相談員の高橋です。
最近、縦の写真が横にしか表示されずに困っていました。困っても何もできないのが、このパソコンの世界。
そして、今回、アップロードしたらなんだかよくわからないけれど治ってました。これもパソコンの世界なのか。無知なのか。
さて、ふらっと音羽台の第二回が開催されました。
この「ふらっと」は、ふらっと来て、ふらっと帰っていいですよ〜と言う意味と、それこそ「フラット」な関係で、勉強を楽しみたい人たちにきてもらいたいと言う意味です。
ですので、別に音羽台の職員の方でなくても全然かまいません。すこし関係があるというか、だれかと繋がっていれば問題なしです。その代わり、残業代はつきません(笑)。
つまり、おおらかな勉強会です。
第一回は9月に開催。「コミュニケーションについて」でした。
参加人数6人。私と、私と一緒に企画している仲間1名と先生の川崎さんだけでも、勉強が楽しめればいいやと思い始めましたが、地域のボランティアの方が2名も来てくださり、職員さんも2名来てくださりました。内容は、こちらでも紹介しましたが、目から鱗の本当に素敵な勉強会でした。
さて、今回は「認知症ケアについて」でした。
前回から、さほど宣伝はしていません。あまり強く言うと、趣旨とかわってきてしまうので、ありのままにというか、ながれるまままに。
お菓子も、コーヒーも八人分くらい用意してお待ちしてました。
開始の18時になると…
川崎さんの話ぶりは、もうなんと言うか「やさしい」んです。認知症ケアの話を聞いていると「そうだなよ」「そうするべきだよな」と、素直に染みてきます。今回も専門職以外の地域の方が起こしくださっているので、専門用語は使わず、それでいて簡単すぎず、絶妙なところで話を進めてくださいます。今回は、歯科衛生士の方やマッサージ師の方もいらっしゃいました。BPSDとかレビー小体とか、MCIとかそう言う言葉を使わずに、当事者の感情や気持ち言葉を受け止めるように努力すること(どこに飛んで行くかわからないボールを拾いつづける努力)で、その方が「ここに居てもいいんだ」と思える場所をつくることが大切なこと。だけれども、当事者の方達の感情や気持ち、言葉を受け止めるには「技術」が必要なことを、優しい語り口で丁寧に教えてくれました。ものすごく勉強した感じになる(笑)。
勉強後は、恒例のけん玉教室。
何気に私は上手になりつつあります。やるたびに上手くなる。むふふ。
けん玉後は、恒例のお食事会。今回は、私の大好きな「たみんち」さんにお邪魔できました。
昨日よりも、今日、今日よりも明日の方が、専門職として「技術」が向上しているはず。そうでなくては仕事ではないよね…なんて話しもしながら夜はふけて行くのでした。
次回は、11月1日(木)18時からです。もしよろしければお越しください。
今回も備忘録として、研修の内容をこちらに貼り付けておきます。
ふらっと音羽台 第二回「認知症ケアについて」
平成30年10月11日(木)18時〜19時
講師:川崎 初美さん 合同会社 一歩 代表社員 理学療法士
今日、体験したことを持ち帰って、職場や生活の中で生かしてもらいたい。
認知症はいきなりなるものではない。脳の病気。後戻りはできない。
認知症になる前には軽度認知障害となる。軽度認知障害は元に戻ることができる。
100歳を超えると7割以上はアルツハイマー型認知症になる。つまり、いずれ誰でもなる病気。
体験
二人一組になって
1から120までを滑舌良く言ってみよう。
一人はジャッジする人。
先生は40秒 50秒 60秒…と伝えます。数え終えたら手を上げてください。ジャッジしている人は、何秒だったよと伝えてください。数えた人はタイムを書いておいてください。
認知症になると言語の流暢性が衰えてくる。
大根きゅうり人参…長谷川式で出てくるテストは流暢性を評価している。
平均
大学生:25秒
30歳代:35秒
40歳代:40秒
50歳代:50秒
60歳代:60秒
60秒以内に収まるようになっているといいですね。
訓練をすれば、80歳代でも60秒以内に終わる。繰り返し行うことで、1回に何文字まで言えるか。どうやればいいかの対策を練るようになる。ユニットやデイサービスのちょっとしたレクとしてもいい。子供にもいい。どうやればいいのか考える。収集力も増す。筋肉もほぐれる。
ルールを決めたことを積み上げていく。肺活量にも認知機能の維持、向上にも役立つ。それをどんどん周りに広めていくと、予防の効果も広がる。
認知症はいつ頃になってしまうのか。
認知症になってしまった人の気持ちはどんな感じ?
