私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

年賀状制作中……

2007年12月23日 | 日記

まだ年賀状をこちらから出すという習慣が身についていなかったころ、小学校低学年以前の話ですが、従兄弟からの年賀状に「ちゃんとお返事を書いておかないといけないね。」って言われて、で「はい」と、そのもらった葉書に書いてました*(汗)**(汗)*

なんのことか分かってなかったんですね、お返事って。

小学校低学年のころからは、リノリューム版に彫るようになりましたが、小2のころは兎年だったんだけど、ふざけ過ぎて描いた絵がオバケのようになってしまい、やり直しをした覚えがあります。翌年からは干支一文字のデザインになりましたが……。

中学生時代は全て文字で済ませてしまったんだけど、高校に入ってからは2回だけ木版復活しました。そのときに使ったイノシシやネズミの原版は今もありますが……かわいらしいネズミさんならいいのですが、今から見ると……あんまり可愛くないや。

その後、しばらくはまた文字のみのものになっていましたが、20歳のときに父が亡くなり、数年間出せず、というか、出す気がしなかったのでした。……それ以来音信不通になってしまった知り合いも少なくありません。

賀状を復活させてからも、しばらくは文字のみの、つまり近況報告のみのものになっていましたが、5年前から(申年)干支一文字の木版、今の形を定着させています。

今年は少し去年に比べて遅れ気味ですが、まだまだ間に合うペースで進めています。

Cafeに来て1年以上が経ち、日頃お世話になっている皆さんにもお送りさせていただきたいのですが……

もしご希望の方は、ミニメール*(レター)*にて郵送先をお知らせ下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。









小学生時代……

2007年12月22日 | 日記

小学校に入学したときに、違う幼稚園から来た子も何人かいた。
♪1年生になったら~
の歌の通り、1学年ちょうど100人だった。
幼少期から相変わらずの夜型生活だったせいか、しばしば居眠りをしていたようだ。私自身で覚えているのはたった1回だが……。
真っ暗闇の中に突然担任の先生の叱責が飛んだ。
「○○○○君、眠いんか!!眠いんやったら家に帰って寝なさい!!」
本当にランドセルに勉強道具を詰めて帰宅しようとしていたように思う。
幼稚園に行くときもときどき、歩いたまま寝てたらしい。
家庭訪問の際に担任の先生が母に相談なさったようだ。

植物や岩石に対する興味や関心は消えることなく持続していた。でも、理科の中でも(当時は「生活科」とは言わなかった)物理や力学的なことはあんまり好きじゃなかった。
1年生でアサガオを、2年生でヒマワリを、3年生でヘチマを、4年生でサツマイモを栽培するのは楽しかった。
当時住んでいた集合住宅の下の空き地を不法占拠?して我が家の庭に改造していたのも覚えている。そこにはアサガオ、ヒマワリ、グラジオラス、カンナ、アイリス、ハボタン、クロマツ、アカマツ、フクジュソウ、ヘチマ、キンセンカ、マリーゴールド、ホウセンカ、オシロイバナ、ツバキ、サザンカ……そんなのを栽培していたかな。

野草を摘みにも行った。春頃にはセリとかヨモギ、ツクシ、母の実家の近くの山にはワラビやゼンマイ……。

母の実家は瀬戸内に面した小さな町にある。神戸の生まれだが、空襲の被害を避けるために一家で疎開して、その先にそのまま落ち着いた。

そこは漁港に近いだけあって、海の幸には恵まれており、焼き穴子やシャコ、サヨリ、カキ、その美味さは格別だった。
ときどき小さなサワガニが部屋に上がりこんできたりした。
アサリの多い海岸でよく潮干狩りをした。
貝汁を作ると、どんなに砂を吐かせても最後に沈殿するんだよな、砂が。
で、たまにアサリの中に小さなサワガニが入っていたりする。
空気の清浄さは大阪とは比較にならない。全天でおおよそ30しか見えない星が、母の実家では……あたかも星と星の間を漆黒が埋めている、というほど圧巻だった。

先に、イヌが苦手と書いたが、実は猫も当時は不得手だった。
そこではいつも猫がいたのだが、私はなかなか馴染めなかった。
当時はその家の台所は母屋から離れており、ひとりで行くのには若干の勇気が必要だった。
勇気といえば、トイレも水洗ではなかったので、若干恐くて、特にうんこをするときは、和風便座をまたがなければいけない恐怖があった。そんなわけで、母の実家に帰省したときは大抵うんこを我慢する悪癖が着いた。
そんな私の様子を見るに見かねてか、祖母はひとつの助言をくれた。いわゆる「いかり豆」フライドビーンズとも言うが、要はソラマメの素揚げに塩を振ったもの。それを持ってきて、「これ食べるとうんこが良く出るんで。」私は張り切って食べた。事件は当日深夜に起こった。
その日の夜、海水浴に行って大波にさらわれる夢で目が覚めた。

