ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

客車に乗って

2011-02-09 00:43:46 | 木の記憶
 今年80歳になる女性の記憶です。

 彼女は安田町に生まれて、高等小学校を卒業するや、出来たばかりの食料公団に就職したのです。15~16歳の頃ですから出来る仕事も限られていたのでしょう。3ヶ月に一度魚梁瀬森林鉄道安田川線で、事務連絡のために馬路村農協に行っていたのだそうです。4年ほどの勤務の間、20回弱それに乗ったことになるのだそうです。

 彼女は成人すると田舎を出て、別の会社に就職し、そして結婚。最近になって中芸に帰ってきた彼女にとって、現在の地域はどのように写っているのだろうか。彼女が幼い頃の記憶の断片を紡いで見たいと思ったのです。

 森林鉄道は木材搬出運搬のために建設されたものですが、地域住民にとっては山間部との唯一の交通手段であったのですから、それにまつわる話を最初にしてもらいました。

 朝、安田不動の駅から出発して、馬路村までの旅は15~16歳の女の子の印象はどんなだったろうか。また、よく馬路の旅館でそれも線路のすぐ傍にあった旅館で宿泊をしたのだそうです。馬路農協で事務をとっていた女性の実家だったそうです。事務連絡で安田町から馬路村に出かけて一泊する必要があったのです。今では考えられないことです。
 その馬路農協の女性が海岸地域に来たときには、彼女の家に泊まったことがあったそうですから、宿泊施設等の需要など、当時の安田町においては多くはなかったのでしょう。



 客車に乗っていたことから乗り物としては怖いものではなかったようですが、窓から外を見ると橋の上などから川の流れを見ると少し恐ろしく思えたようです。また利用者が多く結構賑やかだったそうな。

 65年ほど前の記憶で、あれから一度も行っていない馬路村に懐かしさやら、好奇心をかき立てられている様で、なんだかほほえましく思えます。今度馬路村に連れて行って上げましょう。

 馬路村ってどんなところだったのか聞いてみると、線路が交差して一杯あったのだそうです。
 海岸部においては森林鉄道は、ほとんどの場所が単線で一日に2~3度往復するだけだったのです。馬路村の中では複線化がすすみ、さらに交差して、忙しく車両が動いていたのでしょう。地域住民の生活空間と森林鉄道が密接にかかわりあっていたのです。
 
 彼女にとって馬路村は線路がたくさんあるところといった記憶なのです。
 昭和20年代も前半の活気のある馬路村の姿が垣間見えます。

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