忠犬

2014-06-23 17:52:04 | Weblog
忠犬と打ち込もうとしたら、中堅と出てきた。仕方がないから忠実と打って犬を打って、やっと出来上がり。忠という言葉自体があまり使われない時代だからかしら。それでも現実に今でも世界のあちこちで飼い主の子供を守ろうと自分より大きな敵に勇敢に挑んでいく犬や猫の話は今の時代でもたびたび出ている。忠実という言葉が流行らなくても、太古の昔から人間のよき友だった動物たちは今でも何かあれば子供たちを守って戦うのだ。

今日のニュースでお手柄の犬、めごちゃんの話を読んで、ふと昔我が家にいた北海道犬のロクという犬を思い出した。これは血統書つきのいいお値段の狩り犬だったのが、普通の家庭の愛玩用になったために甘やかされてどうしようもない出来の悪い犬になってしまった見本のような犬だった。

性格は悪くないのだけれど、甘ったれで人間が誰でも自分を可愛がってくれるものと思い込んでいたふしがあって、よその犬が近づいてきても尾っぽを振って待っているばかり、いきなり噛み付かれてみてやっと悲鳴を上げて逃げるという情けなさ。だからうちの猫たちにも馬鹿にされていたものだ。

猫は親子で、子猫のときに大怪我をしているのを拾われてあのころは犬猫病院も田舎にはほとんどなかった時代に、猫好きだった亡母が子供の私がこのままでは死んでしまうよ、助けてよと騒ぐとすぐに猫の治療費を出してくれたおかげで命を助かった白黒のタキシードのメス猫とその猫がお母さんになって生まれた大きな鯖トラのオス猫がいて、ロクは猫親子より家の中でのランクも下だった。だって犬のくせに猫より役に立たないおバカ犬だったのだから。

どうしようもない犬だったけれど、なぜか今でも忘れられない。この子のもっと前にいた雑種のチビという犬は、それこそ忠実の見本のような犬で、頭もよく、気立てもよく、父に可愛がられていた。父としてはロクにもチビのような犬になってほしかったのだろう。でも現実はおバカさんだった。そういえば父はロクはお前とそっくりだと言っていたのも思い出した。そういえば確かにそうだ。犬は飼い主に似るというけれど、今思えばまったくそのとおりだったわけだ。それでもいいさ、犬って、いや、犬も猫も、いつの時代でも人間の最善の友なのだもの。傍にいるだけでいい。

いよいよあと1週間ちょっとでplalaのブログは読めなくなります

2014-06-22 20:38:37 | Weblog
こんばんは~、お久しぶりのマリーで~す。

といっても今日はほとんどご挨拶だけで終わりなのよねえ。今日はもうじきplalaのほうが本当に終わっちゃうから一応もう一度ちゃんとお知らせしとくんですって。あと1週間ちょっと、6月30日の夜中の12時でおしまいよ。心配なのは外国から見てる方々、わかってるのかしら? まあ全部消えてしまえばわかるけどあっちに載ってるgooのアドレスも消えちゃうんだわさ。こうなったらもうあたしじゃ手におえないからなるようになるってことね。

夜中の1時、2時過ぎるとplalaに見にくる人たちがいて、時間から観て日本じゃなくて地球の裏側あたりからじゃないかっていうんだけど、どうしようもないもんね。どういう人たちなんだかさっぱりわからないんだけどさ、なんかやきもきしちゃうわ。

それはいいけど、うちのおばはん、今日は朝から原稿のほうの出だしを考えてるだけで一日過ぎちゃったのよ。まとまってきたのはまだほんのちょっぴりだけど、出だしが突破できればあとはなんとかなるんですって。出だし、あの人が考え付いたのはすっごく変な話で始まるのよ。いったいあれでどういう方向に話を進めるのかしら。あ、ちょっと待ってね。テレビでジャック・スパローが登場する場面だわ。うちのおばはん、この映画何度も観てるのに飽きないみたいよ。自分のDVDだってもってるのに馬鹿みたい。テレビに見とれちゃってるからこれはもうだめね。

おんなじ海のはなしでも海賊のジャック・スパローと何億年も何十億年も昔の氷の海じゃまるで大違いだわ。ま、いいか、とにかくあの人、海賊のほうに気持ちが向いちゃってるからこの話はおしまいにしとくわよ。わるいけど、ほんじゃまたね。




海つながりのおまけ(全然違う海だけど)