現実との葛藤する人(わからくなりつつある自分を認識している人)→誰かに当たる
自分の世界(自分の記憶の中)で生活する人→なかったことにすることで自分の気持ちを保つ
自分の殻に閉じこもる(失敗をしたくない)人→自分の殻に閉じこもる
過去の失恋や挫折した時の気持ちに似ていませんか?
自分の対処の仕方と似ている。
認知症は病気ではあるが、人柄とか、本質的な部分はかわらない。
認知症になってしまった人も、私たちと変わらない。
覚えていられない不安がある。
自分で解決できないストレスがある。やればやるほどおかしなことになってしまう混沌の中で生きている。
どんな状態でいることが良いのか?
何をしてほしいかを表現できる状態。表現できなくてもわかってくれる人がそばにいる状態。つまり居場所がある状態。
生活を楽しみ、自尊心を保つことができる状態。
症状にあわせて対応を変える。
物忘れ:
「わすれること」を活用する。悪いことも忘れてくれる。時間をかえる、人を変える、環境を変える。記憶が留まっている時間をアセスメントする。
妄想:
同じ感情を共有して味方にする。「時計がなくなったの こまったわ」→「時計がなくなったの?」ではなくて「大変ね」「困ったね」と。無くなったものではなくて、無くなって困ってしまっている感情を共有し、表現する。そのあとに一緒に探す。つまり「受け止める」→「味方につける」とする。認知症の方は敵か味方かの嗅覚は鋭くなる。まずは、受け止めてあなたの味方になること。
見当識障害:
不安な気持ちの共有をする。うけとめる。
人物誤認:
否定せずに受け入れる。認知症は進行する。
徘徊:
何をしているのかを知ること。9割方、徘徊には目的があると言われている。本当の徘徊は、立って歩いたけれど、座り方がわからないから永遠と目的なく歩いている行動のこと。「どちらにいくの?」「何をしているの?」と聞いてあげれば、目的がわかる。目的がわかれば、アセスメントにつながる。
元看護師さんの認知症の方が、他人の方の部屋を開けて周る→仕事しているつもりだから当然→今は休憩中だよと伝えてあげれば、一度肯定してあげれば、一瞬、言葉が入る。味方になってあげて気持ちを掴んであげたい。もし、怒ったら「勘違いでした。ごめんなさいね」と謝る。感情の動きは負ではない。喜怒哀楽が出ることは良いこと。ただ、放っておくのは良くない。寄り添う、誤解を解くなどもコミュニケーション術なんです。
幻覚:怖がる気持ちを安心へ。見えているんだから、一緒に怖がる。怖がっているんだから、怖がっている気持ちを受け止めた方がいい。「片付けておくね」「退治しておくね」と。記憶障害もある。怖がっている気持ちを受け止めたのちに、話題を変える。記憶が保たれていれば、記憶が保たれている時間のアセスメントをする。
不潔行為:平静に始末する。なんとかしなきゃと思うからこそ、なんとかしようとしている途中に記憶が途切れてしまい、行動の誤作動をしてしまう。汚いものをなんとかしようと考えていたが、その記憶がとぎれ、片付けなくてはとなり、タンスにいれてしまう。
ある程度の記憶力がある方が、不潔行為を起こすことになる。そこにアプローチしても致し方がない。本人が気にしないように、何事もなかったように後始末する。
認知症の原点はどこ。
2事例。
①「トイレの場所がわからなくて失敗してしまう方」の事例。
尿意→行動→場所認識ができない→失禁してしまう→心理的なショック(当然)
おかしな部分は、場所の見当ができないことだけとのアセスメントになる。
トイレに行きたい時にトイレまで誘導できれば解決できる。手前の反応がわかればわかるほど、ケアの質が高い(アセスメントができている)ことになる。そこが技術。
トイレへの声かけも「響く」声かけが必要。それも技術。散歩に行くふり、一緒に行く…何でその方が行動を起こすのかアセスメント。
心理的なショックを受けている場面では、そのフォローも必要。
現実世界でトイレに行うという流れは保たれている。
②「トイレを使わずに廊下の端でおもむろに下着を下ろして排尿する方」の事例
物語を確認したら…明治生まれ 畑仕事をしていた 母屋で排泄をするのではなく、畑で排尿することが常識だった。
