私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

……面会……

2008年01月05日 | 日記

超がつくほどの深夜に、自宅の電話が鳴った。

受話器を取る前にそいつは切った。

大体相手が誰だか、見当はついている。

俺のツレ、入院してるんだ、それも長いこと。療養所にね。

結局朝まで寝付けなかった。

夕方、外出から帰宅したとき、電話。

またヤツだろな。

大きく深呼吸して覚悟を決める。受話器をとる。

一方的にまくし立てるヤツの声。

自分をヤクザだと思い込んでしまっている、ヤツ。

ここ最近、繁忙さなどにかまけて、面会に行ってなかった。

一昨年の面会のときには、ヤツは喜んでくれた。

ラグビーで鍛えたその体は別人のように痩せ細り、

同い齢とは思えないほど、やつれ込んで、老け込んでいた。

それまでそんな妄想はヤツには無縁だった。

でも……もう、今はとてもまともに話できない状態だった。

悲しかった。無性に悲しかった。

酒を飲みながら、

中学生の頃に聴いたことのあるフレンチポップスを急に聴きたくなり、

ネットで検索して……

ダニエル・ギシャール、ミレイユ・マチュー、ジェラール・ルノルマン、

聴けなかった。

そして、ミシェル・ポルナレフ……YouTubeに見つけて……聴いた。

懐かしい歌、天使の遺言。

そのハ長調の明るいメロディラインとは裏腹に、詩の内容は切なく、悲しい。

アルコールは感情の起伏を激しくする……。

だめだ、涙が止まらないよ……。

ツレが壊れていく。どんどん壊れていく。

すぐ近くにいるのに、会えない、話ができない。

ボサノヴァのCDを聴きながら、じっくりと癒されるのを待つ。

ひととおり反芻し……自然と気持ちは癒えた。

とき既に午前0時を過ぎていた。

食事と入浴を済ませて、ようやくCafeに来ることができた。

今朝も早くから頻繁にまた電話。今度はデカになったヤツ。

昼にはまたヤクザに逆戻り。

面会……行くまいと一旦は決めたけど、

やっぱり行くべきか、どうなのか……

只今思案中……。





ミシェル・ポルナレフ「天使の遺言」
http://jp.youtube.com/watch?v=PlD1V8Vkd88






震災の頃……

2008年01月05日 | 日記
私が赴任したクラスの前担任は病気休暇を取って休職中だった。

クラスの状態については、特に何も聞かされてはいなかった。だからそれほど覚悟もしてもいなかったのだが……相当に荒れたクラス、いわゆる学級崩壊状態だった。それで前担任もヤル気を失くしてしまったようだ。
給食の時間にパンは飛散する、授業45分の間にまともに授業できるのは5分だけ、あとは「ボールを触るな、紙飛行機を飛ばすな、席に就け、立ち歩くな、漫画を読むな、ストーブで半紙を焼くな……。」

この子らをしっかりさせようと思ったら何をしてもいい、そんな思いだった。

ただし手は出すまい、と。

しかしとうとう、あまりに言うことを聞かない子どもたちに対して……またもや手が出てしまった。そのたった一つの過ちで、それまでの努力が水泡に帰したのは言うまでもない。

学年会で「はあ、こんなクラスやと分かってたら来なかったんやけどな……。」何気なく言ったその一言を聞いていた先輩方は「え??なんやそれ??」どうやら、荒れたクラスであることを理解した上で赴任してくれる人を探すよう、PTAでも学校でも学年でも教委には要請していたらしい。それで一気に府教委に対する不信感は強まった。
だがしかし、クラスの実態を正直に打ち明けた上で赴任してくれる人なんていなかったと思う、多分。

まあ、四の五の言っても何一つ始まらない。どこまで立ち直らせることができるか……挑戦してはみたものの、どこまでやってもこれは不可能ではないか、と思い、諦めに似た思いを持った瞬間に緊張の糸もプツンと切れた。

たった半年に満たないが、公教育の教育職を経験してみて、その道は一旦は諦めることになる。というか、もう少し人間的修養が自分には必要との思いで、数年は民間に勤めることを考えた。

