ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

山の生活。

2011-04-22 17:49:46 | 木の記憶
 今日紹介するのは、元営林署で働いていた職員の記憶です。

 彼の父親も営林署の職員でした。彼は高知農林高校(現在の高知農業高校)を卒業後、昭和28年に営林署に入ったのです。最初の赴任地は野根営林署管内の竹屋敷事業所でした。野根営林署から竹屋敷に向かう方法は、東洋町野根から室戸岬を回って奈半利町まで来て、そこから魚梁瀬森林鉄道奈半利川線にのって二又まで、ここまでは定期便に乗っていく。さらに竹屋敷作業所に連絡をして迎えに来てもらうのです。そこから安倉、尾河、菅の上を経て竹屋敷まで、奈半利からの距離だけでも40Kmほどです。

 さすがに営林署の職員さんはルートが違います。以前に紹介した竹屋敷の学校に通う教員は野根からダイレクトに山に登ることで、分校に到着していたのですがね。

 初任給は6千円ほどだったようですが、当時の山仕事をしている方々の給与が2万円ほどだったそうですから、山仕事の方々の3割程度だったことになります。
 休日は月に一回。「定木(じょうもく)」と呼ばれる休日があったそうで、当時流行っていた映画を見るために、トロッコに乗って海岸部まで出かけたのです。

 各事業所ごとに配給所があり、日用品のほとんどが手に入ったのですし、手元に現金がなくとも「ツケ」で品物を受け取ることが出来たのです。そして給料から天引きされたのです。自分が勤める事業所以外の配給所で買い物をしても同様なシステムで決済が出来たのですから、当時としては画期的だったのでしょう。
 最も売れていた商品ってのは、「酒」だったのだそうです。よく飲んだのでしょう。

 海を見たことがない子供達がたくさんいたところですから、閉鎖社会で不便だったのです。そして危ない仕事だったのでしょう。
 面白い記述がありました。

 「山の仕事で最初に覚えなければならないのは、雨でも火を焚けるようになること。」
 なるほどね。



 現在の竹屋敷の写真です。ここにかつては分校があり子供達の声が山間に響き渡っていたのです。
 いま住んでいる人は3人の老人だけです。住めば都なのでしょうかね。

 海岸部に生活している私達とは、日常が違っていたのです。

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