廊下の端でトイレをする理由を聞くと、「端っこですることが当たり前だろ」「角ですんだよ」…と本人。場所の見当はできている。「角ですること」が本人にとっては重要だった。
それがわかれば「あっちの角でやりましょう」とトイレに誘導できた。「そうか角にいくか」と
現実の世界では生きていない。畑仕事をしている時間で生きている。尿意も便意もある。
現実世界でトイレを行う行為そのものが解体されている。
いつもと同じことができなくなったらどうするのか。
「私の母は娘のところにバスで行けなくなった」
できないことを切り捨てる(助けを借りないで行動を縮小する)→どうしてよいかわからない混乱が続く→自分では解決できない混乱から抜け出せない→混乱しながら行動する異常行動となって症状が現れる。
本人には…
失敗をいかにさせないか。いかにほおっておかないか。
介護者に気をつかっていないか。
行動が縮小したので、新たに活動を加えられるか。
家族には…
介護者の負担がふえていないか。
介助される側の負担がふえていないか。
混乱する手前で…
やっている行動を変えないで、他者が助ける(他者の力を借りて行動を維持する)。
ほおっておかないために必要なこと。
ケアのポイント
感情は必ず相手に伝わる。
気にかけていることを心に届ける術を常に考える。
認知症高齢者は一コマの連続性がないので、常に途中からドラマを見ている。
これはストレス、辛いこと。
肯定する。居場所を作る。
記憶障害が1秒の人
いいお天気ですね→いい天気ですね→どこかにいきたいですね→そうですね→
周りの方にも不都合のないように、答えを返すことも認知症ケアの醍醐味。認知症の方が恥ずかしくならない、失敗しないようにすることで居場所を作りたい。それがプロの仕事かな。
質問
「帰宅願望がある方への対応は?」
施設に入ってきた経緯は一人ずつ違うはず。
納得していない人は、帰宅願望がある。本人のみになってみれば、もう、その通り。それに対する対応をどうするかは、その方の認知症の進行の程度による。アセスメント。進行が軽度であれば、例えば、一緒に帰る。60分程度かけて、一緒に自宅に歩いて帰った。家についた。すると「帰るわ」と言った。誰もいない自宅は、居心地のいいところではなかった。自分がそのユニットいてもいいともっともっと思ってもらうようにする。
認知症が進行すると「帰りたい」を連呼しているだけなのか。
思いを聞いてあげることで、私に興味を持ってもらえる人がここにいると思ってもらうとか。チームワークを発揮して。誰が信頼されるかね、男女、年齢、その方の生活歴とか、生きている世界とかみてアセスメントする。拒否される職員は、その方の人生の何かとリンクしているとか。
職員としての制約がある中で、その方が居心地の良さを感じるために何ができるかを考える。苦しい言い訳しかできないけれど、苦しい気持ちも伝えることも。
「施設で働いていると、時間が限られている。話を聞きたいけれどずーとは聞いてあげられない。うまい話の展開や不快ではない話の切り方などの仕方ってありますか?」
ストレートに事情を説明してその場を離れる。「まっててね」と言って。「まっててね」を覚えていたら記憶のアセスメントとなる。そのかたの能力をアセスメントする機会になる。夜勤の時は、自分一人で試せる時間。忙しさはなんとなく入居者がわかっているのではないか。あなたのための1分を感じさせることができればいいと思う。この関係性を気付ければいいのではないか。関係性を築けない人は、その世界で生きている人。これもアセスメント。働きながら技術も進化して行く。夜勤時間も進化の時間。これを繰り返せば、すごい実力がつきませんか。
認知症ケアはなぞなぞ。難問をみんなで解決する。一つでもなぞなぞが解けたら嬉しい。働いていたら、日々、進化しなければいけないし、しているんだと思います。
今日もありがとうございました。また、会いましょう。
最近、縦の写真が横にしか表示されずに困っていました。困っても何もできないのが、このパソコンの世界。
そして、今回、アップロードしたらなんだかよくわからないけれど治ってました。これもパソコンの世界なのか。無知なのか。
さて、ふらっと音羽台の第二回が開催されました。