春の海(箏曲です。日本の美しい風景とともに)Haruno Umi



スイッチオン

2014-06-22 05:17:03 | Weblog
昨日の自分のブログの訪問者数を見ると、ぐっと減って100人に満たない数になっていたが、本来こんなものだ。今月はplalaからgooに移ったばかりで、gooではどんなことが出来るのかあれこれ試して、youtubeから好きなものを載せてみたりしている分、閲覧者数だけは多いが、これはあくまで変則的な状況だ。

アクセス解析も真実の数をつかむためにブログフォトに変えたから今後の目安は平均値に届く程度でいきたいと思う。自分が書きたいものを書くという方針を見失っては書く気がしなくなるのだ。読んでもらうのも大事だけれど、書きたいことが書けないのでは意味がない。

これは売り物ではないし、書き手が書くこと自体を楽しんで書いてこそ読む人にも伝わるものになるのだと思う。これも書くし、原稿のほうもなんとなくこれならというものが生まれてきているからあちらも進める。

アクセス数より自分が書きたいことでいきたい。youtubeの好きなものは今までと同じく時々出すけれどそれだけになってはつまらない。読むこと、書くことを楽しむ場にしたいところだ。

今、毎日心に浮かんでくるのは今は亡き父母や妹、それに父方母方の祖父母、おじ、おば、遠縁の人達の記憶だ。要するに今の自分を作ってきた構成要素のような人々の記憶だ。手持ちのテーマを動かしていく土台はやっぱりじかに見てきた人々がモデルになるらしい。


今週もまだ長崎浜串教会の中田師の説教ブログ丸ごと

2014-06-21 20:14:57 | Weblog

(運用中)ケータイで録音説教を聞きたい方はこちら
↓↓通信料がかかります。ご理解の上、ご利用ください。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/i/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140622.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/06/22(No.715)
‥‥‥†‥‥‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
キリストの思いを分け合う者として生きよう
‥‥‥†‥‥‥‥

黙想会に行ってまいります。皆さんの平日のミサができなくなるのでご不便をお
かけしますが、前にも話した通り、迫害の時代に信徒だけで260年間信仰を守り
通した、長崎のキリシタンの日々を思いながら、信心業を通して信仰を維持し続
けていただきたいと思います。

わたしが黙想会に行くと、ホッとする生き物がいるはずです。船隠しの沖と言い
ましょうか、神ノ浦の沖と言いましょうか、そこで悠然と泳いでいる真鯛は、一
週間ほどは確実に生き延びることができるからです。ただし一週間だけですけど。

梅雨に入ってから、数えるのも面倒になるくらいの真鯛を釣りました。何人かは、
お裾分けにあずかっているはずです。釣れたのはほとんど真鯛でした。どうして
ほかの魚は釣れないのかなと思っていたのですが、先週はその原因の一端に思い
当たりました。

それは、仕掛けを巻き上げる速さに原因があるのではと思っています。そこで、
海底から10mは、これでもかというくらいの遅い巻き上げをしてみました。する
と、今まで食いついてこなかった魚があれこれ釣れました。あの釣りは言わばパ
ン食い競争の進化したもので、ぶら下がっているパンは一定の速さで移動してい
ます。足の遅い魚はいつまでたってもパンに食い付けませんが、真鯛は足が速い
ので、毎回食いついてくるのだと思いました。他の説明があれば、あとで聞かせ
てください。

魚のおすそ分けにあずかった人は、食卓の一部を、わたしの釣った魚で分け合っ
てくれた人々です。一つの食べ物を、多くの人で分け合うということは、多くの
人が、同じ一つの食べ物で、同じ喜びを味わうということになります。

食べ方はいろいろだったかもしれません。わたしは塩コショウをして、蒸し器で
蒸して、ポン酢で食べました。皆が皆そうだったわけではないでしょうが、一つ
の食べ物が、多くの人に渡っていくと、喜びも大きくなる気がします。

今日はキリストの聖体の祭日です。イエスは、ご自分を食べ物として用意して、
多くの人がその食卓にあずかれるようにしてくださいました。イエスがご自分を
食べ物としてお与えになるとき、たとえば日曜日には、何億人もの人が一つの食
べ物を食べ、喜びを分け合うのです。

わたしたちは、食べ物によって人間の体がある一定の方向に形作られることを知
っています。肉を食べると言っても、鶏肉を中心に食べる人、豚肉を食べる人、
牛肉を食べる人、それぞれが形作られていく方向は違ってくると思います。また
は、野菜を中心に食べる人、お米を多く食べる人、それぞれの体がある一定の方
向に仕向けられていくわけです。

