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かつて、あんなに恐怖に心震えて、逃げ出したくなる衝動だけで胸が一杯になったことたちが、今や経験値を得て、微笑みすら見せながらも、怖いながらでも、姿勢は違えて進む足取りを得てる。
わからないこと
こわいこと
最初は狼狽し、猜疑に苛まれ、人も責めた。
そんなのなんの役にも立たないけれど、なにかしてないとおかしくなりそうなほどの心細さで、実際起こること以上に過分な思い込みが、身も心も焼いた。
その弱さを知ってからは、こういうのもかと心得もできるようになった。
できたからといって、きっと多分事態は少しの猶予も変遷も起こしてはいない。
それでも、顔つきと足取りにはこもるものが宿ったし、そうしたなけなしの勇気ひとつで、やってくんだと諦観を胸にしたのは、大きな財産だった。
生きるってのは、きっと「解釈」。
どう捉えても答えをくれ、どうしくじって、どう歪でも、あなたには「そう、という真実」としてまごうことなき本当になる。
あなたがそうなぶん、人にもその余地を「いいよ」ってわたさないとね、フェアにならない。
自分には許し、人には許さないことを「品位がない」とする。許さない分は許されない分でもある。
卑怯に甘んじたり、日和見に過ごせば、自身が穢れ、真っ先に自身が「敵対の側」に配置される。
怖さの分量は重さを変えないけれど、そのまま怖いけどって爪先が向かえるんで、人は進むってだけのこと。
怖さって怖いまんまなんだ。
なのに進めてるってのが、強くなったってことなんだと思う。
まんまなんだよ。
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