しかし教育関連の経験を活用したいとの思いもあり、学習塾や専門学校、その他色々やってはみるが、なかなか首尾よく行かずに転職を繰り返すことになる。

その後、1994年末頃、小さな地震が大阪と兵庫の県境付近、多分猪名川町辺りだったと思うが、頻繁に観測されていた。それが確かクリスマス以降かな、一旦はピタッと止んだ。
そうして、しばらく体感地震もなかったが、……1995年1月17日午前5時46分頃、突然ゴゴゴゴーっという大きな地鳴りが聞こえた。ん?またいつものあれかいな、と思ったらその次の瞬間には激しい揺れが襲った。マッチ箱のような形の建物は倒壊するかと思った。

恐ろしかった。本当に恐ろしかった。

恐怖のあまり、思考力や判断力が停止したのだろう、天井から吊るしている蛍光灯がわっさわっさと揺れるのを私はただ呆然と見詰めていた。

アホやな、さっさと自分の身を守らんかい!!

前年の秋に、本棚の位置を少し入れ替えたおかげで、その棚や書物が倒れこんでくるのは防げたが、もしも模様替えを実行していなかったら……と思うと、なんと偶然なことか、と感じた。

当時未だ携帯電話というものを所持してはいなかったから、慌てて勤務先に電話しようにも全く通じなくなった。ガスと電気はなんとか途絶えることがなかったが、上水道がほどなくして止まった。電話するために公衆電話へ向かったときに見たのは、破裂した水道管から噴水のように出ている水、公衆電話に長い列を作る人々……当時は団地の最上階に住んでおり、下の情報がなかなか入りにくかったのも事実だった。

食器棚も揺れる方向の関係で大きな被害はなく、天井付近の戸棚から一升のヤカンが落下しただけで済んだ。

他、ドライ用の洗剤が棚からこぼれ落ちてカーペットにシミができたくらいで済んだ。
飲用水に困って、最初に徒歩2分の酒屋へ行くと……それどころじゃない、って感じで、床一面に散乱したガラスなどを酒の匂いにむせながらマスターとおかみさんが処理していた。やむなく徒歩5分のスーパーに行くと……あいにく臨時休業。中ではやはり復旧に大わらわ。止むを得ずもう少し足を延ばして、今度は徒歩10分の距離にある珈琲豆の専門店……ここは盲点だった。ミネラルウォーターが売られていた。従業員さんたちはみな徒歩2分程度の所に住んでいたらしく、片付けもおおよそ終了しつつあった。

私の住む北大阪ですら死者が出てしまったが、阪神間から淡路島にかけては周知の通り甚大な被害が出た。後に大阪最南端に住む同僚が言ってたのは、対岸の空が夜になっても真っ赤だったと。
確かにあれは凄まじく燃えていた。ヘリでの映像を見ると、あたかも太平洋戦争時の空襲に遭って、街が壊滅したかのようだった。

この何もかもなくなったに近い神戸の街、震災の被害に遭った街に足繁く通い、被災者の支援のために一人の作家が尽力された。そう、小田実氏だった。昨年8月頃の日記でも書いたが、このときに私の彼に対する認識は大きく変わった。

この震災により人的にも経済的にも大きな被害を受けた関西は、今でも少しはおそらくこの余波が続いているのだろう、景気回復が若干遅い。
そういう意味では震災はまだ終わってはいない。

この年の秋、入退院を繰り返していた母方の祖母が亡くなった。
父方の祖母はとっくに他界しており、私からすれば「おばあちゃん」と呼べる人はこの祖母だけだった。

葬儀に駆けつけた親戚、従兄弟たちと話をするのも本当に久方ぶりだったが、彼ら彼女らの住む瀬戸内海に面した街々でもその震動は相当伝わっていたらしい。電話線が通じてから何回か電話をもらったのだが。

この祖母には子どものときには随分と可愛がってもらった。
帰省すると、ここは海の幸に恵まれたところだったので、ふんだんに瀬戸内の味覚を楽しんだ。赤い卵巣を持った子持ちシャコ、ツナシの酢漬け、ママカリの祭り寿司、焼き穴子、牡蠣フライ、ときには焼きハマグリに活き車海老の塩焼き、……。

近くに潮干狩りのできる海岸もあるので、よくアサリを獲りにいった。十分に砂を吐かせてから貝汁にするんだけれど、それでもときどき碗底に砂が沈む。で、たまにアサリの中に小さなカニとかがいたりする。
メバルの煮付けもよく食卓に上った。あ、そうそう、忘れちゃならないのがイイダコ。小さな蛸の一種なんだけど、卵巣かな、ご飯粒みたいな触感からそう名前がついたんだろう。