ん?なんか掛け布団が冷たいぞ……。

あ~~~っ!!おねしょしてるじゃん(><)
え??何だ??なんか……尻尾みたいな変な感触がお尻に……。
が~~~~ん!!!うんこだよ(TT)……。大きいのが2本も……。

……その珍事件以来、我が家では「いかり豆」の呼称が「うんこ豆」に変わった。しかしそれで恥をかいたのは妹だった。

遠足に行く前に、友達とおやつを買いに行って、「いかり豆」を見たときに思わず言ってしまったらしい……。そのときに初めて正しい呼び方を知ったんだって。俺って罪な奴だなあ(笑)。

低学年のときは、勉強が好きだったか嫌いだったか……入学直後から嫌いだったように思う。その理由は今でもわからない。強いて言うなら好きだったのは理科の植物と岩石、図工くらいかな。
勉強が嫌いなくせに、なぜか得意だったので、いつもテストなどで悪い点を取る子の気持ちがわからなかった。というよりも、どうしたらそんな点数が取れるのか、それ自体が謎だった。
ただ、今に通じているといえば、……基本をあまり重視せずに、どちらかと言えば人より先に行きたがる習性があったようだ。

理科の磁石の時間に、学校の砂場で磁石を動かして、砂鉄を集める、という実験があった。だがそのときに、「砂場の砂は川の砂で海の砂ではないから砂鉄は少ないよ」なんてことを言ってしまった。
そのときの担任の先生の困惑された表情は良く覚えている。
磁力線を見る観察の時間は、磁石をビニール袋に入れて砂鉄を撒いた方が後始末が簡単と思っていたが、「そんなことをしなさいとは言ってない。」と袋が取り外された。

板書をノートに写すときに、担任の先生は、スペースがないために一旦板書を消してから新たな内容を書き出されたのだが、そのときに、私の消しゴムが先生の黒板拭きに連動してノートの内容を消してしまった。

何やってんだ?俺。

運動神経は鈍かったので体育は嫌いだった。水泳は苦手だった。いつも春先の耳鼻科や眼科健診でアレルギーで引っかかっていたため、夏が終わる頃までかかっても完治せず、プールの許可が下りなかった。そのために5年生になるまでずっとカナヅチのまんまだった。

図工は得意だったかな。絵の時間ではいつも模範としてみんなの前に提示されていた。

相変わらず先生の指示に従わない児童だったんだな。なんだか注意力散漫で、早合点しがち、ちょっとふざけたような面があったんだろうな。
だから団体行動とかが嫌いで苦手で仕方なかった。人のペースに合わせるということが苦手だったのかもしれない。だから、というわけではないが、遠足とか社会見学、運動会、これらは欠席しがちだった。

小2のときに妹が保育園の年少組に入園した。母が働きに出たためだ。
ときどきは夕方迎えに行った。
最初のお迎えのときは、該当クラスの教室を覗いてみてもそこにいなかったので、そのまま帰宅。「いなかったよ。」おいおい、いないはずはないだろ。結論から言えば、お迎えが遅いめの園児だけ別室に集められていたのだった。まあ、なんと視野の狭い小学生だったんだろう。
翌日は、汚名挽回?名誉回復?とばかりに、元気一杯行ったものの、通常なら往復で徒歩20分で済むはずが1時間近く帰宅せず……母は心配して迎えにきたのだが、実は私がその隣の教室に着いたまさにそのときに、「オバQ(カラー版)」が始まってしまって……私はつまり園児と一緒にそれを視たくなってしまい、最後まで視てしまった。迎えに行ったというより、テレビ見に行ったようなもんだな。
さすがにそれ以降はアホなこともせずにお迎えを全うできた。

中学年になり、クラス替えがあった。本来行くべきクラスに入らずに、お呼びでないクラスに間違って入ってしまい、そのまま2年間過ごすことになった。正直この2年間のことはあんまり覚えていない。担任の先生が変わったことにより、色々なクラス運営の方法も変わり、また、各教科の指導方法も当然違うために若干戸惑いもあった。

