人は簡単に「勝つ」「勝ちたい」って言うけれど、「勝ち方」をどこか「圧倒的」で制圧みたいなのを思い描きがちだと思う。
体躯や状況に、圧倒的な差や不利があったって、「負けておかない」だけの気概と、その仕込みを自身に馴染ませておいた時、勝つまでに時間を要したって「負けてない」うちに遷移していく「なにか」は宿り出すんです。
「まだ勝ててない」うちこそが、
「負けてない」こそが、
継続できて、初めて「勝ちに向かえる」のであり、その引き寄せと天啓はまさに「もぎとれる」と信じた側に軍配を上げます。
いい?
まだ勝ってないみんなへ。
「負けてない」まんまで踏ん張るんだ。
勝つためには、負けてなさが必須なんだ。
「まだ、負けてない」だけが、兆しを君に与えてくれる。
諦めれるし、投げ出すこともできる時に、君はそれをしないでおくしつこさを持つんだ。
当たり前に勝つよりも、うんと長く「負けないでいた」を経由した勝ち方をもぎ取るには、粘るしかねーんだ。
粘れ!負けるな!勝てとは言ってない!負けるな!負けるな!

この1カット見たさに本屋で雑誌とコミック買いました。

ほんの1モーションが脳に焦げ付いて、この夏が乗り切れるほどの高揚をねじ込まれてます。
そのエモーションには鮮度があって、いつか途切れて、いつか霧散する日があるのを知りつつ、記憶の中で「最初にそれを見てしまった」がために、延々脳内でリフレインが叶い、幾度でも奮い立ち直れる自分がいます。
そこに立ち戻るごとに、とろ火になりかけたガッツが火炎になって、くじけるなんてどんなだっけ?みたいな万能感でパンッパンッになれるんです。
延々、誰にもそばにいてもらえない時間をひとりすごした記憶のある人は、そこにふいにさしのべられた「あなたを認めます」というシンパシーに、くるおしいほどぶざまで、かっこわるくって、弾けきった歓喜で満ち満ちます。
一人で過ごせてた時間が、誰かとすごせてた時間のをくぐったあとでは、彩りとパンチ力がてんで見え方を変えるんです。
そののちに、仮に一人に戻ったって、もうその人には宿ってしまって、刻まれてしまった嬉しさが、隠しようもない無尽蔵さで、自らのうちに泉が滔々と湧くのでした。
だから、どんなものだっていいので、そうした「自分ではどうしようもないほどの動転」に出会うまで、人は延々、悶々、粛々、忸怩、諾諾、混沌の森を突き進んでおけばいいのです。
たった一回のターニングポイントで、その分岐からまるで生き直すみたいに、人は晴れやかにたちのぼるからね。
もう、一回知ってしまえば、こっちのもんさね。
YouTubeで聞きよし♪

世界同時多発「Windows障害」、米国の「911」が大混乱を避けられた納得理由
一ヶ所の齟齬が、全世界に機能不全を巻き起こす時、果たして利便とやらは切れ味の良い諸刃を内側に向けた。
これにフェールセーフが仕込めているのか?
今回機能があったろうか?甚だ疑問な結果は無惨だった。
国内のフェールセーフ弱きデジタル化は施政側も大臣もどうも胡散臭く信用が希薄。有事に国民に冷たい徴税一本槍の、脱税与党ですんで「信用」を取れようもない。
すると閣議決定の頻発、国会軽視で強行の連発になった。
信用できましょうや?
蘇州日本人学校送迎バス襲撃から1か月 警備は大幅強化も「日本人狙っていない」の説明に「みんなそうは思っていない」の声も 情報開示に消極的な中国側に懸念
国内世論の醸成と、利するもののうちは積極的に喧伝すること。
それらには積極があるのと好対照。
等配分に正確さや正直があればこうは疑われないし、不信も囲わないで済ませられる話。
払拭できないものとして募る不信には相応の所作でまみれてもいるからでしょう。
そもそも「払拭が要る」やり口が常態化し過ぎてるを誹られるといいのに、無理でしょうね。