幼いときに、杵と臼で餅つきをした。白餅と豆餅と、2種類作ったかな。確かもち米だけよりもうるち米(そこでは「ただ米」と呼んでいた)も混ぜた方が美味しいということで、少しだけ混ぜて作った。

祖母宅の隣に伯父が住んでいて、その伯父がミカン栽培をしていたので、よくミカン狩りにも行ったかな。樹になっているのをもいでその場で食べるとその美味さは格別だった。果汁の鮮烈な味わいに強烈な芳香、ワックスを使っていないから手が粉でピカピカになる心配もなかった。

何だ、食べ物の話しか出てこないぞ!?
こういうのをきっと、食い意地がはっている、って言うんだろな。

あまり帰省しなくなってからも毎年正月明けくらいにはミカンを送ってくれた。庭になっていた柿と、干しエビ、それから豆餅とかも一緒に。
あと、梅漬けも自家製で作っていた。現在スーパーや百貨店で入手できるどの梅漬けよりも確実に美味かった。また麦味噌も作っていたかな。それから梅酒やぶどう酒、いちご酒など、様々な果実酒を作っていたかな。で、ちょくちょく飲んでいた。

おい、子どものころから飲んどったんかい??
それはアカンで!!

珈琲に凝り出してから帰省したときは、近くのスーパーに売っているのが豆ではなく挽いた粉を缶詰にしたものだったので、若干残念だったが、それでも祖母宅で淹れると……大阪で新鮮な豆を挽いて淹れるのよりも数倍美味しい珈琲ができたのには……驚いた。水の力って、本当に凄いなあって思った。

年金生活の合間に、和裁をしていた。しばしば近所の集落の方からも注文があると色々と作っていたらしい。ちなみに妹が成人式に着て行った振袖は祖母の手によるものである。

……色々と祖母には世話になったし、可愛がってももらっていたのに、交通の不便さや忙しさにかまけて墓参もできていない。

たまには行かないとね……。






挫折する前……

2008年01月03日 | 日記
学生時代に寮生活を送ったことは、今となっては私の中ではプラスに作用していると考えている。
学科や回生を越えた繋がり、サークルも越えた繋がり、様々な価値観を持つ人たちとの触れ合い、夜を徹して歩き通すハイキング、寮の祭り……。

寮で悲しい出来事もあった。
3回から4回になる春休みに、1人の後輩を最近見かけないな、と感じた。
丁度階段を上りきったところにある個室(3~4回生用)が1つ空いていて、本当は駄目なんだけれども、私はしょっちゅうその部屋に洗濯物を干していた。他にも同じような使い方をする者もいたし、物置代わりに使っている者もいた。寮の会議でそれは駄目だということになり、その空き部屋へ立ち入る者はいなくなった。
その出来事の起こった日……外出から帰って来た私が下足室で上履きに履き替えていたら、上の方から物凄い大きな叫び声が聞こえてきた。

「うわあああああ~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」

誰の声かは明白だったが、彼が一体全体なぜにそのように叫んでいるのか、全く見当はつかなかったものの、ただならぬ事態が起きているのだけは容易に分かった。
喘ぎあえぎ、両肩でハアハアと大きな息をしながら彼が言うには、今すぐに警察と消防を呼んでくれとのこと。そして……見かけなかった後輩が自殺したと知った。
件(くだん)の空き部屋で、後輩が寂しく世を去った。
自分の手で、自らの生を終えた。
発見されたときには既に時遅し、絶命して数日後だった。

私は空き部屋と同じ階に住んでいたのだが、当日の夜はなかなか自分の部屋に帰る気にならず、寮のみんなと一緒に1階の入り口の事務室で深夜まで過ごした。
一旦は自分の部屋に引き上げたが、事件のあった部屋と同じ階にいるのもなんだか寂しくて悲しくて……みんなのいる事務室に戻ってきた。
翌日は……皆でその部屋の前で、そいつの好きだったバイクにつなぎとメットをかぶせて、好きだった長渕の歌を、朝までみんなで飲みながらさんざん歌って聞かせてあげたな。いつもちょっと浮いている私もこのときにはみんなと同じようにしていた。
同じ階にいながら、なんで気づいてやれなかったんだろう。
炊事場もトイレも洗濯機も共用だったから、顔を合わすチャンスは幾度となくあったはず。
今でも長渕の「日めくりの愛」を聞くとそいつを思い出す。