給食の時間が嫌いだったのは、入学直後に始まった。
幼稚園時代は普通に飲めたのに、なぜか給食の牛乳を飲むともどしてしまうようになった。理由はわからない。が、それをきっかけとして、給食中にもどすというのが流行ってしまい、ますます給食の時間が嫌になり、ミルクなしはいつものことだが、おかずもあんまり取らないようにしていた。今も比較的小柄なのは当時の偏食によるものかもしれない。

生まれて初めて社会のテストで55点というひどい点数を取ってしまったが、なぜか復習しようともしなかったし、予習もしようともしなかった。
この頃から、植物や岩石よりも絵画に対する興味の方が勝ってくる。
ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、クレー、ダリ、エルンスト、シャガール、ピカソ……。
それと関連してか「画家になる!!」なんてことを公言していたようだ。

洋画をただ楽しんでいても、中には当然裸婦の絵もあり、それらを含めて見入っている様子に級友たちは何か誤解をしたようで「むっつりスケベ」なんて思ってたらしい。

高学年になり、今度は間違ったクラスには行かないぞ、と注意していただけあって、クラス替えのときの聞き間違いはなかった。
その2年間受け持って下さった先生は、私にとっては初めての男性の担任、しかも校長・教頭といった「管理職」と同年代のご年配の方だった。

厳しい、けれども優しい。
そんな指導方針に甚く感動し、将来は教職を目指すことを決意したのもこのときだった。
また、給食の時間にミルクを含めてきちんと全種類を摂取するようになったのもこの頃だった。
また、この頃からいわゆる「目立ちたい」というおかしな欲求が出てきた。授業中は、本当はわかっているくせにわざと間違えたり、奇妙キテレツな答をわざと言ってウケを狙ってみたり……。でもそれは、担任の先生の適切なご指導により早期にその芽を摘まれた。
やがて別の形で具体化されてしまうのだが……。


生い立ちなど……

2007年12月20日 | 日記
私は今も生きている。これからも……いつまでかは分からないけれど、生きていることだろう。

これまでの半生、約41年間だけれども、ここ10年くらいは色々と昔のことを想い出すことも多くなってきた。齢を取った証拠だよ、などと外野からの声も聞こえるのだが、実は決してそういうわけではない。

社会生活に、というよりも社会人生活に難があり、勤めた先もなかなか長続きしなかったり、対人関係も上手く築けなかったり、ここ数年……10年近くか、はひどかったので、それまでの生き方を洗い直し、見直し、自分自身を見つめ直してみたこともあったからだろう。

でもまた、ここ最近私の気持ちの中に大きな変化が起こり、このままでは駄目だ、もっともっと上を向いて、前を向いて生きていけるはず、と考えるにいたった。

人として、人間として生きることに与えられた時間は人によって違う。

でもそれは、永遠に、限りなく続く……時間という座標軸、その流れの中ではほんの一瞬に過ぎない。でもそれはその人生を生きたまさに当人にとってはそれが100%の時間なのだ。
一瞬なんかじゃない。
それに、たった1度きりだ。やり直しは利かない。
ならば精一杯生きよう、そんな思いを強くするにいたった。

あるいはそれは、これまでの記憶を再生することから始まるのかも知れない、とも思った。

一番古い記憶、これも人によって何歳頃のものかは異なる。
胎児のときのことを覚えている人もいるだろうし、小学校に入るころからの人もいるだろう。

私が何にも頼らずに思い出せる最古の記憶は、3歳になったばかりのことだ。
妹の誕生、という出来事だった。
母の入院先まで、今は亡き父の背中におんぶされて連れて行ってもらった。当時はまだあまり今ほど自然破壊が進んでおらず、蛍の飛び交う光が美しかったのも覚えている。また、ジージー虫が鳴く声も耳に残っている。

妹の産まれた前日からかな、母方の叔父が、今は遠方に住んでいるが、当時は近所に住んでいたので、何かと世話をしに来てくれた。また、今は亡き祖母も遠路はるばる駆けつけて来てくれていた。

おそらくそんな非日常的な光景に興奮したのか緊張したのか、おしっこしたいくせにちっともトイレに行こうとしないでずっと我慢していて、しかも部屋中をグルグル走り回っていたらしい。
何やってんだ、近所迷惑だぞ、おい。
それでもどうにもこうにも、膀胱の限界を超えたようで……トイレに行こうとしたものの間に合わず、その一歩手前でズボンを下ろして食器棚の側面めがけて立ちションした。
だったらもっと早くに行っとけよ、だな。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんだ。
今も夜型人間みたいなもんだけれど、幼少期からどうも宵っ張りの朝寝坊だったらしい。
多くの子どもが文字を覚える順番は、まずひらがなが読めることからスタートするものだろうが、私の場合は「終」という漢字を真っ先に読み出したらしい。深夜のテレビ番組で「女三四郎」という連ドラがあって、いつもそのエンディングまで視ていたそうだ。勿論子ども向けのアニメや特撮なんかも沢山視ていたけどね。

