本日のご紹介は、細川是非之助さんです。
成功した経済人でもなく、政治家でもありませんが、是非・是非紹介したい方なのです。奈半利町平で天保14年(1843)に生まれていますから、幕末の勤皇の志士能勢達太郎と同い年と言うことになります。中岡慎太郎が天保9年生まれですから、5歳ほど年少だったことになります。
さて彼にまつわる最も有名な話からご紹介します。
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これは、細川是非之助ではありません。
佐賀県の英雄江藤新平の写真です。
佐賀の乱に敗れて逃避行をしていた江藤新平を明治7年に高知県安芸郡甲浦で捕縛。
有名な話としては、高知市内に移送する際、3日もあれば十分の旅程を倍の日数をかけて江藤新平を護送犯人ではなく観光客のように配慮したとして、高知県小属、細川是非之助は県庁でさんざんに叱責を受けたというものです。
彼は、叱られることについては多分解っていたのです。ただ彼の心情から、そうしたのですし、納得してやったのです。いかにも「土佐っぽ」といった感があります。
それがどうした。なのです。
「えらい、日数がかかっちゅうじゃあないか。」
「新政府がおこっちゅうぞ」
で、「それがどうした。」なのです。
法は法。されど前参議、前司法卿として遇したことになります。
2~3年前高知新聞にその際の経費明細が発見されたとの記事を読んでいて、興味を持ってそれを読んだ記憶があります。
細川家は長宗我部の家臣として、大阪夏の陣にも出陣、敗戦の後、縁故を頼って奈半利に来たのですから、立派な郷士、士族です。
その細川家の息子なのですが、家が貧しかったことから、寺小僧に出されます。
場所は南月渓のいる田野の浄土寺(廃寺)です。親御さんも考えたのです。何処にあづけるのがいいかをです。
南月渓。なかなかの気骨溢れる坊さんだったようで、市太郎(是非之助の幼名)をびしびし鍛えるのです。
寺の作務は当然として、経史や剣道まで教えていたのですから、忙しかったことでしょう。生活そのものが修行と言った塩梅です。けれども幼い市太郎のためにはよかったのです。
慶応4年24歳のときに会津戦争に従軍し、明治3年に高知藩八等官小従事監察司に明治5年に30歳で高知県小属となるのです。
彼の友人には、野根山屯集事件に参加した者もいるのですが、彼は野根山には行きませんでした。やはり安芸郡奉行所寄りの立場であっただろうか。そんなことも考えたりします。時の流れは勤皇・倒幕に傾きかけていたことは、感じていたでしょうに。
甲浦から高知までの、護送旅程の最後の晩は、岸本の畠中氏宅であったそうですが、飲み且つ食べ、江藤新平は詩を読み、揮毫までしたのです。宴です。
それからの是非之助は、司直として小田原・名古屋に勤務し、父が病を得たことで明治14年に帰省。
さらに、明治16年には長岡郡長、さらに安芸郡長を務めます。
やはり士族でしょうかね。金に踊らず名誉にも傾かず、自分の信ずる道を歩き通したのだと思います。
最後に彼がなくなったときの逸話です。
明治28年11月。近所の還暦の祝いの席に招かれ、酒宴の途中倒れるのです。
突然のこと、彼の妻はこんな言葉を残したそうです。
「貴方、こんな処で御寝(ぎょし)なったらいけませんろう。私と一緒に帰りましょう。」と涙ひとつこぼさず自宅へ連れて帰ったとのことです。
いまなら、「救急車!!救急車を呼んで!!」と言うところでしょう。
士族の妻は、いつも死と向き合っていたのでしょうか。
清岡道之助の妻、静さんもこんな風情だったように思います。
享年53歳。
細川是非之助。なにか北川村の北川武平次さんや同じ田野町の濱口義立さん達と似た匂いを感じます。世情に流されず、我とわが身をキチンと律する力を持っていたように思います。
彼の孫、細川高義さんは私の中学校の時の音楽の先生でした。温厚な好い方だったと記憶しています。そういえばアノ家に泊めていただいたことがあります。
どうも士族の士は特別な教育を受けていたのでしょう。
今の私共には、わからない世界です。