ではミサに参加して、聖体をいただく人々は、どのような姿に形作られていくの
でしょうか。ご聖体は、小麦粉で作られたパンの小さなかけらです。ですから普
通の食べ物のように、拝領したことで筋肉を作るとか繊維質を摂取するとかそう
いうことではありません。けれども、キリストの御体と御血は、すべての人にと
って同じ一つの食べ物ですから、きっとすべての人がある一定の方向に形作られ
ていくのではないでしょうか。それは、どのような姿でしょうか。

2つの考え方を示したいと思います。1つは、永遠の命を得、復活へと招かれてい
くということです。ご聖体をいただくことで、わたしたちの中には永遠の命が常
に保たれ、この状態が保たれているので復活へと招かれることになります。わた
したちは時間と場所の制約の中でしか生きられませんが、その有限の体に、永遠
の命が保たれるのです。それは、「キリストの体がそこにある」ということなの
だと思います。

もう少し踏み込んで言うと、聖体を拝領するとは、キリストの体の一部を持つと
言えるかもしれません。さまざまな人がいます。職業も、置かれている環境も、
健康状態もさまざまです。こうした人が同じ一つの聖体をいただき、キリストの
体の一部を持っているのです。理解できる人、どうしても理解できない人、受け
入れることができる人、どうしても受け入れられない人、さまざまな人がいます
が、同じキリストの聖体によって養われたキリストの体の一部なのです。

もう1つの考え方は、キリストの聖体を受けたなら、「キリストのように考え、
キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」人に
向かっていくのではないでしょうか。

しかしながらこの考え方は、先の考え方よりも理解するのが難しいかもしれませ
ん。「わたしはキリストのように考えているけれども、あの人はそうではない」
このように考えてしまうからです。わたしと正反対に行動する人、考える人が、
どうしてキリストのように考え、キリストのように行動している人だと言えるで
しょうか。

正反対の考えや行動の人ですが、わたしたちは皆、イエスによってこの食卓に招
かれました。そして間違いなく、この祭壇から、一つのパンをいただいています。
それは、イエスが一人ひとりに、ご自分の御体と御血を分けているのと同じです。

イエスが食べ物となって、違う考えの人同士が一つの同じ喜びを味わえるように
してくださったのです。イエスが可能にしてくださったことを、わたしのほうか
ら「わたしとあの人とが同じ喜びを分け合うなど、そんなことができるはずがな
い」とどうして言えるでしょうか。

そこで今週は、お互い一つのことを思い巡らすことにしましょう。わたしたちは
一つの祭壇から、同じ一つのパンを分け合っていますが、意見を出し合うと食い
違うことがあります。対立することさえあります。どのようにしたら、同じ一つ
のパンを分け合った者同士、協力できるでしょうか。そのことを考える週にして
ください。

キリストの聖体を受けて、およそ一週間聖体を拝領できないかも知れません。聖
体を受けて永遠の命を与えられ、復活に招かれました。さらにキリストの思いを
分け合う者同士、一致して神の国のために働くことができますように、ミサの中
で恵みを願いましょう。
関係の無い方には申し訳ないのですが、今月は話の森ホームページのほうには説教ブログが載らないので丸ごと転載しておきます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会はいつも喜びを神に感謝する期間となっている。わたしたちは司祭とし
て、しばしば多くの教会で黙想会の準備をしている。黙想会に参加する人が、何
かを得て帰るのをこの目で見ている。
▼その中でも、回心してもう一度教会とのかかわり方を見直す人がいることは本
当に喜ばしい。これまで、何年も教会から遠ざかり、無関係に生きてきたという
人が、何かのきっかけを得て、もっと神の恵みに近い場所で生活することを選ぶ
ようになる。それを見ることができるのは司祭冥利に尽きると言ってよい。
▼ただ、その光景を見るのは司祭が小教区などの黙想会にいるときの話だ。これ
から司祭同士で、黙想会をすることになる。そこには、教会から何年も遠ざかり、
これからはもっと恵みに近づいて歩んでいきますという姿は見られるのだろうか。
▼ちょっと、表現が適切ではないかもしれない。けれども、司祭同士で黙想会の
中で自分を省みるとき、そこには回心があり、放蕩息子の例えが当てはまっても
よさそうな気がする。実際に、そういう恵みが与えられる人がいるかもしれない。
▼黙想会は、さまざまな人にとって、恵みの時だ。ミサの中でキリストの聖体を
いただくのが恵みの頂点だと思うが、ある意味、黙想会は違った形でキリストの
聖体をいただく期間かもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第322回目。7月3日、聖トマの霊名のお祝い。巡回教会からプレゼント。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/140622.jpg