画像BBSに、大阪万博の展覧会に行ったと書いたが、大阪万博のその当時3歳。まだ自立歩行のできない妹を父や母が乳母車に乗せたり抱きかかえたりして何回か通った。関東に住む親戚が入れ替わり立ち替わり泊まりに来た。オレンジ色の建物に入るのに相当な行列ができていた覚えがある。

妹ができてすぐは、テレビも白黒だったが直ぐにカラーテレビに買い換えたかな。白黒のが壊れたためか何故なのか、理由は知らない。

兄になった私は一丁前に兄貴ぶってみたい一心で、ちょいと妹をおんぶしてあげよう、と思った。
そんな大人の真似、よせばいいのに。
よっこらしょ!!っとおぶった瞬間、非力な4歳児の私はおんぶなんかできるわけもなく、妹の体はそのまま宙を舞った。私の上を前方にくるりと半回転、丁度柔道の投げ技が「一本!」決まった瞬間みたいだった。

で……あまりのショックのためだろう、その直後のことを私は覚えていないが、妹は壁に頭を下にした姿勢ででケロッとしていて、投げた当事者の私の方が座ったまま大声で泣き喚いていたそうだ。実に不思議な光景だ。

泣き喚いていた、といえばもう1つ覚えているのは、父が出張か何かで遠方に行くときに「飛行機で会社に行こうかな」と言った直後、「嫌だぁ、死んじゃうよ~~~!!」って言ったと思う(笑)。余程大きな飛行機事故でもあったのか、はたまたハイジャック事件の報道を勘違いして受け止めたのかはわからないけれど。
その当時のトラウマか、今でも飛行機にすすんで乗りたいとは思わない。したがって海外旅行にも行こうと思わない。国内でも陸路と海路の移動しかしたことがない。

幼少期のトラウマ、といえば……実は私は犬が苦手なのだ。
噛まれた覚えはない。
当時狂犬病、というものがマスコミで大きく報道されていて、アニメでも話題になった。
確か「マッハGOGO!!」だったと思うが、狂犬病のイヌに噛まれてもしもヒトが発症すれば、恐水症という途中経過を経て、100%死亡する、と描写されていて、それ以降私の頭の中には「イヌ=噛む=狂犬病=死」というブリッジが出来上がった。つまりイヌという生物を避けるのは自己保存の本能のようになってしまったのだ。
今はほんの少しは改善されているけれども、でも大きいのとか、放し飼いとかを見ると、そっちからは足が自然と遠のくな。

私が通った、その当時の幼稚園は、今のように年少・年中・年長の3年も通うのではなく、就学前1年間だった。
入園する前に、「知らない子と遊ぶのは嫌だ!!」と泣き叫んでいたような記憶がある。もっと早い時期の人見知りはあまりなかったらしいが、どうも4歳ごろ以降から少し人見知りするような傾向は確かにあったと思う。

担任の先生が産休に入って交替されたのは覚えている。
いつも砂場でダムを作って遊んでいたかな……。あとは大きな洗濯糊のようなものに色のついた粉を混ぜて絵を描いた覚えがある。
あ、そうだ、1つだけほめられた思い出は、……2月の節分の時期に、鬼の面を作ったときのこと。別にいい子にしようとかそんな意識はなかったんだけれども、なぜか担任の先生から「○○○くんもやっと先生のいうこと聞いてくれるようになったね!」ってさ。おいおい、つまり1年近く先生の指示に従わない園児だったってことだよな。あんまり覚えていないけれども、困ったチャンだったんだね、きっと。

その頃興味を持っていたものに、植物がある。幼稚園の園庭に、いぼいぼの不思議なウリのようなものがなっていて、その名前を確か園長先生に尋ねると、「レイシコウ」と教えて下さった。帰宅後に植物図鑑で調べてみたくなった私は、「レイシコウ、レイシコウ……。」とつぶやき続けながら帰宅した。
家には子ども用の百科事典や図鑑、あるいは大人用の百科事典もあり、意味が分からないながらも見て楽しむのも好きだった。今は忘れている草や樹木の名前でも当時はよく知っていたんじゃないかな、多分。

どちらかというと、少し独特な子どもだったな、俺。
でやっぱり「三つ子の魂……」、今でも色んな所で必ず「ちょっと変わった方ですね。」って言われる。

小学校入学以降はまた次の機会に。