ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

あぶない記憶。

2011-02-27 20:45:15 | 木の記憶
 今年80歳になる元教員の記憶です。もう60年も前の記憶なのですが、彼の話し振りから鮮明な記憶として、今でも思い起こしているようです。

 彼は北川村第二小学校竹屋敷分校に教員として赴任することになったことから、森林鉄道と係わることになります。
 木材を積んで貯木場に下りてきていたトロッコに、家財といっても布団とそう多くない荷物を乗せて、一路北川村竹屋敷に向かうのです。
 昭和20年代の半ばのことです。

 北川村二又までは魚梁瀬森林鉄道の本線なのですが、そこから先は支線になるのです。時間もかかったそうで、奈半利町からだと北川村竹屋敷までは10時間ぐらいはかかったそうで、広い北川村でも奥の奥といったところなのです。

 今でも思い出す彼の記憶は2つ。一つは危ない記憶。
 学校の教員ですから4月に竹屋敷に向かい、8月の夏休みに下りてくるのです。長い休みに入ると実家に帰っていたのです。

 そうした彼が休暇を終えて竹屋敷に戻ろうとしていたところ、折からの台風によって橋が壊れていたのです。そして森林鉄道のレールと枕木が宙ぶらりんになっていたのです。
彼は食料品などを詰めたリュックサックを背負い、そのレールと枕木を腹ばいになって、ゆらゆらと揺れながら通過。そこから先は歩いて竹屋敷まで行ったというのです。

 橋がなくなっていることは、竹屋敷の営林署の職員さん方も知っていて、歩いてやってきた若者に向かってこういったそうです。
 「この若いしは命知らずじゃ。」学校で子供達が待っているのですから、何が何でも行かなければならなかったのでしょう。迂回路など結構距離があって、そのまま橋の通過を強行。少々の危険を顧みない行動は若さゆえですね。

 もう一つの記憶は、子供達の健康診断のために北川村第二小学校に子供達を連れて、トロッコに分乗して行っのだそうです。場所は今の小島地区の北川温泉がある場所だったそうです。連れて行った人数は18人。小学校6学年全員で18人だったのです。
 彼は竹屋敷分校では家庭科以外全ての教科を1年生から6年生まで教えていたのだそうで、家庭科は徳島県の宍喰から女性の先生が週に一回、山越えで歩いて教えに来ていたのだそうです。
 凄い複・複式学級というか、分校だったのです。

 こちらの記憶は、案外楽しかったのでしょう。
 今から考えると、子供達をトロッコに乗せて3時間移動ですから、アドベンチャーツアーみたいなもので、遠足気分でもあったのでしょうかね。

 今昔物語といったところです。
 
 その竹屋敷にはいま年配の方が一人、お住まいだそうですよ。
 通称「ガソ」、ガソリンエンジン動力車が走っていたのです。
 
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