善き牧者の十字架と福音の喜び

2014-06-21 15:44:24 | Weblog
吉祥寺教会で北島神父様の宣教地でのお話をうかがい、とても面白くもまたさまざまな考えさせられることに心が揺れ動き、帰りにそのまま四ッ谷に出て、聖イグナチオ教会の案内所で、北島神父様の宣教地アルゼンチン出身のフランシスコ教皇様に因んで、教皇様が昔から好まれ、今も胸にさげておいでの善き牧者のデザインの十字架を買ってしまった。

映画「大いなる沈黙へ」のチケットを買うつもりで案内所に入ったのに十字架を見たとたん、先程うかがったばかりの北島神父様のお話と重なってほしいと思ったのだ。ありがたいことにお値段はごく安かったし、これならお財布の中身を気にせずに買える。

この善き牧者の十字架、北島神父様からうかがった実際の教皇様のお姿にぴったり重なるようだ。日本では想像も出来ないアルゼンチンの現実の中から誕生した教皇様だからこその今の教会への働きかけなのだなあ、と日本しか知らない自分にもちょっぴりわかったような気がする。このカトリック教会というところには、色々問題も多いけど、そこから本当に素晴らしい方々の働きも実際に生まれているのをあらためて教えられた一日だった。北島神父様ご自身がまたなんともすごい方なのだ。

ついでに聖三木図書館によって、売り切れで手に入らなかったフランシスコ教皇様の、福音の喜びを借りてきた。たぶんここならあると思ったら、やっぱりあったので即借りることができたのもありがたい。

我ながらこういう本を読んでみようという気になったのは本当にめずらしいことなのだ。それくらい今日のお話しはインパクトがあったということかもしれない。

※ 北島神父様の話の追加


今日の吉祥寺教会、北島神父様の講演で聴いた、アルゼンチンでの神父様のところの賄いさんとまだアルゼンチンの枢機卿様だったころのフランシスコ教皇様との出会いの話、高級車ではない、ごく普通の乗り合いバスで悩みを抱えて座っていた賄さんに心配して声を掛けてくれたどう見てもどこにでもいるような普通のおじいさん。教会に着いて前のほうに座るように進められた賄さんが断って後ろに座ってみていると、司祭の入堂がはじまって入ってきた行列の一番後ろの美々しく厳かな祭服を着た高位聖職者の顔をみたら、さっきのおじいさんだったというはなし。何だかいかにもフランシスコ教皇様らしい出来事だと思った。



「ノア  約束の舟」 も観てきたけれど

2014-06-20 19:46:09 | Weblog
今日は金曜日なので久しぶりに吉祥寺教会の昼ミサに行くことにした。周辺に学校や企業も多く、交通も便利な四谷のマンモス教会では毎日昼ミサがあるが、吉祥寺は金曜日だけ昼ミサがあるのだ。あの大震災でしばらく遠出するのが怖くなってしまい、しばらく、歩いて通える範囲以上の外出がいやだった時期以来、吉祥寺教会にも行くようになった。ただ、なんといっても四谷は問題は多くても若いころからのなじみで友人知人も多いから簡単には離れる気がしないのである、

今日はちょうど金曜日で、吉祥寺教会に行ってみると、知らない神父様が登場し、なかなかよいお話をうかがう事ができた。初めての方だったので吉祥寺の信者さんになんとおっしゃる方なのか尋ねると、Agustin北島神父様とおっしゃって、アルゼンチンで働いていらっしゃるのが今は一時帰国中なのだそうだ。神言会の神父様は、レデンプトール会と同じくどちらかというと宣教の第一線の現場で働いておいでのイメージがあるのだが、北島神父さまもそうだ。

今日の説教で、少々チクッと痛かったのは、どこの国でも日本流がよいわけではないということだった。日本では、資源ごみも自治体が管理するところが増えて、それはそれでよいのだけれど、今までそれで多少のお金を得ていたホームレスの人たちは関与できなくなっているくらいだから、今の日本でカトリック国の考え方を言ってもどうしようもないのだけれど、豊かな人も貧しい人、ホームレスもふくめて、みんながそれなりの居場所、役割を認められている国というのもあることを考えさせられた。

日本人の価値観や効率だけがすべてではない考え方もあるということも、ちょっと覚えておいてもよいのかもしれない。明日、吉祥寺教会で北島神父様の講演会が、1時から2時半まで、大ホールで開かれるそうなので明日も聴きに行ってみようと思っている。

