学生時代に寮生活を送ったことは、今となっては私の中ではプラスに作用していると考えている。
学科や回生を越えた繋がり、サークルも越えた繋がり、様々な価値観を持つ人たちとの触れ合い、夜を徹して歩き通すハイキング、寮の祭り……。
寮で悲しい出来事もあった。
3回から4回になる春休みに、1人の後輩を最近見かけないな、と感じた。
丁度階段を上りきったところにある個室(3~4回生用)が1つ空いていて、本当は駄目なんだけれども、私はしょっちゅうその部屋に洗濯物を干していた。他にも同じような使い方をする者もいたし、物置代わりに使っている者もいた。寮の会議でそれは駄目だということになり、その空き部屋へ立ち入る者はいなくなった。
その出来事の起こった日……外出から帰って来た私が下足室で上履きに履き替えていたら、上の方から物凄い大きな叫び声が聞こえてきた。
「うわあああああ~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」
誰の声かは明白だったが、彼が一体全体なぜにそのように叫んでいるのか、全く見当はつかなかったものの、ただならぬ事態が起きているのだけは容易に分かった。
喘ぎあえぎ、両肩でハアハアと大きな息をしながら彼が言うには、今すぐに警察と消防を呼んでくれとのこと。そして……見かけなかった後輩が自殺したと知った。
件(くだん)の空き部屋で、後輩が寂しく世を去った。
自分の手で、自らの生を終えた。
発見されたときには既に時遅し、絶命して数日後だった。
私は空き部屋と同じ階に住んでいたのだが、当日の夜はなかなか自分の部屋に帰る気にならず、寮のみんなと一緒に1階の入り口の事務室で深夜まで過ごした。
一旦は自分の部屋に引き上げたが、事件のあった部屋と同じ階にいるのもなんだか寂しくて悲しくて……みんなのいる事務室に戻ってきた。
翌日は……皆でその部屋の前で、そいつの好きだったバイクにつなぎとメットをかぶせて、好きだった長渕の歌を、朝までみんなで飲みながらさんざん歌って聞かせてあげたな。いつもちょっと浮いている私もこのときにはみんなと同じようにしていた。
同じ階にいながら、なんで気づいてやれなかったんだろう。
炊事場もトイレも洗濯機も共用だったから、顔を合わすチャンスは幾度となくあったはず。
今でも長渕の「日めくりの愛」を聞くとそいつを思い出す。
煙草との出会いはアルバイトがきっかけだった。当時宿直のバイトをしていて、シフトを決めるミーティングに行くと先輩方はみんな喫煙者で、煙たくてしょうがなかった。自分も吸うようにしたらそんな感じはなくなるかと思って吸い出したのが煙草との出会いだった。
水泳は好きだったが得意ではなかった。若い女性の水着姿が見られてええなあ、というのではない。それは全くないわけじゃないけど、飽くまで副次的なもので、ただ単に不得意が得意になっていくのが楽しかっただけ。
1回生の夏休みに、大学の必修単位の水泳合宿があった。泳力別に班が編成され、指導教官と体育学科の上回生が指導にあたるというものだった。このときに初めて平泳ぎと横泳ぎができるようになった。
その夏は、平泳ぎの距離を延ばすことに病みつきになった。合宿から帰ってからも大学のプールに足繁く通い、最終的には2kmになった。今はそんなに続かないだろうけれども。
人付き合いは……ちょっと下手で、寮でも学科でもやや浮いてはいた。
講義をサボっても誰も何も言わない気楽さにかまけて、自分のしたいようにしていた。サボるもんだから学友たちとはますます疎遠になっていった。
そんなわけで当然4回生で卒業などできるわけもなく、複数年留年するということで、これまた親に迷惑をかけることになってしまった。
寮はその設立目的からいって、留年している私が住み続けるのは不適切と判断し、4回生終了時点で卒業ならぬ「卒寮」した。それ以降は片道2時間という道程は決して楽ではなかったが、自宅から通学した。。
それまでは学費も親に出してもらって、親からの仕送りを受けて、なおかつアルバイトもして生活費を捻出してはいたが、大学付近に下宿すると出費もかさむというのも自宅に帰った1つの理由だった。
4年で卒業できなかったら学費は私が出す、そんな約束を入学時にしていたので、それを実行するべく春や夏の長期休みにはそこそこ稼ぎのいいアルバイトに精を出した。絨毯工場や建築内装手伝い……。主に紹介先は学相(学生相談所;当時の文部省の外郭団体)だった。今みたいな偽装請負とか日雇い派遣とかはまだ殆どなかったから。
まあ、学費が半年で12万6,000円と比較的安かったのに助けられたのもあるが、それでも物価の値上がりと比較すればおかしな額である。
さらに私学の学費にいたっては教育の機会均等という国連人権規約に違反するのではと思うような額。2~3回生時は学生自治会では学費値上げの反対闘争にも参加していた。