煙草との出会いはアルバイトがきっかけだった。当時宿直のバイトをしていて、シフトを決めるミーティングに行くと先輩方はみんな喫煙者で、煙たくてしょうがなかった。自分も吸うようにしたらそんな感じはなくなるかと思って吸い出したのが煙草との出会いだった。

水泳は好きだったが得意ではなかった。若い女性の水着姿が見られてええなあ、というのではない。それは全くないわけじゃないけど、飽くまで副次的なもので、ただ単に不得意が得意になっていくのが楽しかっただけ。
1回生の夏休みに、大学の必修単位の水泳合宿があった。泳力別に班が編成され、指導教官と体育学科の上回生が指導にあたるというものだった。このときに初めて平泳ぎと横泳ぎができるようになった。
その夏は、平泳ぎの距離を延ばすことに病みつきになった。合宿から帰ってからも大学のプールに足繁く通い、最終的には2kmになった。今はそんなに続かないだろうけれども。

人付き合いは……ちょっと下手で、寮でも学科でもやや浮いてはいた。
講義をサボっても誰も何も言わない気楽さにかまけて、自分のしたいようにしていた。サボるもんだから学友たちとはますます疎遠になっていった。
そんなわけで当然4回生で卒業などできるわけもなく、複数年留年するということで、これまた親に迷惑をかけることになってしまった。
寮はその設立目的からいって、留年している私が住み続けるのは不適切と判断し、4回生終了時点で卒業ならぬ「卒寮」した。それ以降は片道2時間という道程は決して楽ではなかったが、自宅から通学した。。
それまでは学費も親に出してもらって、親からの仕送りを受けて、なおかつアルバイトもして生活費を捻出してはいたが、大学付近に下宿すると出費もかさむというのも自宅に帰った1つの理由だった。

4年で卒業できなかったら学費は私が出す、そんな約束を入学時にしていたので、それを実行するべく春や夏の長期休みにはそこそこ稼ぎのいいアルバイトに精を出した。絨毯工場や建築内装手伝い……。主に紹介先は学相(学生相談所;当時の文部省の外郭団体)だった。今みたいな偽装請負とか日雇い派遣とかはまだ殆どなかったから。
まあ、学費が半年で12万6,000円と比較的安かったのに助けられたのもあるが、それでも物価の値上がりと比較すればおかしな額である。
さらに私学の学費にいたっては教育の機会均等という国連人権規約に違反するのではと思うような額。2~3回生時は学生自治会では学費値上げの反対闘争にも参加していた。

留年期間の途中で半年ほど、アルバイトにこそ行っていたものの、大学には全く顔を出さない日々が続いた。近年の用語でいえば、引きこもっていた。

翌年、大きな転機が訪れた。音楽の演習で出会った下級生に、大変魅力的な女性がいた。それまで学生時代に好きな人はいなかったわけではないが、その全ては口説きもせずにいきなり告白して撃沈、という過程を辿ってきていた。
その演習で出会った人だけは違った。まさに才色兼備というか、内面的にも決して周りにいる人を不愉快にさせない、それでいて八方美人というわけでもなく、でもって学業成績も相当に、という人だった。
結局彼女は必修単位数の関係で別の演習に移ってしまうのだが、それでもキャンパスではいつも出会うと必ず元気良く挨拶してくれていた。
同じ県の採用試験を受けて、彼女は合格するも私は不合格、それでもずっと好きだった。

それまで私は講義への出席率は30%にも満たなかった。従って、出欠が大きく影響する語学や一般体育などが最終回生まで残っていたので、月曜から金曜までほぼ全ての講義を登録しないと卒業は不可能だったが、根性で90%出席して全単位を習得した。勿論下回生と同じ講義に出席することには著しく抵抗感はあったが、やらないことにはどうにもならなかった。
おいおい、卒論かかえた回生のやることと思われへんって。
卒論は……しんどかった。確か1月20日17時締め切りだったが、それまであんまり準備らしい準備が進んでいなかったので、年末年始も殆ど徹夜を何回も続けて、1日平均1時間くらいの睡眠しかとれずに原稿用紙とペンと格闘し続けた。当時はPCのような便利なものもなく、またワープロも相当に高価なもので、学生でも持っている人は少数だった。年明け以降の講義は、卒論執筆のために欠席させて頂く旨、各教官に頼み込んだ。長年大学にいると、当然何回も同じ講義を登録するわけで、従って教官ともそこそこ顔見知りになった。「あ、こいつまた来おったな!」ってね……。

