫生産による更なる合理化コストダウンに中国も対応してゆく為に取った手段です。
2012年現在、寧海県開発区内に満を持して独資で1万坪の工場を建設中です。
詳しくは後半にお話します。
以上の歴史的流れから、
創業100年を目指す事業戦略として"持続的発展"を続ける企業を目指しております。
会社の企業理念として、“団結と挑戦”を掲げ
【団結】は各職場・全従業員が強い連帯感を以て協力し、【挑戦】は現状に甘んじることなく、
常に問題意識を持って工夫・改善を怠らずに日々の仕事に全力を尽くすということを、
全社員が実際の行動で示すことができるよう個々の能力を高めております。
2.学生から社会人への歩み
私は高校受験のとき、
当時三教科でマークシート方式であった東海大学高輪台高等学校に絞り、合格することができました。
これは、運が半分以上占めていたと自分では思っております。
マークシートの記入欄がずれていることに最後の方で気づき、
直す時間がなかったので、最後の方のまだ解いていない問題は、
マークの流れから適当にまとめて埋めるという事態になってしまったのです。
これで合格したのですから、マークシートのお陰です。
更に当時この高校は、大学への推薦入学率90%ということでしたので、これも選んだ理由の一つでした。
高校では電子工学科にて3年間、
主に勉強になったのは実験レポートの作成が今思えば自分の財産となっております。
大学への推薦は、成績の良い順から学科が選べた為、私にはあまり選択権が無く、
これまた当時あまり人気の無かった物理・原子力・海洋学部の3種類からしか選べなくて、
原子力は嫌でしたし湘南校舎に通いたかったので物理学科へ行くことにしました。
ここでは、高校で培った実験レポート作成技術が役に立ち、一般受験入学者たちとギブアンドテイクで、
授業ノートの写しと交換で実験レポートを貸し出して持ちつ持たれつの関係を作っていました。
何とか現役で卒業できることにはなりましたが、
その年バブルがはじけ就職難の時代にぶちあたってしまいました。
まわりをみていて、
とりあえず就職できるところに就職するのだという考えに違和感を覚え、父親に相談し、
親族の中で理学部物理学科を現役で卒業するといった事例が今までに無かったことを認めてもらい、
自分がやりたかった特殊メイクアップアーティストの専門学校に行くことにしました。
この専門学校では、
エクソシストに出てくる少女のダミー人形で首が回るといった特殊メイクを手がけたディック・スミス氏、
プレデターのモンスタースーツを手がけたスクリーミング・マッドジョージ氏、
ミンボーの女の特殊メイクをてがけた佐和一弘氏他、
日本講師陣では、
円谷・東映の美術・特殊効果の関係者がそろい、充実した2年間を送ることができました。
父親の大学時代の同級生であった ある国会議員に頼んで
アメリカ永住権、俗にいうグリーンカードを入手し、ハリウッドで働く予定でいたのですが、
卒業間際に、その国会議員が汚職事件で逮捕され、
グリーンカードが入手できず就職できないという事態となってしまいました。
その時専門学校では卒業制作作品を撮影中で、
私は製作総指揮を任され製作資金管理と総合プロデュースをしていた為、
その能力を評価されてTV局のプロデューサーの紹介を受け、フリーランス(自営業)で
日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の3社でドラマ専門の制作を手がける仕事に就きました。
下記につづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます