私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

責任

2007年12月26日 | 日記

昨日帰宅してポストを見ると、
「年賀ハガキを申し込んでくれたら、ご自宅までお届けしますよ」
ってハガキが入ってた。

おいおい、もう25日だぜ……。

こんなときになって何やってんの?

25日までに投函してくれ、って言ってるよね……。

で、今になってこれかい?

もっと早いうち、10月か11月ならいいよ、だけど12月25日になって……まるで「今から書いて下さいね」って言ってるようなもんじゃん。

まあ、民営化でバタバタしてたのはわかるけどさ、それにしてもこのタイミングでってのは……なんか……無責任だよなあ……。

薬害患者の一律救済、これも国や製薬会社の責任はどこまで認められるのだろうか……。

実害が出ることを知っていながら放置したり、輸入し続けたり、作り続けたり……。

確かに、大きな一歩ではあるかもしれないけれど、もっと早くしてほしかった、というのもあるし、いや、遅くてもやらないよりマシというのもある。

今後の流れをしっかり見守りたい。

また、色々と……責任、大切なキーワードでもあるよね……。
今年中ずっとマスコミを賑わした「食の偽装」……これも消費者に対しての責任感のなさの表れだしね。

作った器具から火が出たり、有毒ガスが出たり、耐震基準クリアしてないのにクリアしてるようにみせかけたり、……。

これらも、今後の流れをしっかりと見守りたい。






中学生の頃……

2007年12月26日 | 日記

中学校に入る頃になって、ようやく異性に対する関心が出てきたりした。
クラスメイトに1人可愛い子がいて、というよりも当時の私の好みのタイプの人がいて、まあ、当然片想いなわけだけれど、好きだった。
その子は2年生になったときのクラス替えで別のクラスになり、その年の2学期を待たずに転校して行った。

2年生になって、新しい校舎に移って、1つ上の先輩とも同じ校舎、従って同じ下足室(昇降口、とも言うのかな)を使うようになり、以前の片想いの方と違うものの好みのタイプの先輩がいた。
結局何にも話さないまま終わった。

3年生になると、今度は同じ学年の、2年のときのクラスメイトのことが気になりだした。結局これもまた言い出すこともなく終わるのだが。

中3の頃、いわゆる「第2の誕生」なるものを経験した。いわゆる性的なことに対する興味や関心が一層拡大していったのは、射精というものを初めて経験してからだったかな。
しかしこの「射精したい」という気持ちは……その後数年間苦しめられるものになる。
人間に性欲なんてものはなくなってしまえ!!とすら当時は思った。色々なことが手につかないじゃないか、どっか行ってくれ!!なんて思っていた。ときどき、冗談抜きで、切ってしまおうか、とすら思った。
恋愛と性的欲求とを直ぐに結びつけてしか考えられなくなって、つまり当時は著しく混乱して、つねにイライラしていた。

そんな状況の中で、恋は勉強の邪魔、性欲も勉強の邪魔、と頑なに考えていた私は、勉強以外で何か情熱を注げるものに没頭することでそれを忘れようとした。それがギターであり、部活の卓球であった。

帰宅してから宿題だけはやっていたけれども、それ以外の勉強らしい勉強はあまりせずに、まあ百科事典でも眺めていればそれらしく見えるな、なんて思っていたから、これは高学年のころからの格好の逃げ場だった。比較的早い時間帯はたっぷりギターの練習ができた。夢中になって練習をしていた。

その頃は、確かアコースティックなサウンドが流行っていた時期だったかな、多分。ザ・ベストテンというテレビ番組で、西城秀樹のY・M・C・Aがずっと上位を占めていた時期もあるが、アリスとかさだまさし、松山千春、中島みゆき、南こうせつ、といった顔ぶれが頻繁に上位ランク入りしていた。また、彼らはテレビになかなか出たがらないのも特徴だった。

そんな中で楽譜とタブ譜をたよりに沢山の曲目を練習した。1つできるとまた1つ、そうやって次々にマスターしていった。

あんまり勉強とかしないものだから、成績は当然下がっていった。特に数学は弱くなっていった。英語だけは3年間を通じて得意なままだったが、数学にいたっては殆ど理解できてはいなかったと思う。
思えばその芽は小6の頃にあったのかも知れない。分数を含んだ複雑な乗法と除法で、ひっくり返して掛ける、なんだ??意味わからんし!!……だった。
まだ中1のときはさほどひどくはなかったが、2年のときに連立方程式と一次関数が出てきて、さらにグラフと方程式の関係になるとサッパリお手上げ状態、この頃ようやく初めてテストで良い点が取れない子の気持ちがなんとなくではあるけれども理解できてきたと思う。数学は常に40点台、平均以下だった。

あたかも連動するかのように、理科第1分野(物理・化学)が分からなくなっていった。電気とか電流、電気分解とか、その辺り。それが今度は技術の成績にも影響してきた。エンジンとかの同じような分野もあるから。

小学校のときから絵が好きだったからか、美術の成績は低下しなかったものの、保健体育はやはり不得意のままだった。

成績が下がっても、呑気だったのだろう、もっと予習とか復習とかしようとも思わなかったし、別に点数悪くたってなんとかなるわい、と思っていた。テストで良い点を取ることの意味が全く分からない状態だったし、比熱の公式なんぞ覚えても、あるいは因数分解なんかできても実社会のどこで役立つんや??なんて反発心すら持っていた。

しかしその一方で、校則だけはきちんと守るというのをポリシーにしていた。見た目で内申書の評価が下がってももったいないしな、と思っていた。猫かぶりしていたのかな。

中2のときに、9月上旬の水泳大会の希望種目にジャンケンで負け続けて、最もハードな50m自由形に出ることになった。当時はまだノーブレスで15mをクロールで進むのがやっとだった。
幸いなことに夏休みをはさんで練習する時間があった。学校の自由水泳の時間に、最低限何回か通うのが体育の宿題だったが、それを大幅に上回り10数回つまり通える条件のあるときは全部通って、なんとか息継ぎができて50mを泳げるようになった。
おそらくこのころだろう、不得意を少しづつでも克服する楽しさに目覚めたのは。

テレビ番組で大きく私のこれまでに影響したものといえば、「3年B組金八先生」Ⅱ、これは直江喜一や沖田浩之の出演したシリーズだ。
「俺は腐ったミカンなんかじゃねえ!!」と聞けば思い出す方も多いだろう。
今でもあの回のシーン……荒谷2中の放送室で校長を軟禁し、加藤と松浦の粘り強くかつ心を打つ説得についに全校生徒に対してお詫びをする校長、ようやく闘いを終えて出て来てみんなの「カトウ」コール、しかしその行く手を待っていたのはなんと警察だった。慌てて逃げ惑う「主犯格」の加藤、松浦、荒谷2中の番長……、しかしその甲斐むなしく彼ら2人の手には手錠がはめられる。スローモーションで流れる映像のBGMは中島みゆきの「世情」……警察に連行されていく加藤優と松浦悟、泣き喚きながら追いすがる加藤の母……。
そして警察署での校長と金八、PTA会長らの署員に対する説得、そこで校長は最後の切り札を出す。それはこの件を担当した署員の中学時代の小さな悪しき行いを校長が見て見ぬ振りをしたことを持ってきたのだ。

このドラマに感化され、教職に就くことを強く決意したのだった。中2のときだな。(これは後に実際に就いてみて大きな挫折を味わうことになる。)

で、教職に就くためには大学に行かなくちゃ免許が取れない、そのためにはある程度の進学実績のある高校の方がいいだろう、となるともっと良い点数をとらなければいけないな、と気付いた。中3の夏休みかな。

遅すぎるって!!

もう内申点は半分が終わっていた。テスト4回のうち2回が終わっていたからだ。
それから必死に挽回しようと猛烈に頑張ったのだが、なぜか努力すればするほど点数というか順位はどんどん下がっていき、大きな1つの挫折を味わうことになった。

新設して2年目の中学校だったが、1期生は公立高校に全員合格したので2期生もその実績を崩したくなかったのだろう、私たちの学年でもかなり安全圏を担任の先生からは薦められ、結局薦められたところより1つ上の学校を受験した。また、行く気は全く無かったが併願で私立高校も受けた。

確か高校受験が最大の関心事だった時期に、丁度数学で円の単元があり、クラスメイトの1人が授業中に円周率をドンドン書き出して(おいおい、授業に集中しろよ)、それはゆうに1,000桁を越えた。
その日から私のクラスでは円周率の暗記競争のようなゲームが始まった。

おいおい、本当に、そんなことしてていいのかよ???