留年期間の途中で半年ほど、アルバイトにこそ行っていたものの、大学には全く顔を出さない日々が続いた。近年の用語でいえば、引きこもっていた。
翌年、大きな転機が訪れた。音楽の演習で出会った下級生に、大変魅力的な女性がいた。それまで学生時代に好きな人はいなかったわけではないが、その全ては口説きもせずにいきなり告白して撃沈、という過程を辿ってきていた。
その演習で出会った人だけは違った。まさに才色兼備というか、内面的にも決して周りにいる人を不愉快にさせない、それでいて八方美人というわけでもなく、でもって学業成績も相当に、という人だった。
結局彼女は必修単位数の関係で別の演習に移ってしまうのだが、それでもキャンパスではいつも出会うと必ず元気良く挨拶してくれていた。
同じ県の採用試験を受けて、彼女は合格するも私は不合格、それでもずっと好きだった。
それまで私は講義への出席率は30%にも満たなかった。従って、出欠が大きく影響する語学や一般体育などが最終回生まで残っていたので、月曜から金曜までほぼ全ての講義を登録しないと卒業は不可能だったが、根性で90%出席して全単位を習得した。勿論下回生と同じ講義に出席することには著しく抵抗感はあったが、やらないことにはどうにもならなかった。
おいおい、卒論かかえた回生のやることと思われへんって。
卒論は……しんどかった。確か1月20日17時締め切りだったが、それまであんまり準備らしい準備が進んでいなかったので、年末年始も殆ど徹夜を何回も続けて、1日平均1時間くらいの睡眠しかとれずに原稿用紙とペンと格闘し続けた。当時はPCのような便利なものもなく、またワープロも相当に高価なもので、学生でも持っている人は少数だった。年明け以降の講義は、卒論執筆のために欠席させて頂く旨、各教官に頼み込んだ。長年大学にいると、当然何回も同じ講義を登録するわけで、従って教官ともそこそこ顔見知りになった。「あ、こいつまた来おったな!」ってね……。
実は後期がスタートした直後の時点で、確か10月中旬頃か、1つだけレポートの提出が1日遅れて受け取ってもらえなかった。それでその単位が取れずに、翌年その1コマだけ残して留年……と思っていたが、卒業の合否判定の日にはなぜか運よく合の字が私の名前の横に押されていた。実はもう1年というのを覚悟していたので、就職活動もせずに、長期バイトの予約もした後だった。
で、卒業が決まった時点で好きだった人にも告白したが、やはり既に意中の人がいるとのことで、あえなく撃沈。
バイトはキャンセルし、教育職の非常勤でどこか欠員がないかどうか、これは寮の先輩に頼み込んで手配してもらった。
そして養護学校の寄宿舎の臨時教員として、私の社会人生活が始まった。
そこでは、どちらかといえば重度の自閉的障害を持つ子どもたちのグループに配属された。
最初のうちコミュニケーションの取り方に難儀していた私は、いらちでせっかちだった。あるいは、なんとかここで1つの実績でも作りたかったのかも知れない。そうすれば教員採用試験で少しは有利かな、などと下らぬ下心も持っていたのだろう。
あるとき、あまりに言うことを聞かない子ども、といっても中3の学年だが、その子に言うことを聞いてほしいあまり、手が出てしまった。
恥ずかしかった。
激しく後悔もした。
反省もした。
それが如何に忌むべきことであるかは、その後の彼の行動変化を見てもよくわかった。それまで決して他の子どもにちょっかいを出すことなどなかったのだが、その日はそれ以降しょっちゅう他の子どもにちょっかいを出していた。
また、運悪く保護者の方々の「寄宿舎参観日」でもあった。
後で保護者ミーティングに参加された先輩教員から聞かされたが、
「ここの舎では子どもを叩いて教育しはるんですか?」
との質問が出たとのこと。
それよりも、体罰を厳しく忌み嫌っていた自分の方針と全く180度異なる行動を、そのまさに自分自身が取ってしまったということ……それに対する強い自己嫌悪に陥り、しばらくは相当落ち込んでいた。
その私が手を出してしまった子どもとも、私の任期が終わるころにはなんとか意思疎通ができるようになり始めたのか、というかラポールの「ラ」の字くらいかな、がうっすらとでき始めたのか、初めて人間対人間としてのコミュニケーションがなされたときには……本当に嬉しかった。
心の底から涙が溢れ出た。
そしてここの寄宿舎の任期も終えて、夏休みに入ると私は車の運転免許を取る費用を貯めるために、建築内装の手伝いに行った。
夏の終わりから日本海に面した街で合宿免許の教習に行った。運転が下手くそで結構難儀したが。
帰って来たら、講師登録をしていた大阪府教育委員会の事務局から、講師の依頼が舞い込んだ。そして、教育実習を除いては初めて、学級担任として高学年のクラスを受け持つことになった。最初断ろうかどうしようか悩んだのだが、結局これも自分の修業の1つ、頑張ってみよう、と思い快諾した。
が、これがまたとんでもないクラスだったと後で知ることになる。