この「ふらっと」は、ふらっと来て、ふらっと帰っていいですよ〜と言う意味と、それこそ「フラット」な関係で、勉強を楽しみたい人たちにきてもらいたいと言う意味です。
ですので、別に音羽台の職員の方でなくても全然かまいません。すこし関係があるというか、だれかと繋がっていれば問題なしです。その代わり、残業代はつきません(笑)。
つまり、おおらかな勉強会です。
第一回は9月に開催。「コミュニケーションについて」でした。
参加人数6人。私と、私と一緒に企画している仲間1名と先生の川崎さんだけでも、勉強が楽しめればいいやと思い始めましたが、地域のボランティアの方が2名も来てくださり、職員さんも2名来てくださりました。内容は、こちらでも紹介しましたが、目から鱗の本当に素敵な勉強会でした。
さて、今回は「認知症ケアについて」でした。
前回から、さほど宣伝はしていません。あまり強く言うと、趣旨とかわってきてしまうので、ありのままにというか、ながれるまままに。
お菓子も、コーヒーも八人分くらい用意してお待ちしてました。
開始の18時になると…
川崎さんの話ぶりは、もうなんと言うか「やさしい」んです。認知症ケアの話を聞いていると「そうだなよ」「そうするべきだよな」と、素直に染みてきます。今回も専門職以外の地域の方が起こしくださっているので、専門用語は使わず、それでいて簡単すぎず、絶妙なところで話を進めてくださいます。今回は、歯科衛生士の方やマッサージ師の方もいらっしゃいました。BPSDとかレビー小体とか、MCIとかそう言う言葉を使わずに、当事者の感情や気持ち言葉を受け止めるように努力すること(どこに飛んで行くかわからないボールを拾いつづける努力)で、その方が「ここに居てもいいんだ」と思える場所をつくることが大切なこと。だけれども、当事者の方達の感情や気持ち、言葉を受け止めるには「技術」が必要なことを、優しい語り口で丁寧に教えてくれました。ものすごく勉強した感じになる(笑)。
勉強後は、恒例のけん玉教室。
何気に私は上手になりつつあります。やるたびに上手くなる。むふふ。
けん玉後は、恒例のお食事会。今回は、私の大好きな「たみんち」さんにお邪魔できました。
昨日よりも、今日、今日よりも明日の方が、専門職として「技術」が向上しているはず。そうでなくては仕事ではないよね…なんて話しもしながら夜はふけて行くのでした。
次回は、11月1日(木)18時からです。もしよろしければお越しください。
今回も備忘録として、研修の内容をこちらに貼り付けておきます。
ふらっと音羽台 第二回「認知症ケアについて」
平成30年10月11日(木)18時〜19時
講師:川崎 初美さん 合同会社 一歩 代表社員 理学療法士
今日、体験したことを持ち帰って、職場や生活の中で生かしてもらいたい。
認知症はいきなりなるものではない。脳の病気。後戻りはできない。
認知症になる前には軽度認知障害となる。軽度認知障害は元に戻ることができる。
100歳を超えると7割以上はアルツハイマー型認知症になる。つまり、いずれ誰でもなる病気。
体験
二人一組になって
1から120までを滑舌良く言ってみよう。
一人はジャッジする人。
先生は40秒 50秒 60秒…と伝えます。数え終えたら手を上げてください。ジャッジしている人は、何秒だったよと伝えてください。数えた人はタイムを書いておいてください。
認知症になると言語の流暢性が衰えてくる。
大根きゅうり人参…長谷川式で出てくるテストは流暢性を評価している。
平均
大学生:25秒
30歳代:35秒
40歳代:40秒
50歳代:50秒
60歳代:60秒
60秒以内に収まるようになっているといいですね。
訓練をすれば、80歳代でも60秒以内に終わる。繰り返し行うことで、1回に何文字まで言えるか。どうやればいいかの対策を練るようになる。ユニットやデイサービスのちょっとしたレクとしてもいい。子供にもいい。どうやればいいのか考える。収集力も増す。筋肉もほぐれる。
ルールを決めたことを積み上げていく。肺活量にも認知機能の維持、向上にも役立つ。それをどんどん周りに広めていくと、予防の効果も広がる。
認知症はいつ頃になってしまうのか。
認知症になってしまった人の気持ちはどんな感じ?