最初は私を含む数人しかそのお馬鹿なゲームの輪には参加していなかったが、やがてどんどんその数は膨らみ、しまいにはそれを冷ややかに見ていた女性陣にも飛び火し、またクラスをまたいで流行るにいたり、学年ではちょっとしたブームになってしまった。勿論最後まで冷静な生徒は冷静だったが、なにせ人生初の受験という非常に精神的負荷のかかる時期である。心のバランスを崩すもの多数だったのだろう。

今でも円という図形に美を見出し、調和を見出し、平和を感じ、IDもHNも円周率から引いてきているのは当時のこの「暗記競争」というものがあったからではないかと思っている。暗記、というのは大嫌いだったが、なぜかこのゲームだけは好き好んで参加した。

嫌いだった暗記でも、唯一感謝しているものがある。中3になってすぐのころの公民の授業で、日本国憲法の前文を暗記せよというミッションが下った。当時は「暗記」というだけでアレルギーを感じていたのだが、これはその後の人生の中でかなり大きな精神的支柱になっている。




やっぱり年末……

2007年12月25日 | 日記
*(ダッシュ)**(ダッシュ)**(ダッシュ)**(ダッシュ)**(ダッシュ)*

新聞の折込チラシがここんとこ少ないよね~。
ジャンボ宝くじの売出しが終わったね~。
有馬記念も終わったね~。

テレビでも特番ばっかりだし、今年の10大ニュースなんてのもマスコミではやってるしね~。

クリスマスとイブを過ぎると、もう街はお正月一色になるんだろな~。

なんかこう、この時期にしては、そんなに寒さを感じないと、本当に年末なのかな??
って、つい勘違いしてしまうけど、でも年末なんだよね。

馴染みの酒屋さんで、屠蘇散をもらってきました。
御屠蘇は私の家のお正月には欠かせません。といっても殆ど私の口に入ってしまうのですが……*(汗)*
新年の準備もあともう少し、がんばるぞ~~!

*(グー)**(グー)**(グー)**(グー)**(グー)*


コーヒーブレーク……

2007年12月24日 | 日記
*(コーヒー)**(コーヒー)**(コーヒー)**(コーヒー)**(コーヒー)*

昨夜ね……Cafeの途中でお風呂入っててさ、でシャンプーの前に髪をゆすいだら……なんだか珈琲*(コーヒー)*の香りが……。

ここ最近ちょっと忙しくって、寝不足気味……ついつい珈琲を飲み過ぎたのかな。

で、その後体を洗ってても……珈琲の香りがむわ~~んと……*(はてな)**(はてな)**(はてな)*

ちょっと珈琲をセーブしようっと、あ、今飲んでるよ*(コーヒー)*


今朝の新聞で初めて知ったけど、薬害肝炎患者の一律救済を首相が決断したって聞いて……
よかったね~~~~~*(びっくり1)**(びっくり1)*

山が動いたよ!!

……と思ってたんだけど、最近内閣支持率急落してたから、窮余の策かなぁ……と勘ぐってもしまいたくなる。

でも、ちょっと嬉しい気持ちでカットハウスに行ってきたっす。
ここ10年くらい、短い髪だな。ソフトなスポーツ刈り、って感じかな……。短いし、ちょっと伸びるとすぐ気になって仕方がないんだよな。

帰宅途中の道に、ドミノピザってのがあって、生地を焼いたりする良い香りがぽわ~~んとしているんだよね……。

思わず昼食にピザの宅配頼んじゃった。でも注文した先はピザハットだったりする……。

ここ最近ヘビーな内容のボリュームある日記が続いていたから、ちょっと軽めの調整……。

ホッと息抜きに……*(コーヒー)**(ビール)**(ワイン)*

グーグルもクリスマスロゴ、どうか皆さんよいクリスマスをお過ごし下さいね~φ





高学年以降……

2007年12月23日 | 日記

絵画に興味を抱き始めてしばらくして、少しづつ抽象画に興味が行った時期がある。極めて写実的な、つまり金属の光沢がそのまま、あるいは陰影のボカシなどがそのまま描かれている作品に注目するようになった。
写真みたいに書けないかな、と思って何度か練習したのが鉛筆デッサンによるボカシ。落書きなどでもそんなことをしていたから、当然みんなは注目していた。

そんな風に……絵を描くのは好きだったので、小4~小6までの3年間、絵画教室に通っていた。2年間はクレパスと絵の具で、最後の1年だけは油絵で。
こども二科展に2回、佳作で入賞したが、どちらかと言えば会心の作といえない作品が入賞したので(会心の作はなぜか別の児童の名前になっていた)、驚きと不満が残った。
油絵になってからの出展はなかった。

絵画教室や学校の授業以外で、専ら好きで描く絵は、……鉛筆デッサンの習作以外だと、富士山とか、未来都市……そうそう、未来の生活とか、UFOとか、地球外生命体、四次元空間、ブラックホール、そんなのに憧れていた時期もあったな。