実は後期がスタートした直後の時点で、確か10月中旬頃か、1つだけレポートの提出が1日遅れて受け取ってもらえなかった。それでその単位が取れずに、翌年その1コマだけ残して留年……と思っていたが、卒業の合否判定の日にはなぜか運よく合の字が私の名前の横に押されていた。実はもう1年というのを覚悟していたので、就職活動もせずに、長期バイトの予約もした後だった。
で、卒業が決まった時点で好きだった人にも告白したが、やはり既に意中の人がいるとのことで、あえなく撃沈。
バイトはキャンセルし、教育職の非常勤でどこか欠員がないかどうか、これは寮の先輩に頼み込んで手配してもらった。


そして養護学校の寄宿舎の臨時教員として、私の社会人生活が始まった。
そこでは、どちらかといえば重度の自閉的障害を持つ子どもたちのグループに配属された。
最初のうちコミュニケーションの取り方に難儀していた私は、いらちでせっかちだった。あるいは、なんとかここで1つの実績でも作りたかったのかも知れない。そうすれば教員採用試験で少しは有利かな、などと下らぬ下心も持っていたのだろう。
あるとき、あまりに言うことを聞かない子ども、といっても中3の学年だが、その子に言うことを聞いてほしいあまり、手が出てしまった。
恥ずかしかった。
激しく後悔もした。
反省もした。
それが如何に忌むべきことであるかは、その後の彼の行動変化を見てもよくわかった。それまで決して他の子どもにちょっかいを出すことなどなかったのだが、その日はそれ以降しょっちゅう他の子どもにちょっかいを出していた。
また、運悪く保護者の方々の「寄宿舎参観日」でもあった。
後で保護者ミーティングに参加された先輩教員から聞かされたが、
「ここの舎では子どもを叩いて教育しはるんですか?」
との質問が出たとのこと。
それよりも、体罰を厳しく忌み嫌っていた自分の方針と全く180度異なる行動を、そのまさに自分自身が取ってしまったということ……それに対する強い自己嫌悪に陥り、しばらくは相当落ち込んでいた。
その私が手を出してしまった子どもとも、私の任期が終わるころにはなんとか意思疎通ができるようになり始めたのか、というかラポールの「ラ」の字くらいかな、がうっすらとでき始めたのか、初めて人間対人間としてのコミュニケーションがなされたときには……本当に嬉しかった。
心の底から涙が溢れ出た。

そしてここの寄宿舎の任期も終えて、夏休みに入ると私は車の運転免許を取る費用を貯めるために、建築内装の手伝いに行った。
夏の終わりから日本海に面した街で合宿免許の教習に行った。運転が下手くそで結構難儀したが。
帰って来たら、講師登録をしていた大阪府教育委員会の事務局から、講師の依頼が舞い込んだ。そして、教育実習を除いては初めて、学級担任として高学年のクラスを受け持つことになった。最初断ろうかどうしようか悩んだのだが、結局これも自分の修業の1つ、頑張ってみよう、と思い快諾した。

が、これがまたとんでもないクラスだったと後で知ることになる。


謹賀新年……

2008年01月01日 | 日記

明けまして、おめでとうございます。

旧年中は皆様にも色々とお世話になりまして……大変ありがとうございました。

本年も、どうかよろしくお願いいたします。


ここ北大阪は、一昨日から大変な冷え込みです。私でも……寒いです。

今日は穏やかに晴れ渡っていますが、若干風が強く、気を抜けば吹き飛んでしまいそうです。

空に少し浮かぶ雲が朝の太陽に照らされて、オレンジ色、なんだか……綺麗でした。

今日、妹が旦那の待つ家に戻りましたので、その都合上、例年より早くの「お正月」となりました。

今朝はテレビで日本各地の初日の出の様子などリレー中継を視て、お節料理とお雑煮、お屠蘇で……朝からお腹一杯*(汗)*になりました。

さっき妹をバス停まで見送りに(荷物持ち?)行きました。

午前中は自宅付近は、本当に人の出ている気配もなく、全く静かで、凛とした、引き締まった空気の新年でした。

皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。