ミサが終わってからその足で吉祥寺駅前の映画館に行き、今日観る予定ではなかったのだけれど、ちょうどよかったので『ノア 約束の舟』を観た。これは新宿で観ようと思っていたのが吉祥寺でも上映していることがわかって急遽、予定が変わったのだった。

ノアというのは旧約聖書、創世記のあのノアだ。いったいあの物語をどのように描いているのか、興味津々、非常に評判もよいし、これは観なくてはと思っていたので渡りに舟、正直な話、これほどの内容とは驚いた。見事な映像、すばらしい俳優たち、ストーリーの展開、聖書のたったあれだけの短い話が人間について、家族について正義と愛について、本当にさまざまなことを考えさせられる。ノアの箱舟、いくらなんでもノアと家族だけで作れるはずはないと思ったら、もともとは光の天使のような姿形の存在だったひとびとが落ちて、泥にまみれ、どうしようもない巨大機械人形のような存在にかわりはてていたのが、縁あってノアに協力することになり、箱舟製作を手伝うことになったというストーリーになっていた。

巨大機械人形のような人々はノアに協力し、神様の思し召しを果たすことに協力して反対者たちと戦って殺されると、元の光の姿に戻って天に帰っていくのがなんだか感動的だったのは私だけだろうか。

そしてノアと家族の対立、これではまるでノアは不条理の塊のような親父ではないか、そんな父親の元におかれる家族はたまったものではないと思っていると、実はノア自身も苦悩していたりする、これ以上は説明しないのでご自分で映画を見ていただきたいと思う。本当にすばらしい作品だと思う。平日の昼間から、都心から離れた吉祥寺の映画館でさえ多くの観客が入っていたということ自体、この映画のすごさを語っているようだった。



Gojira 1954 Main Theme (ゴジラのテーマ)

2014-06-19 13:11:53 | Weblog
今日はちょっと趣向を変えて、映画の初代ゴジラのテーマソングなどを。というのも今度の2014年版ゴジラのプロモーションを見て、これはぜひ観に行かなくてはと思ったのでした。修道院の生活の映画(大いなる沈黙へ)も観に行きますが、ゴジラのようなエンターテインメントでありながら、何か考えさせられる作品というのも見逃せないと思うので。



Gojira 1954 Main Theme (ゴジラのテーマ)




おまけ)

映画『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』予告編

世間話

2014-06-19 12:21:20 | Weblog
木曜日のお昼時、たまたまNHKテレビをみたら、ちょうど「サラメシ」が始まったところだった。はじめに取材されていたのはなんと沖縄の水族館の獣医さん。

動物園の獣医さんなら知っているけれど、水族館の獣医さんは考えたこともなかった。いや、そういえばおなじみの秋田の男鹿水族館、ホッキョクグマがいるし、やっぱり獣医さんがいないと困るのね。おさかなさん達だけが水族館の住人ではなかったわけだ。ペンギン、あざらし、いるか、考えてみると水の中で活動する動物もいろいろな種類がいた。獣医さんのお仕事はたくさんあるのね。

そうか、動物園にしても水族館にしても、つい、人気者の動物たちには目がいくけれど、この子たちが元気に生活できるようにしている獣医さんや飼育担当者の方々のサラメシのことは、ついぞ考えたこともなかった。NHKさんもよいところに目を向けたものだ。

そういえば話は変わるが、今日の別のニュースでは、なんと都議会でものすごく女性として腹立たしい失礼な野次が飛んだらしい。『男性の声で「早く結婚しろよ」「子供もいないのに」などのヤジが』という見出しに驚く。そんなことではこの国、女性のパワーを生かすどころの騒ぎではないだろう。

妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援の必要性を訴えた女性都議に対し、というところも、現実に周囲に結婚して切実に子供の誕生を願っていたのに、何年経っても子供ができない、できても流産を繰り返して、そのうちに再生産可能年齢をはるかに過ぎてしまった方々を実際に自分で見ていたら、とてもそんなことはいえないような話ではないか。こんな野次を飛ばす都議を選んでしまったことが残念だ。今の時代、本当にそういうケースがいかに多いかも知らないのかしら。

国の成長戦略になんとカジノなどを取り入れようというとんでもない方々が政治をつかさどる時代ではなんでもありなのかもしれない。お金が絡むところにはハゲタカが群がってくるというのに、まったく何を考えているんだか。