現実との葛藤する人(わからくなりつつある自分を認識している人)→誰かに当たる
自分の世界(自分の記憶の中)で生活する人→なかったことにすることで自分の気持ちを保つ
自分の殻に閉じこもる(失敗をしたくない)人→自分の殻に閉じこもる
過去の失恋や挫折した時の気持ちに似ていませんか?
自分の対処の仕方と似ている。
認知症は病気ではあるが、人柄とか、本質的な部分はかわらない。
認知症になってしまった人も、私たちと変わらない。
覚えていられない不安がある。
自分で解決できないストレスがある。やればやるほどおかしなことになってしまう混沌の中で生きている。
どんな状態でいることが良いのか?
何をしてほしいかを表現できる状態。表現できなくてもわかってくれる人がそばにいる状態。つまり居場所がある状態。
生活を楽しみ、自尊心を保つことができる状態。
症状にあわせて対応を変える。
物忘れ:
「わすれること」を活用する。悪いことも忘れてくれる。時間をかえる、人を変える、環境を変える。記憶が留まっている時間をアセスメントする。
妄想:
同じ感情を共有して味方にする。「時計がなくなったの こまったわ」→「時計がなくなったの?」ではなくて「大変ね」「困ったね」と。無くなったものではなくて、無くなって困ってしまっている感情を共有し、表現する。そのあとに一緒に探す。つまり「受け止める」→「味方につける」とする。認知症の方は敵か味方かの嗅覚は鋭くなる。まずは、受け止めてあなたの味方になること。
見当識障害:
不安な気持ちの共有をする。うけとめる。
人物誤認:
否定せずに受け入れる。認知症は進行する。
徘徊:
何をしているのかを知ること。9割方、徘徊には目的があると言われている。本当の徘徊は、立って歩いたけれど、座り方がわからないから永遠と目的なく歩いている行動のこと。「どちらにいくの?」「何をしているの?」と聞いてあげれば、目的がわかる。目的がわかれば、アセスメントにつながる。
元看護師さんの認知症の方が、他人の方の部屋を開けて周る→仕事しているつもりだから当然→今は休憩中だよと伝えてあげれば、一度肯定してあげれば、一瞬、言葉が入る。味方になってあげて気持ちを掴んであげたい。もし、怒ったら「勘違いでした。ごめんなさいね」と謝る。感情の動きは負ではない。喜怒哀楽が出ることは良いこと。ただ、放っておくのは良くない。寄り添う、誤解を解くなどもコミュニケーション術なんです。
幻覚:怖がる気持ちを安心へ。見えているんだから、一緒に怖がる。怖がっているんだから、怖がっている気持ちを受け止めた方がいい。「片付けておくね」「退治しておくね」と。記憶障害もある。怖がっている気持ちを受け止めたのちに、話題を変える。記憶が保たれていれば、記憶が保たれている時間のアセスメントをする。
不潔行為:平静に始末する。なんとかしなきゃと思うからこそ、なんとかしようとしている途中に記憶が途切れてしまい、行動の誤作動をしてしまう。汚いものをなんとかしようと考えていたが、その記憶がとぎれ、片付けなくてはとなり、タンスにいれてしまう。
ある程度の記憶力がある方が、不潔行為を起こすことになる。そこにアプローチしても致し方がない。本人が気にしないように、何事もなかったように後始末する。
認知症の原点はどこ。
2事例。
①「トイレの場所がわからなくて失敗してしまう方」の事例。
尿意→行動→場所認識ができない→失禁してしまう→心理的なショック(当然)
おかしな部分は、場所の見当ができないことだけとのアセスメントになる。
トイレに行きたい時にトイレまで誘導できれば解決できる。手前の反応がわかればわかるほど、ケアの質が高い(アセスメントができている)ことになる。そこが技術。
トイレへの声かけも「響く」声かけが必要。それも技術。散歩に行くふり、一緒に行く…何でその方が行動を起こすのかアセスメント。
心理的なショックを受けている場面では、そのフォローも必要。
現実世界でトイレに行うという流れは保たれている。
②「トイレを使わずに廊下の端でおもむろに下着を下ろして排尿する方」の事例
