ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

庄屋・慎太郎

2009-09-12 01:50:28 | 高知県東部人物列伝
 北川郷大庄屋、中岡小伝次に4人目の子供が出来たのは、天保9年(1834)のことでした。幼名は福太郎。上の3人の異母姉は、縫・京・かつといいます。
 3歳のときに名を光次と改め、4歳から柏木・松林寺の住職禅定和尚から指導を受け始めます。さらに7歳から野友村の漢方医島村岱作の塾に入り、四書を学んだそうな。
 嘉永5年(1852)になると間崎哲馬が田野浦勤役として来ると、詩書を学んだとされています。
 もちろん、安田浦の高松小埜のところにも出入りをしています。

 そして、嘉永6年9月7日田野浦に安芸郡奉行所が設置され、翌年田野学館が併設されたことから、光次も入学し近在の有志との交流が始まります。
 この田野学館に安政2年(1855)、武市半平太が剣術指南役として赴任してくるのです。この武市半平太との出会いが、彼の人生を変えてゆきます。

 武市が安政3年(1856)江戸に出て御用剣道修行を始めると、彼も同じ桃井春蔵の門下生となります。しかし翌4年、父小伝次が病を得たことから、郷里の柏木に帰り、北川郷大庄屋見習いとなります。20歳でした。

 安政5年1月5日大地震が土佐を襲うのです。被害は大きく、疫病拡大やら食料品の不足に見舞われて、慎太郎は中岡家の田畑を担保に入れて、米や麦を近在の金持ちから借り受けるのです。さらに不足する物資調達のため藩から800両を借り受けて配分をしたそうな。
 動ける庄屋だったのです。さらに飢饉の際、藩との折衝にも一歩も引かない活躍をするのです。
 また、あるとき、法を犯したとされる村人の代わりに藩の役人を説得したときの発言が記録に残っています。
 「民なくして君や国はない。まして民の利益を無視した法であろう筈はない。法の運用は人にある。区々たる俗吏が法にとらわれて民を苦しめるとは何事ぞ。」

 といって藩の役人を追い返したとか。
 「法の運用は、人にある。・・」誰かさんにも聞かせてやってほしいような。

 庄屋としての仕事も、きちんとやっているのです。
 戦闘的民族主義者。慎太郎、面目躍如と言ったところです。

 脱藩は死罪です。
 慎太郎は庄屋です。自らの生活は安定していたのです。
 結婚をしているのです。奥さんは兼さん、色の白い人だったそうです。
 野友の庄屋、利岡彦次郎の長女です。天保14年(1843)生まれですから結婚したのは15歳ほどの頃です。
 子供は出来ていません。
 さらに、土佐勤皇党に参加しているのです。
 
 そして彼は全部を捨てて脱藩することになります。自分の「思い」に従ったのです。
 彼はこの時25歳なのです。
 兼さんは、確か20歳ぐらいでしょう。それ以後の兼さんの記録はあまり見かけませんが、亡くなったのは明治32年10月30日であったそうな。
 56歳ほどです。

 どの様な人生であったのだろう。兼さんは。
脱藩した当初は、重罪人の妻だったわけで、明治新政府になってからは、討幕運動の英傑の妻になっていたのです。
 せめて、平穏な人生であってくれれば良いのにと思うね。

  つい長くなってしまいました。脱藩した後の慎太郎はまたの機会に。

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