でも未来都市っていっても……予想していた年月が経ちつつあるけれども、当時予想していたほど例えば建築物の姿が激変しているわけでもないし、乗り物が発達しているとも思えない。通信網と通信手段が想像以上に発達しているかな。

どちらかと言えば現実より空想が好きだったせいか、学校に行くのは好きじゃなかった。
でも、小学校6年間は風邪と伝染病(風疹、流感)と学級閉鎖以外は休まなかったし、中学校3年間も無遅刻・無欠席で通した。

学校を休みたくて仕方なかったから、たまの社会見学に行った工場で、そこは週休2日制であると工場長さんから説明を聞いて、羨ましく思った。工場長さんは「でも学校は土曜日休みにはならないと思います。」っておっしゃってたけど……。ん、これは低学年の頃だったかな。

そんな中で、小5の年末に祖父が肺炎をこじらせて入院したとの知らせが入った。「見舞いとかで学校が休めるぞ。」と思ったけれど、実際にはその知らせが入って数日後、冬休みに入ってしばらくしてから見舞いに行き、その翌朝亡くなった。
祖父のことは実はあまり覚えていない。
帰省した折にはよくマンガ雑誌を買ってくれていたのだが……物心ついたときには入退院を繰り返しており、ごくたまに会うとすれば病院の面会室だった。口癖で今でも耳に残っているのは「早う小便して寝ろ。」あと、見舞いに行ったときに当時私の好物だったキャラメルとかヌガーを持っていくと、入れ歯が外れるから食べられないと返答を頂いたことくらいか……。

運動があまり得意でなかった私は、自転車に乗れるようになったのも遅かった。小5の夏だった。当時小1だった妹に1日だけ先を越された。
あ~~、情けねぇ……。
水泳も先に書いた事情で不得手だったが、小6のときに「早めに水泳の許可証を出してくれる耳鼻科がある。」と聞いて、かかりつけの耳鼻科を変更した。あっと言う間に出してくれた。そしてようやく、学校のプールにデビューできた。

あまりにも苦手なままだと不憫だと思った親は、水泳の夏季集中講座に入れてくれた。そこで初めて味わった感覚……水に浮くということ、水上を進むということ……ノビタ君じゃないけれど、一生カナヅチを通すんだろうと諦めていた自分にとって、俺でも泳ぐことが出来るんじゃないか、と思って、少し不思議な気持ちになった。

丁度このころから、色々と手を動かしてする、いわゆる「モノづくり」に対する興味が拡大していったのかもしれない。小5で「家庭科」が始まり、裁縫や調理……結構好きだった。調理実習で教わったものは大抵その後に我が家の食卓に登場した。失敗作もときどきあったけど……。今でもときどき厨房に立ったり、たまには縫い物をする基本はこのときに習ったものだ。中学・高校時代は今と違って男子に家庭科はなかったからね。

プラモデルに熱中したのもこの頃だ。当時スーパーカーのブームで、テレビ番組とかでも「スーパーカークイズ」なんてのがあった。
車の名前も色々覚えたかな、ランボルギーニ・カウンタックとか、ミウラ、イオタ、フェラーリ、デ・トマソ、ランチア、ロータス、ポルシェ……など。

少しづつ歌が好きになったのもこの頃だ。今は歌が大好きだ。歌うのが好きだ。カラオケもよく行くし、いっときGyaoに投稿しようかと思ったこともある。
子どものときには歌が苦手……というよりも、音程が上手くとれなかった。ジャイアン並み。低学年のときには、あんまり歌が下手なので、音感育成のためにエレクトーンを親は買い与えてくれて、ヤマハエレクトーン教室にも通わせてくれた。クラスメイトの妹が後から入ってきたのに、課題をこなすのが早くて先を越されたことがショックで、臍を曲げてすぐに辞めてしまったのだが。
因みに鍵盤は今はあまり出来ない。バイエルのうちの簡単な何曲かと、小学校の共通教材の弾きやすいのが何曲かだろう。あとは定番「猫踏んじゃった」。

小5か小6の頃、なぜかジャイアン並みの音程が急に私から消えた。
そして、家にあったクラシックギターでフォークソングの伴奏を弾いてみた。

Amはこう、Dmはこうで、アルペジオって分散和音だな、お?音が出るじゃん!!で、歌は……
♪きょ~ねんのあ~なたの……あれあれあれ?……
こらこら、伴奏と同じラミラドラミの音階とちゃうねんって!!
ミ~レドミ~レドファ~ミレレ、だろが!!……。

そして日々の興味の主体が弾き語りの練習に移っていった。