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成功した経済人でもなく、政治家でもありませんが、是非・是非紹介したい方なのです。奈半利町平で天保14年(1843)に生まれていますから、幕末の勤皇の志士能勢達太郎と同い年と言うことになります。中岡慎太郎が天保9年生まれですから、5歳ほど年少だったことになります。
さて彼にまつわる最も有名な話からご紹介します。
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これは、細川是非之助ではありません。
佐賀県の英雄江藤新平の写真です。
佐賀の乱に敗れて逃避行をしていた江藤新平を明治7年に高知県安芸郡甲浦で捕縛。
有名な話としては、高知市内に移送する際、3日もあれば十分の旅程を倍の日数をかけて江藤新平を護送犯人ではなく観光客のように配慮したとして、高知県小属、細川是非之助は県庁でさんざんに叱責を受けたというものです。
彼は、叱られることについては多分解っていたのです。ただ彼の心情から、そうしたのですし、納得してやったのです。いかにも「土佐っぽ」といった感があります。
それがどうした。なのです。
「えらい、日数がかかっちゅうじゃあないか。」
「新政府がおこっちゅうぞ」
で、「それがどうした。」なのです。
法は法。されど前参議、前司法卿として遇したことになります。
2~3年前高知新聞にその際の経費明細が発見されたとの記事を読んでいて、興味を持ってそれを読んだ記憶があります。
細川家は長宗我部の家臣として、大阪夏の陣にも出陣、敗戦の後、縁故を頼って奈半利に来たのですから、立派な郷士、士族です。
その細川家の息子なのですが、家が貧しかったことから、寺小僧に出されます。
場所は南月渓のいる田野の浄土寺(廃寺)です。親御さんも考えたのです。何処にあづけるのがいいかをです。
南月渓。なかなかの気骨溢れる坊さんだったようで、市太郎(是非之助の幼名)をびしびし鍛えるのです。
寺の作務は当然として、経史や剣道まで教えていたのですから、忙しかったことでしょう。生活そのものが修行と言った塩梅です。けれども幼い市太郎のためにはよかったのです。
慶応4年24歳のときに会津戦争に従軍し、明治3年に高知藩八等官小従事監察司に明治5年に30歳で高知県小属となるのです。
彼の友人には、野根山屯集事件に参加した者もいるのですが、彼は野根山には行きませんでした。やはり安芸郡奉行所寄りの立場であっただろうか。そんなことも考えたりします。時の流れは勤皇・倒幕に傾きかけていたことは、感じていたでしょうに。
甲浦から高知までの、護送旅程の最後の晩は、岸本の畠中氏宅であったそうですが、飲み且つ食べ、江藤新平は詩を読み、揮毫までしたのです。宴です。
それからの是非之助は、司直として小田原・名古屋に勤務し、父が病を得たことで明治14年に帰省。
さらに、明治16年には長岡郡長、さらに安芸郡長を務めます。
やはり士族でしょうかね。金に踊らず名誉にも傾かず、自分の信ずる道を歩き通したのだと思います。
最後に彼がなくなったときの逸話です。
明治28年11月。近所の還暦の祝いの席に招かれ、酒宴の途中倒れるのです。
突然のこと、彼の妻はこんな言葉を残したそうです。
「貴方、こんな処で御寝(ぎょし)なったらいけませんろう。私と一緒に帰りましょう。」と涙ひとつこぼさず自宅へ連れて帰ったとのことです。
いまなら、「救急車!!救急車を呼んで!!」と言うところでしょう。
士族の妻は、いつも死と向き合っていたのでしょうか。
清岡道之助の妻、静さんもこんな風情だったように思います。
享年53歳。
細川是非之助。なにか北川村の北川武平次さんや同じ田野町の濱口義立さん達と似た匂いを感じます。世情に流されず、我とわが身をキチンと律する力を持っていたように思います。
彼の孫、細川高義さんは私の中学校の時の音楽の先生でした。温厚な好い方だったと記憶しています。そういえばアノ家に泊めていただいたことがあります。
どうも士族の士は特別な教育を受けていたのでしょう。
今の私共には、わからない世界です。
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