物語を確認したら…明治生まれ 畑仕事をしていた 母屋で排泄をするのではなく、畑で排尿することが常識だった。
廊下の端でトイレをする理由を聞くと、「端っこですることが当たり前だろ」「角ですんだよ」…と本人。場所の見当はできている。「角ですること」が本人にとっては重要だった。
それがわかれば「あっちの角でやりましょう」とトイレに誘導できた。「そうか角にいくか」と
現実の世界では生きていない。畑仕事をしている時間で生きている。尿意も便意もある。
現実世界でトイレを行う行為そのものが解体されている。
いつもと同じことができなくなったらどうするのか。
「私の母は娘のところにバスで行けなくなった」
できないことを切り捨てる(助けを借りないで行動を縮小する)→どうしてよいかわからない混乱が続く→自分では解決できない混乱から抜け出せない→混乱しながら行動する異常行動となって症状が現れる。
本人には…
失敗をいかにさせないか。いかにほおっておかないか。
介護者に気をつかっていないか。
行動が縮小したので、新たに活動を加えられるか。
家族には…
介護者の負担がふえていないか。
介助される側の負担がふえていないか。
混乱する手前で…
やっている行動を変えないで、他者が助ける(他者の力を借りて行動を維持する)。
ほおっておかないために必要なこと。
ケアのポイント
感情は必ず相手に伝わる。
気にかけていることを心に届ける術を常に考える。
認知症高齢者は一コマの連続性がないので、常に途中からドラマを見ている。
これはストレス、辛いこと。
肯定する。居場所を作る。
記憶障害が1秒の人
いいお天気ですね→いい天気ですね→どこかにいきたいですね→そうですね→
周りの方にも不都合のないように、答えを返すことも認知症ケアの醍醐味。認知症の方が恥ずかしくならない、失敗しないようにすることで居場所を作りたい。それがプロの仕事かな。
質問
「帰宅願望がある方への対応は?」
施設に入ってきた経緯は一人ずつ違うはず。
納得していない人は、帰宅願望がある。本人のみになってみれば、もう、その通り。それに対する対応をどうするかは、その方の認知症の進行の程度による。アセスメント。進行が軽度であれば、例えば、一緒に帰る。60分程度かけて、一緒に自宅に歩いて帰った。家についた。すると「帰るわ」と言った。誰もいない自宅は、居心地のいいところではなかった。自分がそのユニットいてもいいともっともっと思ってもらうようにする。
認知症が進行すると「帰りたい」を連呼しているだけなのか。
思いを聞いてあげることで、私に興味を持ってもらえる人がここにいると思ってもらうとか。チームワークを発揮して。誰が信頼されるかね、男女、年齢、その方の生活歴とか、生きている世界とかみてアセスメントする。拒否される職員は、その方の人生の何かとリンクしているとか。
職員としての制約がある中で、その方が居心地の良さを感じるために何ができるかを考える。苦しい言い訳しかできないけれど、苦しい気持ちも伝えることも。
「施設で働いていると、時間が限られている。話を聞きたいけれどずーとは聞いてあげられない。うまい話の展開や不快ではない話の切り方などの仕方ってありますか?」
ストレートに事情を説明してその場を離れる。「まっててね」と言って。「まっててね」を覚えていたら記憶のアセスメントとなる。そのかたの能力をアセスメントする機会になる。夜勤の時は、自分一人で試せる時間。忙しさはなんとなく入居者がわかっているのではないか。あなたのための1分を感じさせることができればいいと思う。この関係性を気付ければいいのではないか。関係性を築けない人は、その世界で生きている人。これもアセスメント。働きながら技術も進化して行く。夜勤時間も進化の時間。これを繰り返せば、すごい実力がつきませんか。
認知症ケアはなぞなぞ。難問をみんなで解決する。一つでもなぞなぞが解けたら嬉しい。働いていたら、日々、進化しなければいけないし、しているんだと思います。
今日もありがとうございました。また、会いましょう。